トップへ

「21世紀のR&Bバラードは90年代の余韻」松尾潔の考える、R&Bの変わらないスタイルと美学

2015年11月28日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

松尾潔。

 今年6月に音楽評論集『松尾潔のメロウな季節』を上梓した松尾潔氏を、3時間半に渡るロングインタビューで直撃した、栗原裕一郎氏による連載『栗原裕一郎の音楽本レビュー』の特別編。前編【松尾潔が明かす、R&Bの歴史を“メロウ”に語る理由「偶然見つけたその人の真実も尊重したい」】では音楽ライターとしてそのキャリアをスタートさせ、R&B界の大御所を次々と取材する一方、作詞家、作曲家、プロデューサーとして平井堅やCHEMISTRY、EXILE、JUJUなどを手がける同氏の書き手としてのキャリアを深堀りした。後編ではR&Bの歴史と美学、日本の歌謡曲への影響、さらに歌詞分析に偏重しがちな日本の音楽評論についてなど、刺激的な討論が繰り広げられた。(リアルサウンド編集部)


――日本におけるR&Bの需要が本格的に始まったのって、1980年代後半からという理解でいいでしょうか。


松尾:もちろんそれ以前も好事家に支持されてはきましたが、商業音楽としてメインストリームに入ってきたのは80年代の後半という印象があります。ボビー・ブラウンも日本で広く知られるようになったのは88年くらいですか。彼はTBCのCMに出演したんですよね。黒人男性スターがエステ会社のコマーシャルに登場したのは、当時としては画期的でした。70年代にサミー・デイヴィスJr.がサントリーホワイトのCMに出演して人気を博したことが長らく「例外の例」として語られてきたほどで、ボビー以前に食品や美容の広告にアフリカ系のスターが起用されるというのは基本的にはありえないことでしたから。


――前回も話に出ましたが、久保田利伸のデビューが86年。岡村靖幸もソロデビューは86年ですね。その頃、岡村ちゃんがブラック・ミュージックをやっているらしいと思った人がどれほどいたか。ボビー・ブラウンも「ボビ男」に象徴されるように、六本木のディスコあたりの風俗としてまず広がった印象でした。


松尾:そうですね。ボビー・ブラウンとM.C.ハマーの2人は特別な存在でした。ボビーはダンスがあれだけ得意でしたから、「ビジュアル言語において饒舌なミュージシャン」という見方をされていましたね。アメリカ国内では彼に匹敵するステイタスのシンガーは結構いましたし、M.C.ハマーが流行していた同時期にアメリカではN.W.A.も人気爆発していました。でも日本においては、R&Bにせよヒップホップにせよ、ダンスの上手なスターに言語の壁を越える力があったということでしょうね。その余波として「ダンス甲子園」なんていうテレビ番組の企画もありましたし。


――「ダンス甲子園」! LL BROTHERS! 山本太郎!(笑)


 当時はそもそもニュー・ジャック・スウィングがどういうものなのかとか、それが黒人音楽としてどういう位置づけなのか、たとえばマイケル・ジャクソンと同じ種類の音楽なのかとか、自分自身も含めてあまりよくわかっていない人が多かった気がします。イメージが固まり出すのは90年代に入ってからでしょうかね。


松尾:ファッションも含めて、R&Bという言葉で喚起されるいろいろなイメージが、90年代に入ってから完成したということかもしれないですね。ヒップホップなら太めのシルエットのデニムジーンズにアウターとか。


 ボビー・ブラウンは、ジャクソン・ファイヴ(J5)のフォロワー・グループである黒人キッズ・グループ、ニュー・エディション(NE)のメンバーでした。マイケル・ジャクソンがソロ活動に軸足を移した後に、モーリス・スターという目ざとい黒人プロデューサーがNEを立ち上げました。でも成功を収めた後にモーリスとNEは決裂してしまう。ただでは転ばないモーリスは、白人メンバーだけならもっと儲かるだろうと見込んで、今度はニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを世に送り出す。彼らが日本を含む世界中で現象的な人気を博したのはご存じでしょう。そんな具合に「J5的なグループ」というイメージが伝播拡散した後にスピンオフしてきたのがボビー・ブラウンなんです。そう考えると、本来はマイケル・ジャクソンとボビー・ブラウンは繋がっているはずなんですね。ボビーが「ネクスト・マイケル・ジャクソン」というイメージで売り出そうとされていたのは明らかですし。


 その後、ネクスト・ボビーという位置付けでアッシャーが、そしてクリス・ブラウンがデビューしました。クリス・ブラウンに至ってはもはや中間を飛び越えてネクスト・マイケルというイメージを抱く人もいるかもしれませんが、彼自身も明らかにそのイメージを意識した音作りすることがありますね。


 マイケル・ジャクソンという人物は、ブラック・コミュニティーの中で一定の存在感を持ったミュージシャンであると言えますが、ただ、ああいう人なので……誤解はついて回りましたよね(苦笑)。スパイク・リーが『マルコムX』の製作で資金難に陥ったときは出資者に名を連ねましたし、『ゲット・オン・ザ・バス』という映画を撮影したときにもマイケルは「On The Line」というベイビーフェイス作の素晴らしいバラードを提供しています。つまりアフリカ系の出自が問われるような場面で積極的な態度をとってきた人なんですが、なにしろ見た目がああだったので、アメリカ国内でも彼の思いは伝わりづらかったのかもしれません。


 マイケルは実はアフロ・セントリックとさえ言える思想の主でした。肌の脱色疑惑については、実は尋常性白斑だったということが今では明らかになっています。ストレートヘアーや、黒人固有の特徴からかけ離れてしまった鼻や顎の形状の極端な変化を、彼の「白人と同化したい」という強い気持ちの証左とする見方は根強いですが、仮にそうだとしても、それは非白人にしかありえない心情ですから。


