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米米CLUBの功績を今こそ振り返る エンタメ性と音楽的探求はどう共存してきたか

2015年11月22日 15:01  リアルサウンド

リアルサウンド

米米CLUB『GO FUNK(完全生産限定盤)(DVD付)』

 バブル景気と呼ばれた80年代後半は、生活感の薄い無機的なモノがステータスとされていたことがある。そんな都会派感覚とシニカルなニヒリズムを独自の享楽主義で華々しくセンスを開花させ、90年代に国民的バンドにのし上がったバンドがいる。ファンク、ニューウェーヴ、ロック、ムード歌謡……、ごった煮の音楽を奏でながら、コント、寸劇、落語まで網羅する得体の知れない超個性派エンターテインメント集団・米米CLUBである。ジェームス小野田とカールスモーキー石井という相反する二人のボーカリストによる怪しいキャラクター性など、かつては“イロモノ”バンドと呼ばれたこともあった。しかし、そこに終わらなかったのは、高い音楽スキルと卓越したセンスがあったからに他ならない。


 デビューからちょうど30年目にあたる2015年10月21日、そんな米米CLUBの名作と迷作を含むオリジナルアルバム全16作がリマスタリングされ、Blu-Spec2とハイレゾ配信で蘇った。iTunes Music Store、Apple Musicでも“iTunes Remastered”として配信されている。結成当初から「エンターテインメントショーのメインが音楽」「二度と同じステージはやらない」を掲る米米の真骨頂はライブにあり、音源だけで魅力を知るのは困難なことでもある。「ライブとレコードは別モノ」とアレンジが異なることも多いが「家で繰り返し聴く」ことを前提とした聴きやすさと親しみやすさ、何よりも魅力溢れる楽曲と作品としてのクオリティの高さは特筆すべきところである。


・<初期> “米米クラブ”期


 米米CLUBの根幹にあるのは、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ(Kid Creole and the Coconuts、ファンクとラテンを融合した“ファンカラティーナ”の元祖バンド。93年6月には米米曲をカヴァーしたアルバム『KC2 PLAYS K2C』をリリース、共演も果たす)とPファンク(Parliament Funkadelic)であるが、初期はニューウェーヴ、ニューロマンティックの色が強い。元ホーン・スペクトラム(のちのスペクトラム)の中村哲によるプロデュースによるデビューアルバム『シャリ・シャリズム』(1985年)は特にその傾向も強く、新人とは思えないまとまりのあるサウンドに仕上がっている。これはメンバーが「納得が行かなかった」と後年に発言しているのだが、統一感と完成度は申し分ない。対して、2nd『E・B・I・S』(1986年)はセルフプロデュースであり、少々粗削りな印象もあるが、遊び心の要素も多く、楽曲バリエーションの豊かさも魅力的な作品になっている。


 『KOMEGUNY』(1987年)は初の海外、LAレコーディングである。ひたすら“二枚目”路線に徹しており、ファンの中でもとりわけ人気が高い。あの「浪漫飛行」も収録されているが、シングルカットされミリオンヒットを出すのは3年後の話。当時はまだこのようなファンタジー作風の楽曲は存在しておらず、異色な曲でもあった。


 初期米米サウンドの核となったのは、博多めぐみ(Gt)だった。スカートをなびかせながら繰り出す、エフェクティブとテクニカルが共存するアバンギャルドなギタープレイと、実は女性ではなかったという衝撃の事実に、驚きを隠せなかったファンも多かったはずである。


・<中期>“米米=88” 末広がりの8人編成期


 88年汐留PITにて行われた<輝け!米米CLUB大全集>を以て、博多とダンサーチーム“シュークリームシュ”のスウィートシューこと、サトミが卒業。そして、シュークの2人が正式メンバーとなり、米米CLUBは8人編成となる(8人で8周年を迎えた93年に8角形の日本武道館で8日間ライブを開催した)。ホーンセクションのビッグホーンズが“BIG HORNS BEE”となったのもこの頃。「KOME KOME WAR」(1988年)、「FUNK FUJIYAMA」(1989年)がチャートを賑わし、石井が監督を務めた両曲のビデオクリップが、米MTV Video Music Awards “International Video Award”で2年連続グランプリを受賞。名実ともに米米CLUBの「アート+音楽」というイメージが定着した。


 『GO FUNK』(1988年)は音楽評論家でもある萩原健太をプロデューサーに迎えて制作され、米米のエンタメ性とバンドらしさを凝縮した内容になった。『5 1/2』(1989年)では、石井の聴かせるポップス、ジェームスの野太いファンク、シュークのかわいい曲、といった彼らならではのレパートリーを確立する。


 そして、米米のエポックといえるのが過去曲のリメイクを中心に構成された『K2C』(1991年)だ。「今までのアルバムではアレンジやメロディーをいじられたりして悔しい思いをした」とメンバー自身が語っていたように、「sure danse」を原曲の構成とメロディに(95年リリースのベスト『DECADE』に「元祖 sure danse」が収録されているが、『K2C』のほうが原曲に近い)、「Paradise」は原詞(シングルリリース時、皮肉を込めてB面に「Parodise」というおふざけバージョンを収録)へと、本来のあるべき姿に戻されている。「I・CAN・BE」は大人びた雰囲気へ「KOME KOME WAR」はよりアグレッブなアレンジを施すなど、安易にリメイクベストという言葉じゃ片付けられない、バンドとしての成熟を見せたアルバムである。


