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「読書」は一夜にして世界を変えるーー『リトルプリンス 星の王子さまと私』のメッセージ

2015年11月25日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 LPPTV - LITTLE PRINCESS - ON ENT - ORANGE STUDIO - M6 FILMS - LUCKY RED

 出版から70年以上経って、今もなお世界中で愛されている児童文学「星の王子さま」が、初の劇場用アニメーション作品として、ヨーロッパのスタッフや、ディズニーやドリームワークスで活躍したアメリカのアニメーション作家たちを招き、フランスで制作された。それが、『リトルプリンス 星の王子さまと私』だ。


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 原作の絶大な人気から、期待のハードルが高く厳しい目で見られることが必至の題材であるが、本作は、多くの困難な障害を乗り越え、原作の魅力を保ったまま、さらに読書のよろこびや文学が持っている力を表現した、見事な映画作品に仕上がっている。ここでは、映像化への苦難の道のり、また、作品の裏に隠された深いメッセージについて迫っていきたい。


■最も愛される名作児童文学をどう映像化するか?


 「星の王子さま」は、フランスの作家であり飛行士でもあったサン=テグジュペリが、大戦中に亡命先であるアメリカで書いた、世界中の多くの人々に最も読み継がれている児童文学だ。その人気の理由は、かわいい挿し絵や、洗練されたユーモア、抽象化された詩的な美しさのためだろう。しかし、そのブームが一時的なものでなく、時代を超えて、いま現在も熱心に読まれているというのは、その軽やかな外観とは裏腹に、描かれていることの深刻さにもある。その内容は、人間個々がどう生きるかを深く思索させ、人生の意義にまで到達すらしてしまう。だからこそこの作品は、広く、そして深く人々に愛されているのである。


 かつてオーソン・ウェルズ監督が映画化を熱望しながら断念したように、この作品を映像化することは非常に難しい。小さな惑星に住む少年が、そこに咲いたバラと出会い愛情を交わすが、仲違いをして、宇宙の旅に出てしまう。そして、様々な惑星に降り立ち、大人たちや動物たちと出会い成長することによって、自分の惑星に残してきたバラの真実の心と、自分の過ちに気づいていく。このような空想的で詩的な物語と世界観を、映像として具体化してしまうことは、作品の持つ抽象的な魅力を損ねることにつながってしまう。ボブ・フォッシーの印象的なダンスなども楽しめるミュージカル映画や、より子供向けに内容を噛みくだき、エピソードを追加した日本のTVアニメーション作品など、他の映像化作品がそうであるように、原作の抽象的要素を具象的なものに置き換えて、さらに新たな価値を付け加える必要があることも事実だ。


 本作『リトルプリンス 星の王子さまと私』の監督に抜擢されたのは、ドリームワークス・アニメーションなどで活躍するアメリカ人、マーク・オズボーンだ。中国を舞台にした、彼の代表作『カンフー・パンダ』は、中国文化に敬意を払い、子供向けアニメーションでありながら、カンフーの表向きのかっこよさだけでなく、その深い真髄に迫ろうとする真摯な作品である。


 オズボーン監督は、この「星の王子さま」映像化問題への、今までにない有効的な対抗策を見つける。それは、原作の物語それ自体には新しい意匠をあまり加えないよう、できる限り忠実に描き、別個にオリジナル・ストーリーを用意するというアイディアである。原作のパートでは、ストップモーション・アニメーションという、粘土や人形、切り絵などを人の手で一コマずつ動かし撮影するという手法を使っている。この、昔ながらの素朴な味わいの映像は詩的な美しさを持ち、まさに「星の王子さま」の世界を描くのに最適だと思える。そして、オリジナルのパートでは、現代的なCGアニメーションを駆使して描いていく。このことで、原作の魅力を保ったままで、映像作品ならではの価値を追加することに成功しているといえるだろう。このような試みは、オズボーン監督にとって今回だけのものではない。自身が監督した『カンフー・パンダ』の冒頭で、日本アニメの紙芝居的な決め絵の演出(リミテッド・アニメ)を取り入れたという2Dアニメーションや、「スポンジ・ボブ」の実写パートを担当するなど、複数の手法を、柔軟に作品に取り入れている映像作家なのだ。この姿勢が、困難な映像化を成立させた大きな要因であることは間違いない。


■文学という「悪友」との出会いを描く物語


 新しく作られたオリジナル・ストーリーは、友達のいない一人の女の子が、かつて飛行士であった風変わりな老人と出会い、絆を深めていくというものだ。女の子の父親は家庭を顧みない会社人間で、離婚し家を出たため、彼女は母親とふたりで生活をしている。いまも父親は誕生日のプレゼントを郵送で送ってくれるが、箱を開けると、中に入っているのは、いつもスノー・グローブ(ひっくり返すと雪が降るように見える置物)である。これは、彼女の父親が、娘の成長に無関心で、想像力を持たない人間であることを示している。母親は、娘が名門校に入り、規則正しい「完璧なスケジュール」を守らせることが幸せにつながると信じ、英才教育に打ち込ませようとする。だが、その試みは綻びを見せる。全て管理されたマニュアル的な対応しか詰め込まれていなかった女の子は、名門校の入学試験の面接で、想定していなかった質問をされたことで、パニックを起こしてしまう。彼女は、全て母親の言うとおりに行動してきたことで、自分でものを考えることに慣れていなかったのだ。