――変身願望ですもんね。


松尾:マイケルも、自分の心情がアフリカン・アメリカンであるがゆえのものだと自覚していたと思います。アフリカン・アメリカンのコミュニティのおばちゃんたちが好んで読む雑誌では、当時「肌の色を変えることが良くないと責められるのなら、髪の毛を直毛にすることはどうなんだ」というような論争が盛んに行われていたものです。結構な時間や手間をかけて、彼女たちは縮毛を矯正してきたわけですからね。今ではぼくもその手の雑誌を以前ほど読まなくなりましたが。


 黒人がサラサラの髪をしていることに対して、日本人もさすがに最近は違和感を覚えなくなってきましたよね。子供の頃ぼくたちが黒人に抱いていたイメージってアフロだったわけですが、今の20代の人たちにはそういうイメージはないでしょうね。


――(編集部20代N氏)ないです。


松尾:今の若いブラックの男の子たちにはスキンヘッドにしている人も少なくないですが、それってマイケル・ジョーダン以降なんですよね。最初は若ハゲ隠しだなんて陰口も囁かれたジョーダンのスキンヘッドでしたが、だんだんとかっこいいものとしてアスリートやヒップホップ・ミュージシャンのイメージとして定着していきました。日本でも円山町あたりのヒップホップ系クラブに行くとたくさんの男の子たちがスキンヘッドにしていますが、ヒップホップが好きなら日本人でも坊主頭にするというのも、考えたらおかしな話ですよね(笑)。


・ブルーノートの刷り込み


――松尾さんがブラック・ミュージックに開眼したのはお幾つくらいの頃だったんですか。


松尾:父親がジャズ好きで、自宅ではジャズのレコードが普段から流れていました。彼の聴く音楽を自然と心地よいと感じるようになっていったんですが、そこでブルーノート・スケールの刷り込みがなされたんでしょうね。クラシック・ピアノも習っていたんですが、ピアノ教師に教わる音楽とはどうも違う。スケールの違いのような細かいことまで考えたわけではないですが、子供ながらに「この違いはなんだろう。お父さんの聴いている音楽のほうが気持ちよく感じるし、大人っぽくてかっこいい」と思っていました。大人っぽく感じたのは、父親がお酒を飲みながらジャズを聴いている姿を見ていたからだと思いますが(笑)。


 ブラック・ミュージックが好きだとはっきり自覚したのは……中学の1、2年生の頃だったと思います。最近、実家に帰ったときに小学生時代の寄せ書きを読み返していたら「好きな歌手」が書いてあったんですが、そこには特に黒人ミュージシャンの名前はなかったですね。普通にYMOとか松任谷由実、山下達郎の名前が書いてありました。


――ほほう、すごく普通ですね。松尾さんがユーミンというのは意外ですけど。達郎はちょっとマセた感じですかね。


松尾:達郎さんやユーミンは65年生まれの姉の影響があったからだと思います。小学生の終り頃から中学にかけてアース・ウィンド・アンド・ファイアーやクインシー・ジョーンズのヒット曲をラジオで何となく聴くようになって、その種の音楽にやたら耳が反応していることを自覚するようになりました。


――そこでブルーノートの刷り込みが発現したわけですね(笑)。


松尾:ぼくは博多の出身ですが、周囲には、セックス・ピストルズなどパンクロックが好きな人たちが多かったんです。でもそういう音楽には今ひとつ乗りきれない自分を感じていました。学校ではわかる振りをして、物分りの良さをアピールしながらロック好きの友達と会話していましたが、腹の底では「ディストーションが強いギターの音って苦手かも」なんてことを思ってたんです。


 高校生になってバンドを始めるんですが、バンドをやるような友達は大抵ロック志向なんですよね。自分はジョニー・ギルとか、ジェフリー・オズボーン、ライオネル・リッチーなんかを友達と演奏したいと思っていたんですが、誰も賛同してくれない(笑)。まず、彼らがどういうミュージシャンなのかというところから説明しなければいけないような状況でした。折衷案としてポリスやスタイル・カウンシル辺りをやってみたり。


 ただ、ぼくは中学2、3年生の頃から中古レコード屋なんかに入り浸っていまして、年上のおじさんたちから、なんというかこう……


――手解きされた?


松尾:そうです(笑)。誕生日のプレゼントにビル・ウィザーズのベスト・アルバムをプレゼントしてもらったり、「あんた本当に面白い趣味しているね、これあげるよ。おカネなんかいいから」とレコードをもらったり、というイイ話もあります。いまだにその頃のおじさんたちとはお付き合いがあるんですよ。


――いいエピソードですねえ。今、ライオネル・リッチーの名前が出ましたが、西寺郷太さんが最近出された『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』でもライオネルがフィーチャーされていました。


松尾:ああ、そうですか。郷太くんから献本してもらったんですが、まだしっかりと読めていないんですよ。


――西寺さんもお書きになっていますが、「We Are The World」を作詞作曲したマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーというのは、MTVに黒人が登場するようになった最初の頃の人たちですよね。マイケルの「Billie Jean」をきっかけに黒人ミュージシャンのミュージック・ビデオも流されるようになったと言われています。MTVでライオネル・リッチーを初めて見たときに、ぼくは混乱したような覚えがあるんですね。インパクトのあるルックスですし(笑)、この人はどういう人でどういう音楽なんだろうと。


松尾:ぼくは当時のMTVについては後追いで得た知識しかないんですよ。ロックがほとんどだから大して興味なかった。たしかに、当時のアメリカで黒人スターが歌う姿をテレビで見る機会は、現在とは比べようもなく少なかったでしょう。その頃アメリカにいた知人からそう聞いたことはあります。でもライオネル・リッチーに関して言うと、彼の在籍していたコモドアーズは超のつく人気ファンク・バンドでクロスオーバー・ヒットも数多く出していたわけですから、日本でもディスコ・ミュージック・ファンや全米トップ40ヒットをくまなくチェックするような人たちの間では有名だったわけですが。


