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まさかのオリジナル『ロッキー』超え!? 『クリード チャンプを継ぐ男』が血湧き肉躍る傑作な件

2015年11月23日 14:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. AND WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の公開まであと数週間に近づいて、自分と同世代の40代のリアルタイマー男たちは、メディアで、プライベートで、皆口々に「『スター・ウォーズ』で映画に目覚めた」話を誇らしげにしていることだろう。というか、自分もそうだ。しかし。自分の胸に手を当てて記憶を辿ると、多くの人が『スター・ウォーズ』と同じレベルのインパクトで映画の原体験となった作品がもう一つあったことに思い当たるはずだ。1976年公開の『ロッキー』。1970年生まれの自分の場合、リアルタイムで(親にせがんで連れて行ってもらって)映画館で観たのは1979年の『ロッキー2』が最初だったが、ポカンと口を開けて眺めるしかない圧倒的な映画体験だった『スター・ウォーズ』シリーズとは別の意味で、『ロッキー』シリーズは映画ならではの感動を当時の小学生にもビンビンに伝わるストレートさで教えてくれた特別な作品だった。


参考:『ロッキー』シリーズ新章『クリード チャンプを継ぐ男』メイキングカット&コメント公開


 これまで製作されたシリーズ作品は6本と、実はその本数も『スター・ウォーズ』と同じ『ロッキー』だが、待望の新作をめぐっての公開前の熱狂は現状では比較にならない温度差がある。2006年の『ロッキー・ザ・ファイナル』は思いがけず好作ではあったが、その前の1985年『ロッキー4/炎の友情』、1990年『ロッキー5/最後のドラマ』でシリーズとしての評判を落としてきたことも影響しているだろう。「今回の主人公はロッキーの宿敵アポロの息子、クリードだ」と言われても、「ふーん」というのが大半の観客の事前のリアクションなのではないか。


 もう一つ、本作『クリード チャンプを継ぐ男』の製作の噂が聞こえてきた時点で、個人的に盛り上りきれなかったのは、監督のライアン・クーグラーの出世作『フルートベール駅で』をあまり評価していなかったからだ。2013年のサンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞した『フルートベール駅で』(ちなみにその翌年に同じくグランプリと観客賞をダブル受賞したのはあの『セッション』だ)は世界各国のメディアや観客から絶賛されたとのことだったが、「ニューイヤーズデイを友人と祝うために街に繰り出そうとした一人の何の罪もない黒人青年が、白人の鉄道警官に銃で撃たれて死亡した」という実話のストーリーをただ単にベタかつエモーショナルに描いただけの、映画的な創意や新しさをまったく感じさせない作品だった。確かに随所に新人監督らしからぬ「巧さ」には感心させられたものの、「いやまぁ、時節柄、そういう話はリベラル層には受けるだろうし、それをただ“巧く”撮られてもなぁ」という冷めた気持ちなってしまったのだった。今思い返してみても、例えばその後にディアンジェロやケンドリック・ラマーが同じテーマにおいて音楽の世界で表現してきた深い歴史的な視座や複雑な感情と比べて「あまりにもストレートで素朴すぎないか?」という気持ちは拭えない。


 しかし、そんなクーグラー監督の本来の資質に違いないベタさ、エモーショナルさ、ストレートさ、素朴さが、今作『クリード チャンプを継ぐ男』ではあらゆる意味でポジティブに作用しているのだ。というか、よく考えてみるまでもなく、そんなベタさ、エモーショナルさ、ストレートさ、素朴さとは、まさに『ロッキー』シリーズの持つ美徳である。適材適所とはまさにこのこと。社会派を気取ったドキュメンタリー・タッチの文芸作(『フルートベール駅で』)ではわからなかったが、クーグラーの才能は、まさにメインストリームのエンターテイメント作品に打ってつけのものだったのだ。


 驚かされるのは、そんなクーグラー監督から「『ロッキー』の続編のストーリーを考えてみました!」と脚本を渡されたシルベスター・スタローンが、彼に惜しみない協力を申し出たのが、クーグラーが『フルートベール駅で』で成功する前だったという事実だ。つまり、スタローンは、まだ長編を一作も撮ったことがない20代の黒人青年からのムチャブリとしか思えないオファーを、その脚本の完成度一点において信頼し、真摯に受け入れたのだった。その時のクーグラーはまさに、70年代当時ポルノ映画への出演や用心棒として食い扶持を稼いでいたスタローンが、『ロッキー』の脚本を3日間で書いて各プロダクションをたらい回しにされていた「あの日のスタローン」の再来であり、スタローンはそんな野心と才能以外は何も持っていない青年に、40年間自分が最も大切にしてきた『ロッキー』シリーズの未来を託したのだ。マジで、スタローン男前すぎる。


 『クリード チャンプを継ぐ男』が驚異的なのは、そんなスタローン自身のサクセスストーリーをトレースした主人公ロッキーの最初のサクセスストーリーを、ここで再びまったくフレッシュなものとして蘇らせることに成功していることだ。往年のファンならば観ながらニヤニヤせずにはいられないオリジナル一作目へのオマージュが全編に溢れている一方で、焼き直し作品的な印象は一切ない。なにしろ、ここでクーグラーは(もちろんスタローンの協力のもと)あの長年親しまれてきた『ロッキー』シリーズを、まったく別の観客層に支えられてきたジャンル映画の歴史に接続させることに成功しているのだ。「まったく別の観客層に支えられてきたジャンル映画」、つまり本作は『ロッキー』の続編であると同時に、監督も主演も黒人による「ブラック・ムービー」の最前線にも立っているのだ。


 本作がブラック・ムービーの流儀とグルーブ感に貫かれていることは、アメリカ社会(主にニューヨーク)におけるイタリア系移民と黒人の抗争や対立の歴史(いわば差別されるもの同士のいがみ合いの歴史だ)を踏まえると、なおさら感動的な融和と言えるが、そんな社会的・人種的バックグラウンドを抜きにしても、本作がノスタルジックな作品ではなく極めてモダンな作品となった大きな要因となっている。権利関係の問題からだろうか、本作ではあのビル・コンティの音楽が鳴らない。その代わり、全編を覆っているのはループ・フィアスコらによるヒップホップだ。観る前にそのことを知ると、おそらく誰もが「ビル・コンティの音楽がない『ロッキー』なんて」と思うだろうが、それにもかかわらず、ここにはオリジナルに比肩する感動があるのだ。「ストレイト・アウタ・フィラデルフィア!」。「フロム・フィラデルフィア・トゥ・リバプール!」。作品の途中から思わずスクリーンに向かってそんなふうに叫びだしたくなる衝動に駆られっぱなし。リバプールのサッカー・スタジアム(エバートンのホームスタジアム)、グディンソン・パークでの最後の試合のシーンでは、涙でスクリーンが滲みっぱなしだった。


 リメイク、リブート、スピンオフ……。ここ10数年、ハリウッドは過去の名作を蘇らせる数々の手法を「開発」してきた。しかし、オリジネイター(スタローン)としっかりと手を組みながらも、オリジナルのジャンルを華麗に飛び越えていく、こんなやり方があったとは! 『クリード チャンプを継ぐ男』はその心意気と熱さにおいて、『ロッキー』オリジナル一作目にまったく引けをとらない傑作であると断言したい。(宇野維正)