 今やCD販売形態のスタンダードになっている「初回限定盤」は米米CLUBが先駆者であることは間違いないだろう。CD、LP、カセットテープと3つのメディアが混在してリリースされていたこの時期、メディア遷移を促すようにCDのみ特殊パッケージが用いられた。『GO FUNK』は豪華写真集、『5 1/2』はポケットチーフ同梱BOX、『K2C』は8cmシングル付きという当時としては画期的な仕様だった。


・米米の真髄“ソーリー曲”


 米米には音源化されていない(できない)楽曲も数多く存在している。その代表が、”ソーリー曲”(本来は“ウンコ曲”と呼ばれていた)と呼ばれる、二枚目路線と対極を成す“三の線”の曲だ。“米”というシュールなワードを元にした「私こしひかり」「奥さん米屋です」「農林28号」といった楽曲がバンドの発端であり、むしろこちらが真髄でもある。ジャンル無双、めちゃくちゃな楽曲展開、露骨なパロディから、ブラックジョーク、卑猥な下ネタにいたるまで、普通のアーティストなら怖くて踏み込めないところまで土足で踏み散らかしている。そんな迷曲の数々は“米米の下半身”といわれた『米米CLUB』(1991年)と『SORRY MUSIC ENTERTAINMENT』(1995年)に集約されているが、これでもまだ一端にすぎないのが恐ろしい。バラエティ番組仕立ての衝撃的問題作『米米TV ONODA-SAN』(1987年)というビデオもあったが、一度も再販・DVD化されていないのは、その過激すぎる内容に問題があるのだろう…。


・<後期>“イロモノ”から“国民的”バンドへ


 シングル『君がいるだけで』は累計289.5万枚という巨大ヒットを生み、かつて“イロモノ”と呼ばれた個性派集団は国民的バンドになった。(この数字は『およげ!たいやきくん』457.7万枚、宮史郎とぴんからトリオ『女のみち』325.6万に次ぐ、史上3番目の売上枚数であり、2000年リリースのサザンオールスターズ『TSUNAMI』293.5万枚に抜かれるまで「日本で一番売れたバンド」だった。)同曲は「バンド内恋愛御法度」を乗り越えて結ばれたフラッシュ金子と石井の実妹であるシュークのMINAKOを祝福する楽曲でもあり、『Octave』(1992年)は“石井竜也プロデュース”の下、「愛と祝福」をテーマに掲げた、いわばコンセプトアルバムでもある。


 しかし、この巨大ヒットによる代償は大きかった。メンバー自身「売れすぎちゃった曲」と、ライブでは生演奏ではなくカラオケでふざけて歌う茶化しも行われていたが、人気とともに膨大になった舞台美術と衣装、サポートを含めたメンバー増員、ジェームスのファンクより石井のファンタジー色の強いポップスに比重を置くなど、初期の卑屈で皮肉なナルシスさや毒々しさは薄れ、古くからのファンを困惑させた。稀代のエンターテインメントショーは「日本で最も楽しいライブ」と評された反面、期待が先行するパブリックイメージが誇大化し、本来の「米米らしさ」がねじ曲がって広まってしまったことも否めない。そして、石井の映画監督などの個人活動は、キザで胡散臭い“テッペイちゃん”から、才のある文化人としての“石井竜也”の印象を強くした。結果、95年には一枚岩とも思われたデビュー当時からのメンバー、ジョプリン得能(Gt)、RYO-J(Dr)の脱退、翌96年にはシュークリームシュの解散。そして同年11月、ついに米米CLUBは解散を発表する。


・再結成~そして現在


 97年3月の<a K2C ENTERTAINMENT THE LAST SYMPOSIUM>から約20年。2006年にまさかの再結成を果たす。黄金期ともいえる8人に加え、サポートであったBe(Gt)が加入した9人編成。「お客さんが楽しんでくれるのが嬉しい、でもやってる本人たちが一番楽しい」というTVK『ファンキー・トマト』やフジテレビ『冗談画報』で見た80年代のあの頃と変わらない本来の米米CLUBだった。「大人がふざけたことを真面目にやる」「高いスキルを以てくだらないことを全力でやる」という姿はむしろ、歳を重ねた今のほうが説得力も破壊力も増している。


 「30周年は僕だけでやらせてもらおうと決めた」今年、石井がソロとしてデビュー30周年記念のツアーを行い、デビュー日の10月21日には日本武道館に立った。何周年を記念して何かをやることが好きではない米米CLUB(8周年はあくまでシャレ、石井談)はまたいつか、ふと思い出したように、再び集まって世間をにぎやかすのだろう。


 文化学院の映画研究会の学生たちがトム・トム・クラブをパロディとし「”コメコメクラブ”というネーミングが面白い」とコンパで盛り上がったことが、そもそもの始まりだ。同じ音楽を志し、夢を追いかける仲間といったロックバンドのサクセスストーリーではなく、その場に居合わせた楽器の出来る連中が集まった企画モノであり、悪ノリでもある。コンパの余興がパブから学園祭になり、ライブハウスからホールへとどんどん大きくなっていった。本人たちが楽しみながら、そこに関わるもの、観るものを巻き添えにしていく。「米米CLUBとは文化である」とはカールスモーキー石井の言葉である。演者も観客も一緒に騒ぐ、ファンを含めたエンターテインメントが“米米CLUB”なのだ。(冬将軍)