「ライブ・エイド」が85年にありましたよね。ぼくが高3の夏でした。大好きなパティ・ラベルがステージに登場してジョン・レノンの「Imagine」のカバーなどを歌いました。同じ黒人女性スターですとティナ・ターナーも出演していて、彼女は日本のロック・フィールドの人たちにも総じて受けがいいんですが、パティがテレビに映ったときの視聴者からの反応は「誰だ、この声のデカいおばちゃんは?」というものだったらしくて。画面がフジテレビのスタジオに戻っても、番組司会の逸見政孝や南こうせつは、パティについて何と語れば?と困惑していたという(笑)。


 そもそも80年代はアメリカ国内でも、黒人アーティストのライブに白人がオーディエンスとして観にくるということはまだ一般的ではなかったようです。ぼくは90年代からこういう仕事に携わるようになりアメリカにも頻繁に行くようになりましたが、いわゆるオーセンティックなR&Bシンガーのライブに足を運んでも、白人のお客さんを見かけることはほとんどなかったですね。


――90年代に入ってもまだそういう状況だったんですか。


松尾:そうなんです。当時はまだ、一般の白人家庭では、R&Bをラジオで聴いたり、ミュージックテープを購入したりはしても、ライブを聴きに足を運ぶというところまではいかないという時期だったようです。


・R&Bは本歌取り


――今や商業音楽においてはブラック・ミュージックが支配的だと言っていいと思いますが、90年代までそういう状況だったことを思うと、短期間でずいぶん変化したなという気がします。


松尾:パリ・コレクションでヒップホップが流れたりすると「時代も変わったね」と思いますが、ヒップホップがメジャーシーンに登場したといわれる1979年から、すでに30年以上たっているわけですよね。80年代のパリコレではロック・ミュージシャンとのコラボが普通に見られましたが、ロックンロールの誕生を50年頃とするとやはり30年くらい。だから30年という期間が特別に短期間だというわけではないと思います。先日菊地成孔さんのラジオに出たときにこの話題になって気づいたんですが。


 日本に目を移しても、久保田(利伸)さんが登場する前から(山下)達郎さんやマーチン(鈴木雅之)さんはブラック・ミュージックに触発された歌をうたっていたわけですし。もっとも、達郎サウンドを聞いて「この曲はアイズレー・ブラザーズにインスパイアされてる!」と指摘する人はいつの時代でも少数派でしょうが(笑)。


――ジャズとR&B、ヒップホップの関係というのはどんな感じなのでしょう?


松尾:ぼくが『メロウな日々』の中で本人から聞いた話として書いた、クインシー・ジョーンズがソウル路線に移行したときにジャズ仲間からディスされたことによく現れているように、ジャズ・ミュージシャンにR&B/ソウルを見下す傾向があったことは否めません。セルアウトの象徴として。でも、そんなジャズメンもヒップホップを認めるのは比較的早かった。


 菊地さんと半分冗談で話したことがあるんですけど、いわゆる「父親殺し」というか、子供が父親を憎いと思うというのは誰でも経験することですし、逆に親が子供を憎たらしく思うようなこともありますよね。ところが、おじいちゃんになると無条件に孫を可愛がり、孫もおじいちゃんには父親に向ける牙を見せることはない。それは丁度、ジャズとR&Bとヒップホップの関係に似ているのではないかと(笑)。


――菊地さんの解釈は相変わらずフロイディアンですねえ(笑)。 


松尾:(笑)。R&Bがいま主流であると見なされている理由は、R&Bが後発であるヒップホップをフィードバックして作り出されているというところにあると思います。


 ラップとして初めての全米トップ40ヒットになったシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」のバックトラックは、シック「Good Times」のベースラインを延々とループしたもの、というのはよく知られるところです。そんな歴史的物証が存在するように、ヒップホップは既存のビートなどを拝借した、いわば「ドロボー音楽」としてスタートしました。


 そうした出自を喧伝することで、ヒップホップは、ブラック・ミュージックというものはそもそも懐かしさの追及なんだ、懐かしさを1パーセントも含んでいないような音楽は面白くないんだ、懐かしさを含みつつ似ていないというのが理想なんだ、ということを明らかにしました。現在はR&Bのトラックも、まずはループを組んで、というヒップホップ以降の手法で作られていることがほとんどです。


 ところが、そういうR&Bの本質が訴訟ネタになってしまったのが、例のロビン・シック裁判なんです。


――あの裁判はびっくりしました。


松尾:ぼくもびっくりしました。というのは、R&Bの作り手にとって、頭に浮かんだインスピレーションに向かって曲を作るというのは大前提なのに、具体的な部分でなく、「雰囲気」を借用されたということが裁判の論点になっていたからです。


 ぼくは中学生のころにはすでに自分で買うレコードのほぼ全てがブラック・ミュージックと呼ばれるものでしたが、例外的に白人ミュージシャンの82年の新作を自腹で2枚買っていて。ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』と、ジョー・ジャクソンの『Night And Day』。両方とも「ナイト」がタイトルに入っているんですが、2人ともジャズ・フリークであり黒人音楽フリークなんですね。


 『The Nightfly』の有名なジャケットは、フェイゲンがラジオDJを模している設定でしたが、DJはソニー・ロリンズの『Sonny Rollins And The Contemporary Leaders』をかけていて、それとわかるようにテーブルにはジャケットが置かれている。この『The Nightfly』というアルバムは、ソニー・ロリンズをオマージュの対象としているんだぞと明示しているわけです。


 ジョー・ジャクソンの『Night And Day』も、二つ折りのジャケットを開くとスタジオの風景が写っていて、そこには見てくれと言わんばかりに目立つようマーヴィン・ゲイの『Super Hits』が配されています(笑)。音のほうも、マーヴィン的な雰囲気を再現すべく、ローランドTR-808という当時は最新式だったリズム・マシーンをフィーチャーしているという。そうしてできたヒット曲が「Steppin’ Out」であり、そこからさらに派生したのが米米CLUBの「浪漫飛行」ではないかと。


