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女性ヒーローが成立する条件とは何か? マーベルと『ジェシカ・ジョーンズ』の挑戦

2015年11月28日 14:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C) Netflix. All Rights Reserved.

 11月20日にNetflixで全13話一斉配信となったマーベルの新作ドラマ『ジェシカ・ジョーンズ』。先行作品『デアデビル』と同じく、映画『アベンジャーズ』第1作後のニューヨークが舞台で、『デアデビル』と共通するキャラクターも登場し、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)をさらに一歩広げる作品だ。


参考:クリステン・リッター&レイチェル・テイラーが語る、『ジェシカ・ジョーンズ』とNetflixの挑戦


 この作品によってマーベルが広げようとしているのは、MCUの世界だけじゃない。『ジェシカ・ジョーンズ』でマーベルは「女性ヒーローを主人公にする」という新しいチャレンジに乗り出している。今まで、チームの中に女性キャラクターがいたことはあっても、異能をもった女性を単独主人公にした作品はなかった。そもそも、アメコミヒーロー映画というジャンルにとって、女性主人公は鬼門だ。『スーパーマン』(1978年)の成功の後には『スーパーガール』(1984)の失敗があり、『バットマン リターンズ』(1992)の後には(直接的なつながりはないけど)『キャットウーマン』(2004年)のラジー賞授賞があった。『ワンダーウーマン』テレビドラマ版はパイロット版のみで話が立ち消えになり、2017年公開予定の初映画化がどうなるか期待半分不安半分で待たれているところ。ブラックウィドウ単独映画も未定のまま。『スーパーガール』テレビドラマ版が現在アメリカで成功中だが、少なくとも最近まで興行的にも内容的にもかなり厳しい歴史が続いている。アメコミヒーロー映画の人気の定着により、「次は女性ヒーローだ!」という企画の噂は絶えず流れるものの、なかなか実現にすら至らないのが、女性ヒーローもののつい最近までの状況だった。


 その理由は何か。それこそハリウッドの偉い方々が散々議論を重ねているテーマだろうが、そこに一つ私見を付け加えると、そもそも現代の「ヒーローもの」に求められるものと、女性主人公に一般的に求められるものに食い違いがあることが一つの理由ではないか。現代のヒーローものには、「なぜヒーローをやるのか」という問いがついてまわる。現実には存在しないタイプのキャラクターをわざわざ創造するためには、それにふさわしい主体的な動機、理由づけが必須だからだ。でも、女性ヒーローものには、「ヒーローとして主体的に活躍する人物」を主人公としていながら、その主人公が実は性的な消費対象でもある、というねじれた構造がある。男の場合は、ある種フリーク化することで一般の評価軸から外れるという道がある。「天才奇人社長」「第二次世界大戦の生きた化石」「緑の怪物」など、実際、現代のヒーローものの主人公の多くはそういう存在だ。ところが、女性の場合は今のところその道が取れず、性的に消費する視線から逃れる方法が確立されていない。これまでの実写版女性ヒーローものの歴史は、大げさに言えば、ヒーローとしての活躍と性的なアピールを両立させたヒーローを創造せよという、矛盾した要求との戦いの歴史だったともいえるんじゃないか。


 では、『ジェシカ・ジョーンズ』はどうしたか。製作者が選んだのは、「女性がヒーローをやるとはどういうことか」という問いを、ドラマの真ん中に据え、正面から取り組むことだった。『ジェシカ・ジョーンズ』の新しさはその点にある。ドラマ中、そもそも主人公であるジェシカは、車を持ち上げ南京錠を引きちぎる怪力を持ちながら、ヒーローとしては活動しておらず、生活のために探偵業を営んでいる。道を訊いて教えてくれた人に礼を言わなかったり、タクシー運転手に渡すチップが少なかったりと、微妙に嫌なヤツだったりもする。そして、酒に溺れている。


 なぜジェシカは自分の能力を活かそうとせず、自暴自棄になっているのか。かつて、人を操る能力を持つ男・キルグレイブに利用され、人を殺してしまったからだ。また、キルグレイブに操られていた頃、キルグレイブにレイプされたことで深く傷ついてもいる。