 引っ越し先で友達もいず、毎日のスケジュールをこなしていく女の子は、隣りに住んでいるおじいさんと出会うことで、新しい世界への扉を開くことになる。彼は、かつて飛行士であり、砂漠に墜落したときに星の王子さまと出会ったという過去を、女の子に語ってくれる。おじいさんの家ではシャンソンが流れ、サン=テグジュペリがよく飛行機で立ち寄った南米や、各地の雑多な品々にあふれている。女の子が閉じ込められた幾何学的な直線で単色の家と、おじいさんの、丸みを帯びたカラフルな家や庭は対照的である。


 女の子と「星の王子さま」の物語との出会いは、彼女が勉強中に、おじいさんの絵と文章が書かれた紙飛行機が飛んできたことで表現されている。「星の王子さま」の物語とともにやって来る、本作で描かれる女の子とおじいさんの出会いは、そのまま魅惑的な「読書体験」の暗示でもあるといえるだろう。例えば、学生の頃に、勉強中に開いた国語教科書に載った文学作品に心惹かれた経験がある人は少なくないだろう。モーパッサンの「ジュール叔父」でフランスから英国領への船旅を経験し、ヘッセの「少年の日の思い出」で魅惑的な蛾のコレクションを鑑賞し、魯迅の「故郷」で中国の山河を望むなど、文学作品は、多くの学生が活動する狭苦しい生活圏の中で、豊かな外界の香りを運んでくれる「文化への窓」である。それらは、必ずしも優等生のための物語でなく、むしろ、学生を外の世界の文化に引きずり込み、レールを外れさせる「魅力的な悪友」にもなり得る。本作のおじいさんというのは、女の子にとって、そういう役割を担っているように思える。


 しかし、文学作品の世界は、危険な場所でもある。文学と死がいつも隣り合うように、そこには人を喰い殺す虎もいるし、果てしなく深い谷が口を開けていることもある。文学に触れることで、人生の歯車が狂わされる可能性もある。いま挙げた作品は、人生の負の部分にフォーカスした文学である。しかし、だからこそより深い真実に到達することができるのである。本作は、文学のそういった側面にも迫っていく。


■「読書」は、一夜にして世界を変える


 「星の王子さま」の原作は、児童文学としてはショッキングな結末が用意されている。女の子は、そのさびしい結末を知ると、「なんてくだらないお話なの!」と憤り反発する。孤独のなかにいた彼女は、その厳しさに耐えられなかったのだ。 これが、かつてのディズニー映画が作品化するようなおとぎ話であるなら、「王子さまとバラは、いつまでも幸せに暮らしました…エヴァー・アフター(そして、永遠に…)」と、締めくくられるだろう。 彼女は、いつか父親が帰ってくることを密かに願っていたかもしれない。そして、おじいさんと一緒にいつまでも楽しく遊んでいたかったはずだ。しかし、現実はなかなかそうはいかない。


 原作では序文で、「レオン・ヴェルトに」と、ある個人にこの作品が捧げられている。彼はサン=テグジュペリの友人で、出版当時、ナチスの迫害から逃れ、フランス東部の寒村へ隠れ住んでいた。文中でサン=テグジュペリは、「本当だったら、ぼくはこの話をおとぎ話のように始めたかった」そして、「ぼくは、この本をいい加減に読んで欲しくない」とも書いている。「星の王子さま」は、苦難の底にいる人へのなぐさめの物語でもあったのだ。


 難解な映画がそうであるように、優れた文学作品を読んだとき、作品の深さをすぐには理解できないことは多い。だがある日、何かのきっかけで、突然それを理解するということがある。女の子が生まれて初めて、人の生死という、どうにもならない現実に向き合ったとき、「星の王子さま」という物語は、はじめて彼女のなぐさめとなる。くだらないと思っていた物語が、切実で苦いものであるからこそ、彼女の精神を救い出すことができたのだ。読書は、読む者の個人的な世界を、そして人生の意味を、一夜で変えてしまう可能性を持っている。


 本作で描かれたオリジナル・ストーリーにおいて、女の子が読み取り、彼女の現実の反映によって再構築された展開や結末は、原作の無数にあるひとつの解釈を広げたものに過ぎない。しかし、「星の王子さま」の読者である女の子が、そして本作のつくり手が、自分の力で考え抜くことでつかみ取った、紛れもないひとつの真実である。『リトルプリンス 星の王子さまと私』は、文学の楽しさや、読書が世界を変えられるということを、真摯に描ききった映画である。(小野寺系(k.onodera))