 ポップ・ミュージックだけでなく他のジャンルでも常識になっている、ポストモダンという考え方が出てきて以降の、いわば再構築ですよね。R&Bも、もともとは日本で言うところの「本歌取り」のようなものとして成り立っていたものなんです。


――「雰囲気」が似ているから盗作ってネットのパクリ糾弾みたいな話なんですけど、驚くことにロビン・シック側が負けてしまったという。


松尾:久保田利伸さんとも話したんですが、「あれでロビン・シックが裁判で負けるなら、俺たちがやっていることはどうなるんだろう」と。彼とはシャレで「今回のアルバムはマーヴィンが3曲、ボビーは2曲あります」なんて会話を楽しんでいるくらいで(笑)。でもそれはシャレですよ、シャレ。パクリということではけっしてなくて、あくまで彼らにオマージュの気持ちを捧げているということなんです。ロビン・シックより若いアーティストでも、たとえばクリス・ブラウンを聴けば、明らかにマイケル・ジャクソンがモチーフだとわかる「Fine China」って曲があるわけで。


 R&Bでは、「オリジナリティがない!」と突っ込むのは野暮だとされていたし、本歌取りと同じで、質の悪いオリジナルにこだわるよりも、先人の所産にもちゃんと目配りしてますよという教養をチラつかせた作り方のほうが、むしろ粋だとされてきました。ぼくはR&Bのそういう美学をこよなく愛しているんですが。


――でも、ブラック・ミュージックのその感覚って、いわゆる渋谷系的な「引用」とは違いますよね。もっとコミュニティに密着した、先代の遺産を後続が受け継ぐという意識から来ているように思えます。


松尾:ぼくは世代的には渋谷系ど真ん中なんですが、渋谷系といわれる音楽はほとんど聴いていなかったし、そう呼ばれるミュージシャンの知り合いも皆無でした。後になって渋谷系とはこういうものなのかと多少わかったくらいです。渋谷系の偉大なるメンターと呼ばれる川勝正幸さんと一緒の事務所(ドゥ・ザ・モンキー)にいたこともあるし、定期的に事務所に来ていたスダチャラパーもよく見かけていたんですけどね。


 黒人音楽に影響を受けるにしても、ブラック系のディスコやクラブに本籍地を置いているか、いないかで大きな違いがあったと思います。ブラック系ディスコの人たちはムードやフィーリングの理解と維持を何より尊重するんですよ。だから先人の音楽を使わせてもらうにしても、違う文脈で使うということに対して慎重なんです。エクスパンドすることはあっても文脈は変えない。


 だけど渋谷系は、徹底的に素材の一部としてコラージュしますよね。そういう手法で新しいものを作り出すのが良いことだとされていたわけですが、その点が決定的に違ったんだと思います。アニエスべーのボーダーを着た男の子が、南部の黒人音楽を切り刻むというカルチャー。藤原ヒロシさんあたりの影響も大きいのかな。


 新宿のディスコ文化から福生や立川の黒人文化に行った人と、パンク~ロンドンのストリート・カルチャーからヒップホップにたどり着いた人との違いと言いますか。基地からのアメリカ文化なのか、イギリス経由のアメリカ文化なのかということですね。


 でもこの年齢になってより俯瞰した見方をしてみると、渋谷系のアイコンの小沢健二さんもぼくも、ラックに入っているレコードには同じものも多かっただろうとも思います。彼とは一面識もないのですが、同じ年に生まれていますし。渋谷系の人たちも、ぼくのようなタイプのことを「ベイエリアのチャラチャラしたディスコやクラブの連中」とか思っていたかもしれませんが、今になってみれば、みんな同じ国の同じ時代に生きていたんだなと思いますね。


――「基地を経由しているか、いないか」という指摘は示唆的ですね。戦後日本の大衆音楽というのは全部基地から出てきたわけですけど、渋谷系というのはその系譜から切れたところから出てきたものとも言えるのか。


松尾:この前、友人の漫画家、井上三太くんが「松尾さん、これ知ってます?」って、ceroというバンドを聴かせてくれたんですが……


――ああ、今まさにceroの話をしようと思っていたところでした(笑)。


松尾:ぼくは「オザケンみたいだね」と感想を述べました。ブラック・ミュージック・オリエンテッドなリズムでありながらも、日本人的な声質を否定しないノンビブラート唱法。その時は曲を聴いただけだったんですが、後でYouTubeの彼らの動画を見てみたら、自分が想像したとおりのいでたちでしたね(笑)。


――フィッシュマンズを連想するという人もいますね。やはり歌い方で。ceroはリズム的には、昨今話題の『Jazz The New Chapter』的な流れを取り入れた感じですよね。


松尾:『Jazz The New Chapter』という書籍を端的に定義するとどのようなものなんでしょうか。ぼくはそのあたり、あまり自信がないんです。


――そうですね……、ヒップホップ以降のクラブ・カルチャーを取り込んだ、変容したリズムを中心とするジャズ、って感じでしょうか。


松尾:いわゆるロバート・グラスパーを代表とするムーブメントの総称ということでしょうか。ロバート・グラスパーが今のような大スターになる前から、ロイ・ハーグローヴやニコラス・ペイトンといった先進的なジャズ・ミュージシャンたちがいるわけですが、そういう流れの話ですよね?