 物語は、死んだはずのキルグレイブが関与しているとしか思えない事件がジェシカの周囲で起こることから幕を開ける。陸上競技に打ち込んでいた女子大生・ホープはキルグレイブに操られ、ジェシカの目の前で、両親を自分の手で銃殺してしまう。終身刑に処されたホープを救うためには、キルグレイブとその能力の実在を証明するしかない。そのために、ジェシカはキルグレイブを生きて捕まえようと苦闘することになる。一方で、追いかけられるキルグレイブ自身、ジェシカに異常な執着を見せ、人を操る能力を持ちながら、それをジェシカに対して直接は用いずにジェシカを自らのものにしようとする。2人の追いつ追われつで全13話のドラマは進行する。


 ドラマが始まった時点では、ジェシカは徹底的に受け身だ。探偵業だって好きでやってるわけじゃない。戦うのは、キルグレイブの執拗なストーカー行為によって周囲に犠牲者が出てしまうからで、好き好んでじゃない。自分がキルグレイブに操られ、レイプされたことによって負った心の傷も、周囲に語ることはない。物語中盤、キルグレイブに操られた経験者が集まり「キルグレイブ被害者の会」を結成し、自身の経験を語り合う場面があるが、ジェシカ自身も被害者なのに、会の活動に対して冷淡に嫌味を言ったりもする。過去の経験から深い傷を受け、またその傷と向かい合うこともせず、自分から何も望まない状態に陥っているのが、物語前半のジェシカだ。主演のクリステン・リッターは、さすが『ブレイキング・バッド』で副主人公ジェシーのジャンキーな彼女を演じて評判を上げた女優だけあって、万事投げやりな中に光る魅力を失わない姿を好演している。


 しかし、キルグレイブとの戦いの中で、ジェシカは否応なく「自分は何のために戦うのか」という問いと向き合っていくことになる。ジェシカは、自分に対して異性として執着するキルグレイブと戦う中で、かつてキルグレイブを受け入れてしまった自分自身とも戦う。この戦いは、そのまま「女性ヒーローを成り立たせるための戦い」と重なり合ってくる。誰かの欲望の客体としてでなく、あくまで主体的に、自分の尊厳と、大切なもののために戦うこと。言葉にすれば陳腐だが、ジェシカは自分が戦う理由を見出すために戦っている。これは、ジェシカにとってだけでなく、女性ヒーロー映画の未来のために、とても大切な戦いに思えた。


 その戦いにジェシカとこのドラマの製作者が勝ったかどうかは、それはドラマを見終えた方がそれぞれに判断を下すことだ。筆者は、最後の戦いが終わったとき、ジェシカは「勝った」と思った。


 このドラマは、その戦いを描くために、Netflixの一斉配信ドラマというフォーマットをフルに生かしている。物語を映像で描くメディアとしてのテレビドラマの長所は、単純だけど、「長い」ことだ。より多くの登場人物を、より深く描き込むことができる。時に、ドラマ開始時に想定していたよりもずっと遠くまで物語を進めることができる。その理想形を実現したのが、クリステン・リッターも出演していた歴史的名作『ブレイキング・バッド』だ。半面、テレビドラマの短所は、短期的な視聴者数を常に気にしなければいけないこと、その結果としてせっかくの長所である「長さ」を活かせないパターンが多いことだ。


 Netflixの一斉配信というフォーマットには、テレビドラマの短所を克服することを目指している。実際、『ジェシカ・ジョーンズ』の物語は、通常のドラマなら考えられないほど立ち上がりが遅い。アクションシーンだって、中盤までほとんど出てこない。全13話の最後、ジェシカがヒーローとしての動機を見出す時点から逆算して物語が組み立てられているからだ。中盤以降は、いかにも連続ドラマらしいジェットコースター的な展開が続くが、最後の地点にたどり着くと、それすらきっちりと計算の上組み立てられていたことに気づく。こんな贅沢な作りだからこそ、女性ヒーローものに今まで欠けていたリアリティーある動機を描くことに成功しているのだ。


 『ジェシカ・ジョーンズ』は、テレビドラマとヒーローものの歴史に、確かに新しい一歩を刻んだ。(小杉俊介)