――そうですね。ただ、日本発の文脈ですので。監修の柳樂光隆氏に「アメリカにもこういうニュー・チャプター的な捉え方ってあるの?」と聞いたら「ないと思います」という答えでした。


松尾:ホセ・ジェイムズとか、大学できちんとジャズを学んだ人たちというイメージがありますけど。


――バークリー音楽大学とか。


松尾:バークリーよりも、ニューヨークにあるニュースクール大学でしょうか。ロバート・グラスパーやホセ・ジェイムズ、ビラル、日本人では黒田卓也さんなどがあそこの出身ですよね。ニュースクールのほうがバークリーよりもさらに新しい潮流という感じがします。


 バークリーはやはり穐吉敏子さん以来の伝統がありますし、ぼくらが少年時代にジャズを勉強しようとしたら、ナベサダ(渡辺貞夫)さんのバークリー・メソッドに関する書籍『ジャズスタディ』が真っ先に挙がっていました。ぼくらの世代が東京でR&Bをレコーディングするとき、スタジオに集うミュージシャンの5、6人に1人は必ずバークリー音楽大学出身者がいます。ジャズやR&Bといったブラック・オリジン・ミュージックを学ぶための留学先としては、それくらいバークリーが支配的な感じでしたが、もっと若い世代になるとそうでもなくなってきてるかも。


・歌謡曲とR&Bの近親性


――筒美京平さんがずっとブラック・ミュージックを輸入して、歌謡曲として日本にローカライズされてきたわけですが、あるいは筒美さんの時点で、日本の土壌に溶け込ませる素地作りはできていたと言えますでしょうか。


松尾:平井堅やCHEMISTRYのヒット・アルバムに関わった直後の2003年頃、京平先生がお声掛けくださって、それから集中的に3年間ほど一緒に仕事をさせていただきました。自分なりに彼から学べるものはすべて学ぼうという気持ちで。


 その経験をふまえてお答えするなら、いにしえのソウル・ミュージックは京平先生が量産態勢にあった時代に日本仕様化されたことはたしかですが、現在R&Bと呼んでいる音楽様式が日本に根付いたのはやはり90年代だったと考えています。というのはR&Bが今のかたちに完成したのが90年代だからです。そしてそれ以来、本質的には変わっていない。


 ぼくは1994年を「R・ケリーの年」と呼んでいます。というのも、この年のビルボードR&Bチャートは、彼の「Bump N’ Grind」が首位を12週間キープしたのをはじめ、続くアリーヤのデビュー曲「Back & Forth」、ジャネット・ジャクソン「Any Time, Any Place」のリミックスと、計25週間も連続してR・ケリーの音がチャートを独走したんです。興味深いのは、彼の曲は使ってる音楽機材のプリセット音で作られたようなシンプルなトラックが多勢を占めるんです。


 その状況を見て「みんな変わらないものを求めているのではないか」という仮説が浮かんだんです。その仮説を立てた94年からすでに20年以上が経ちましたが、スロージャムと呼ばれるR&Bバラードは、若干の音響の違いはあるものの基本的には変わっていないんです。アップテンポな曲でさえ、時代ごとの装いの変化はあっても根本的には変わっていないようにぼくには感じられます。


 論より証拠で、94年のR・ケリーのアルバムのバラードと、最新アルバムのバラードを聴き比べても、作りはあまり変わっていない。彼の後継者といわれるトレイ・ソングスやクリス・ブラウンもスロージャムの音楽的形状は変わらないですね。


 ポップ・ミュージックは新しくなければいけないという理念の人たちにしてみれば、進化が止まったように見えるかもしれませんが、「上手くいっているものを変える必要はない(if it ain’t broke, don’t fix it)」というのがR&Bの美学なんです。前に進むのではなく、上に積み重ねていくということで、僕は「笑点システム」と呼んでいるんですが(笑)。


――松尾さんご自身は、音色や音響に対してはどういうスタンスですか。


松尾:プロデューサーとしては、ここ10年くらいで自分の中で音色もかなり定まってしまって、トラックメイキングの面で革新的な試みをすることはなくなりました。求められているものがはっきりしてきたからです。
 それ以前は、例えば最新鋭サウンドがロンドンの2ステップであるならば、それを体感しようと実際にロンドンまで足しげく通ったり、あるいはマイアミまでロドニー・ジャーキンスに会いに行ってコライトのノウハウを学んだり、そういった研修目的の海外出張も積極的にやっていました。ライター時代から海外との移動を重ねてものを考えるプロセスが日常化していましたし、実際にそういった研修の成果を自分のプロデュース作品に落とし込んでもいました。でもこの10年くらいで、ぼくに求められているものが、「最新のビート」ではなく「最良のメロウ」であることがわかってきて。となると、その期待を裏切るつもりもないんです。まあミックスのバランスだけは時代を見据えてつねに微調整していますが。


――そういう保守性は、たしかに日本の歌謡曲に近いですね。


松尾:そうなんですよ。「NHK紅白歌合戦」で常連出場の演歌歌手が同じ曲を何回も歌うことに対して「新しいヒット曲が出ていない」という冷笑的な見方がある一方で、「持ち曲が国民に浸透している」という見方もできるわけです。演歌じゃないですけど一青窈さんの「ハナミズキ」なんかもそうですよね。歌われるたびに厚みが増している。


――R&Bが、メンタリティ的に日本の土壌に合っているとして、問題はグルーヴですよね。


松尾:相違を感じますよね。先日のディアンジェロのライブでも、どうリズムを取ればいいのかわからないおじさんたちを見かけましたし、名前は出せませんが、評論家やミュージシャンにもぜんぜんリズムが取れていない方が見受けられました。


――日本人は基本が縦ノリなんですよね。縦ノリの場合、盛り上げるイコールBPMを上げるになってしまう。


松尾:グルーヴはセンスなんです。そして、センスというのは磨こうとすれば磨くことができるものだと僕は思っています。ここで言う「センス」は限りなく「スキル」に近いんですが、スキルの積み重ねがセンスだと評価されることが実際の生活ではほとんどだと思いませんか。たとえば、女の人に「あの人は女性の扱い方がこなれているね。センスがいいから」と言われたら、たくさん女の人と交際してきたからセンスが良くなったというのは自明なわけです(笑)。音楽に関してもそれと同じことが言えると思います。ある程度まではね。それ以上はギフティッドな領域ですが。


 ただ、なかにし礼さんが「僕にとって平成とは昭和の余韻にすぎない」という名言を残されているんですが、少なくとも彼にとっては日本の歌というのはそういうものであり、そう感じたいものだったんでしょう。そこからはみ出すものが出てきても引き戻す力が働いて、結局は「紅白歌合戦」に代表されるような「THEニッポンの音楽」に収斂していく。そのマグネティックな力には、多少新しいリズムなどが登場してきても抗えないでしょうし、そう見れば、昭和の時代に歌謡曲は完成してしまったというのもまたたしかなことなのかもしれません。


 同じように、21世紀のR&Bバラードは、90年代の余韻にすぎないと思います。


――今年の初めに出版された輪島裕介『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』という本は、リズムを中心に置いたときに、日本の戦後歌謡史はどう書き換わるかという内容なんです。55年のマンボ・ブームを起点に、最初は踊るものだった戦後歌謡が見るものに変化していったことが示されるんですが、でもニコニコ動画の「踊ってみた」とか、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」のダンス動画ブームなどを挙げて、踊る歌謡曲が復権しつつあるんじゃないかと説くんですね。


松尾:三代目J Soul Brothersの「R.Y.U.S.E.I.」という曲が昨年からカラオケ市場ではたいへんな人気ですが、お客さんはカラオケに行って歌っているんじゃなくて踊っているんですね。音サビと言いますか、サビの部分に歌詞がないんですよ。EDM特有のドロップがサビになっていて、そこでみんなで踊っているんですね。ランニングマンというダンスの基本的なステップをシンクロさせながら。


――「踊ってみた」はニコ動だからボカロ曲で踊っているのも多いんですが、ボカロ曲ってBPMがめちゃくちゃ速いのが多いですよね。200とか平気であるのにそれで踊っているという。


松尾:既存曲を倍速にして踊る人もいるようですね。


――じゃあ縦ノリなのかと言うとそうでもなくて、クラブ系のダンスだったりするんですよね。ちょっと驚きです。『Jazz The New Chapter』のキモはリズムですが、プログラミングによるリズムを生身のドラムが奪取することで生まれる何かに妙味があると言えると思います。だからマーク・ジュリアナとかドラマーの超人的な技術にフォーカスが当たるわけですよね。
 ニコ動の「歌ってみた」とかでは、人間が歌うことを想定しない、つまり人間の能力を超えているような初音ミクの歌を人間が歌っていて、ある意味では同じことが起こっている。テクノロジーが人間の能力を更新させてしまっているわけで、「踊ってみた」もそうなのかなと思うんですよね。


松尾:ぼくもPerfumeの歌を口ずさんでいるときに、オートチューンで加工した歌声を真似している自分に気がついてハッとすることがあります(笑)。アーティフィシャルなものに人間が熱を加えてもう一度取り戻すということは、楽しいことなんでしょうね。


 『メロウな日々』と『メロウな季節』の中でも繰りかえし書いているように、ぼくはマチュアとかメロウといった言葉で表現できる成熟したボーカルが大好きなので、初音ミクとかのシーンにはけっして明るくないんです。それでも1年に何回かは、わからないなりに意表を突かれるかたちで人工的なボーカルのJ-POPにメロウネスを感じる瞬間はありますね。US R&BシーンのロジャーとかエイコンとかT-ペインを愛でるのに近い感覚で。Perfumeなら「マカロニ」とか、tofubeatsの「水星」とか。


――ああ、なるほど。わかる気がします。


松尾:ぼくは彼らとはまったく面識はないですが、メロウネスを体感的にわかってらっしゃる方々なんだろう、おそらく好きなものはそれほど違わないだろうな、と思っています。以前「tofubeatsさんは松尾さんが90年代に関わった曲も結構掘ってるみたいですよ」という話を人から聞いたことがあるからかな。つい最近になって知ったんですが、彼は2009年にぼくの作品をリミックスしてくださっていたんですね(CHIX CHICKS「“ELECTRO CHIX” MEGA MIX (tofubeats Remix )」)。


・ポップ・ミュージックで大事なのは歌詞


松尾:先ほどから何度か言っていますが、ぼくは本歌取りのようなことが好きだったせいか、自分の書いた詞についても、たとえばEXILEの「Lovers Again」の詞は「ルビーの指輪」に似てますね、なんて言われたりするんですね。


――『BRUTUS』の松本隆特集で「最近類似に気づいた」とおっしゃっていた。


松尾:去年書いたJUJUの「ラストシーン」についても、「この曲は沢田研二さんの『勝手にしやがれ』のパロディですか?」「今度のオマージュは阿久悠さんですか?」と訊かれました。たしかにそういうところもあるのかも、という気はします。


――意識はしていなかったのに出てしまった?


松尾:そうなんですよ。言われてみればたしかに似ているな、と他人事のように(笑)。密室で行き詰まりを感じている男女が背中合わせで、というシチュエーションはたしかに昔、沢田研二の歌で聴いたことあるな、ディテールを変えただけじゃないか、という感じで。もっとも、ディテールだけ変えて同じことを延々とやっていくというのがR&Bの本質だと、以前から書いたり言ったりしてきたので、自分なりの言行一致なんですけどね。


――阿久悠についてはどう評価されていますか。


松尾 阿久さんは徹底したポストモダニストですよね。いろいろな引用元をたくさん持っていて、そういう話を人前ですることも楽しんでいらしゃいました。


 それに対して、なかにし礼さんは、たとえば菅原洋一さんの「知りたくないの」の歌詞にある「過去」という言葉について「今までのポップ・ミュージックでは使われたことがなかったから僕が使った」と誇らしげに語られるような、オリジナリティ重視型の作詞家なんです。


 お二人は両雄という感じで、事実ライバルだったと言えますが、オリジナリティを信奉していたなかにしさんは、文芸方面にも進まれて作家としても活躍されています。


――『長崎ぶらぶら節』で直木賞も獲ってしまいました。阿久さんも小説を書いていましたね。


松尾:阿久さんの『瀬戸内少年野球団』も賞を獲ってもおかしくない内容でした。


 今になって思うのは、阿久さんの詞は、時代を示す記号として圧倒的に強いということです。それもフックが彼の中にたくさんあるからなんですね。


 なかにし礼さんについては、彼の半生がどういうものだったか作品を読めば大体わかりますが、阿久さんは作品を読んでも彼の人生は見えてこない。


――阿久さんは虚構指向の人ですよね。リサーチと手法に重きを置くと、作詞法の本で書かれているのを読みました。私小説的な指向性はまったくないですね。


松尾:そうですね。もともとテレビの構成の仕事などをされていた方でしたし。


――松尾さんも作詞家と見られることが多いとどこかで読みましたが。


松尾:そうなんです。「松尾さんはEXILEとかJUJUの泣けるバラードの詞を書いていらっしゃるんですよね」というファンの方が多く、ツイッターなどを見ても、ぼくは、音楽を作る人というよりも、泣ける歌詞を書くおじさんというイメージを持たれているようです。元々は洋楽のリミックスから制作畑に入ってきたのに(笑)。


 でもそれは想定内のことで、J-POPでメガヒットの曲を作ろうと思ったら、そう言われるようにならないとダメなんです。なぜなら、歌謡曲からJ-POPというのは歌詞オリエンテッドの世界であって、とにかく一にも二にも歌詞の大切さが付いてまわるものだからです。達郎さんでさえ「自分のプロ・ミュージシャンとしての活動の多くは日本語の歌詞との格闘だった」と公言されているほどに。


 洋楽かぶれが高じて日本のマーケットに参入したようなミュージシャンで「マニアも唸らせる」とか言われて素直に喜んでいる人を見ると、ぼくは複雑な気分になってしまいます。褒めている人も気づいていないのでしょうが、広い視野でポップ・ミュージックを見ることができないだけという場合がほとんどなので。「マニアも唸らせる」と言いながらその実「マニアしか唸らせていない」音楽がいかに多いことか。自分の周りのマニアの顔色だけをうかがっていれば、そりゃ彼らを唸らせることはできますよ。でも、日本全国1億2千万人のほとんどはトリセツ不要のポップスを求めているわけですし、そういう人たちに訴求する音楽を作るためには、今までとは違うディメンションに向かう必要がある。そういうことをぼくは最近10年間で学びました。


――うんうん、すごくよくわかります。


松尾:80年代後半から90年代半ばくらいまでは、ジャム&ルイス、LA&ベイビーフェイス、テディ・ライリーの3組がR&Bミュージックのトップ3と言われていました。


 日本でも、リズムの革新者テディ・ライリー、傑出した美メロメーカーのベイビーフェイス、総合力のジャム&ルイスという紹介をされていましたが、ライターとしてアメリカやイギリスを訪れると、彼の地の音楽業界の人から必ず聞くのは、「ベイビーフェイスの歌詞は本当にいいねえ」という話でした。メロディメーカーとしての評価はその次にくる話で。


ベイビーフェイスの歌詞は昔のスモーキー・ロビンソンのように素晴らしいという見方があるんですが、スモーキーの歌詞の良さは、ボブ・ディランが褒め称えたことで日本の音楽ジャーナリズムにもある程度は伝わりました。ベイビーフェイスも、彼が書いた歌詞を、たとえばモリッシーやマイケル・スタイプあたりの白人ロック・ミュージシャンが称賛してくれていたらぜんぜん違う評価になっていたかもしれませんね。


――海外でも状況は同じなんですねえ。Jポップのリスナーは、歌詞を聴く人と、曲を聴く人に二分されるなんてよく言われますが、そもそも日本のポピュラー音楽を巡る言説が歌詞にすごく偏っているんですよね。


松尾:本当にそう思います。自分が取材される立場になってみてわかりましたが、新曲を出した時に質問される内容は歌詞が大半なんですね。もちろんありがたく思いますが、取材者としての自分はそうではなかったので、少なからず驚きました。とくに活字メディアの取材は歌詞の解釈に終始することも多くて。今日は新譜プロモーションが目的でもないし、そもそも栗原さんだったらそういう取材にはならないだろうと信じてこの場に臨んだので、インタビューを本当に楽しんでいます。


――ありがとうございます(笑)。


・なぜ歌詞ばかり語られるのか


松尾:歌詞のことを質問するにしても、その歌詞が生まれた背景などを考察してくださるならまだいいんですが、そのときにヒットしている曲の歌詞の内容がどうだみたいな話題に終始することが多いですよね。どうしてでしょうか。


――うーん、誰でも語りやすいというのがまず大きくあるとは思うんですよね。それから最初にお話したのと同じことなんですが、歴史的に見ると、戦後、大衆音楽に評論が導入された初期に歌詞偏重の方向性が決まっちゃったというのもあると思います。
 思想の科学が歌謡曲研究にまず手を付けたわけですが、最初の論考集を見ると、監修者が「流行歌は音楽であって文学ではない」と牽制しているのに、各執筆者の書いたものは実は歌詞論が多くなってしまっているんですよね。それは彼ら進歩的文化人と呼ばれた人たちが、民衆の心情と流行歌をセットで考えていたからだと思います。西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」を60年安保闘争と絡めて論じた新左翼の人たちも、彼らは進歩的文化人を批判していたけど、大衆の心情と歌詞を結び付けていた点では似たり寄ったりでした。
 で、70年代後半に、吉本隆明が突然、さだまさしや中島みゆきを絶賛し始めたんですが、これもやはり歌詞論で、「中島みゆきの歌詞は現代詩に匹敵する」という調子のものでした。このへん今では忘れられていると思うんですけど、吉本は当時、影響力絶大でしたから、彼の信奉者たちも一斉に中島みゆきやニューミュージックを論じ出したんですね。そしてそれらも当然ほぼすべて歌詞論でした。2000年くらいに中島みゆき論を調べたことがあるんですが、単行本だけで20数冊出ていましたか。そんなに論じられたミュージシャン、日本には他にいないですよ(笑)。
 一方、ニューアカの流れを汲む新人類たちはアイドルを論じていましたけど、彼らはアイドルを存在あるいは現象として見ていた。いずれにしても、音楽自体は脇にうっちゃられがちなままずっと来てしまったというのが日本のポピュラー音楽批評の流れだと思います。


松尾:その少し前にも、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』などもありましたし、自作型ではない芸能人の存在を論評するという流れがあったんでしょうね。


――平岡さんも新左翼で、藤圭子から山口百恵に至る、存在に過剰に意味を読み込む系譜ですよね。


松尾:歌詞ではなくて存在を読み込もうとしたら、当然その人の出自などを市場調査のように調べ上げるという傾向になりがちではありませんか。私生児だからこういう性格になったとか。


――そこまで行けばまだいいんですが、勝手にこしらえた虚像を元に論じるみたいなのも多くて。


松尾:たとえば宇多田ヒカルを論じるときでも、宿命論的に論じるようなことが多くて、はじめから結論ありきで進めているように見えてしまうんですよね。


――藤圭子の娘だから云々というのは多かったですねえ(笑)。菊地・大谷コンビが手ずから批評に乗り出したのには、音楽批評の状況に対する批判もあったんじゃないですか。大谷氏は批評から始めた人ですけど。西寺さんも指針になる人が見当たらないから使命感を持っているという趣旨のことを書かれていました。


松尾:菊地さんは、インストゥルメンタルの世界の人たちこそ本を書かなければいけないんだとおっしゃっていました。ジャズの演奏家には文章が上手い人が多いというようなことがよく言われるが、むしろその逆で、文章を書いているジャズメンだけが高い知名度を獲得してるだけなんだと。


 菊地さんはもちろん、山下洋輔さんや南博さん、クラシックでは小澤征爾さんや團伊玖磨さんなどは、音楽家としても書き手としても一流の評価を得ています。菊地さんの論法でいえば、書き手として一流だから、音楽ファンではない人たちからも評価を得ることができるのかもしれませんね。


――自分の活動に関して、自分で宣伝も解説もしなければいけないと。


松尾:インストゥルメンタル音楽こそ言論の必要の度合いが高いというのは、抽象画にタイトルをつける理由のようなものではないでしょうか。菊地さんは師匠の山下洋輔さんから学んだとおっしゃっていました。ずっとやりたいんだったら、文章を書かなければいけないと。それはたとえば、映画監督でも、テレビに出るような人だけが資金を集めることができるというのと同じ理屈かもしれないですね。


――聴き方を教えてもらいたいリスナーというのは多いと思うんですよね。別に程度が低いとかそういう話じゃなくて、ぼくなんかでも、どう読んでいいのか迷う小説なんかに遭遇したときは、書評や評論を参照しますし。そういうナビゲーションをするのも評論家の仕事だったんだけど、それが薄れてきてしまった感じはしますね。


松尾:音楽メーカーに骨抜きにされたせいでしょうか。


――ぼくはプロパーの音楽ライターとは言い難いのでおこがましいんですが、良くも悪くもジャーナリスティックな動きをする人が多くなった感はありますよね。一方で論の面が手薄になっているのかな。松尾さんがやられてきたことに近いと言えば近いのかもしれませんが、伴走や代弁はあるけれども、それ以上のプラスαに乏しいかなという印象は個人的にはありますね。


松尾:作り手の人に対しても、何かの刺激になるものを提供することはできるはずなんですよね。ジャンルは異なりますが、映画の世界では、批評家が作家を育てる、批評家が作家になるということが、フランスや一時期の日本でもあったわけですから。


――ただ、ぼくはよく「批評は市場に勝てない」と言うんですが、市場がきっちりあるジャンルでは批評が弱いというのはあると思います。市場が指標になる、つまり売れているか否かというかたちでジャッジを下すので、批評のニーズが生じにくい。


松尾:「だから批評から制作に移ったの?」と自分もよく言われますね。「批評から移るときにためらいとか逡巡する気持ちはなかったか」ともよく聞かれるんですが、批評の仕事から他の仕事に移行した人もたくさんいるわけですし、移行したからといって批評の仕事を辞めなければならないわけではないのに、どうして二つに一つを選べみたいなことを言われるのかよくわからない。


――昔は、作曲家で音楽評論家、作家で文芸評論家あるいはその逆という人もそれなりにいましたけど、いつからか分業が進んで、どちらかの専業というのが普通になってしまいました。


松尾:マーケットが拡大したのも原因かもしれないですね。


 ポップ・ミュージックの世界でも、ブルース・スプリングスティーンとジョン・ランドーの出会いのエピソードは、自分が制作の仕事に移行する前からいい話だと思っていました。評論家ランドーが新聞に寄せた「ロックンロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン」という評に感動したスプリングスティーンがランドーをプロデューサーに迎えて、あの傑作アルバム『明日なき暴走(Born To Run)』が生まれたというエピソードです。


 ぼくは批評的な視点というのが創作の邪魔になることは絶対にないと思っているんですが、「批評家に何がわかるんだ」というような短絡的で古色蒼然とした発言をするミュージシャンもいまだにいて、本当にお気の毒だと思います。批評家も、ミュージシャンも。


――でも、そういう悪態を吐かれる音楽評論家も、もはや絶滅しつつあるかもしれない。とりあえず文芸評論では絶滅しました。だから今後はまず、悪口を言われるようになることを目指さなければいけないのかも(笑)。


松尾:栗原さんの発言がいちばん大人ですよね(笑)。


(取材・文=栗原裕一郎)