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橋口亮輔監督が傑作『恋人たち』で描く不安と絶望、そして微かな希望

2015年11月22日 14:41  リアルサウンド

リアルサウンド

©松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ

 「00年代におけるベストな邦画は?」と問われると、いつも個人的に是枝裕和監督の『歩いても 歩いても』と、それから橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』を挙げてしまう。これらが映画的に優れているかどうか以前に、私はある意味、この二作に人生を救われたとすら感じており、その気持ちはいまも変わらない。


参考:橋口亮輔監督は新作『恋人たち』で何を描こうとしたか? 東京国際映画祭での発言から考察


 後から気づいたのだが、『歩いても 歩いても』の公開日は08年6月28日。『ぐるりのこと。』は同年6月7日。これらがほぼ同時に世に出た08年6月とはいったい何だったのか。つい昨日のようでもあり、また、とてつもなく昔のような気もする。


 とにもかくにも、あれから7年の月日が経過した。そしてコンスタントに映画を作り続ける是枝監督が『海街diary』を贈り出した今年、橋口監督は『ぐるりのこと。』以来7年ぶりとなる長編映画を完成させた。長きに渡る葛藤を乗り越えて生まれた待望の最新作。それが『恋人たち』だ。


 この映画に正直、度肝を抜かれた。なにか「映画とはこうあるべき」とする概念や尺度が全く通用しない境地に到達したというべきか。一瞬一瞬の密度に心がどうしようもなく震え、そして役者たちの「剥き出しの凄み」に激しく圧倒された。


 まず映画が幕を開けると、観た事もないひとりの役者が、独白を続ける。真剣な眼差しで妻との思い出について話し続けるのである。


 たどたどしくて、演技なのか即興なのか分からないほどリアルな語調だ。もちろん我々は彼のセリフ回しや語りのリズムを初めて耳にするわけだし、それに九州弁のイントネーションも入ってくる。彼は何を言わんとしているのか。なぜこんな独白をしているのか。そもそも彼の身の上には何が起こったというのか。セリフは決して線形には進まない。道草をするかのように蛇行を繰り返す。でもこうしているうちに、我々の心はすっかりと橋口亮輔の新しい語り口の中に、深く深く入り込んでいる。


 我々はここから3つの「愛」のかたちが群像劇として立ち上がっていくのを目撃する。主人公は3人。彼らはワークショップで才能を見出された新人俳優たちだという。登場人物のひとりは、かつて通り魔に妻を殺され、心が壊れかけてしまったアツシ(篠原篤)。ひとりは夫と姑との同居生活に愛も干上がり、別の男のもとへ走っていく瞳子(成嶋瞳子)。ひとりは完璧主義で自分本位な弁護士にして、長きに渡って同性の親友への愛を秘め続けている四ノ宮(池田良)。彼ら3人の物語が交互に描かれ(時に少しだけ交錯しながら)140分間という一瞬を織り成していく。


 『恋人たち』と題してはいるものの、そこに際立つのはむしろ、愛する者の「不在」だ。とりわけ先の「冒頭で話し続ける」アツシには胸を引き裂かれるほどの深い哀しみが付きまとう。


 哀しみはいまだ癒されることはなく、他人の何気ない一言によって心をズタズタに切り刻まれることもある。人知を超えるほどの巨大な悲劇に見舞われた時、私たちは一体どうやって乗り越えればよいのか。主人公の心をいまもなお席巻する不安や絶望。それらが本当に苦しい。誰も守ってはくれない。彼を取り巻く社会は極めて無情なやり方で彼を社会の隅っこへと弾き飛ばしていく。この日本をとりまく「空気」は深刻だ。


 『ぐるりのこと。』と同様、この映画には主人公たちを取り巻く人間関係や社会を通して、現代日本に充満する空気を映し撮ろうとする姿勢が貫かれている。


 その中でもアツシが橋梁の強度を確かめる仕事に従事しているという設定が、本作の寓意性を強めることになる。三面鏡のような群像劇の構造に、さらなる立体的な深みが加わったというべきか。彼は作業服を着て仲間と共に小型ボートに乗り込み、東京の高速道路の足元にあるコンクリートをハンマーで叩いて回る。そうやって反響する音に耳を澄まし、破損箇所がないか、それが後何年耐えられそうかを診断するのだ。


 このシーンには二つの意味が見てとれるだろう。ひとつはさながら深い傷を負った自らの心理構造へと降り立ち、ボートを静かに漕ぎ進めながら、自らの心の柱の強度を確かめるというもの。これは誰もが自己防衛のために自ずとやっていることなのかもしれない。もうひとつは、我々が生きる日本を支える深部構造をチェックするという意味合い。だからこそ彼が口にする「すべてぶっ壊れている!」という言葉は同時代を生きる我々にとっても非常に深刻なものとして重く伸し掛かってくる。


 ただ、本作は決して負の力に苛まれて終わるような脆い構造ではないのだ。人間の力を極限まで信じている。たとえば神懸かり的な「一匙」と言うべきか、本作は息の止まるほどの慟哭のシーンであっても、深刻なセリフの合間にサッと一瞬だけユーモアの光を挿し込ませることがある。この化学反応を受けて、観客の心には絶望ではなく、何かこそばゆくすら思える不思議な感情が芽生えてくることだろう。


 Akeboshiの奏でる音楽も相変わらずいい。深く沈みがちな主人公たちのこころに、日が昇り、また暮れていくといった日常のささやかなリズムと、微かな祝福を注いでくれる。


 そうやってだんだんと視野が広がり、まるで精魂込めて花を育てるかのように、希望の気配がおぼろげに顔を出し始める。この映画は具体的な結末を描くことは無いが、かといって絶対に希望を放棄することもないのである。


 ちなみに『滝を見にいく』(14)、TVドラマ「天皇の料理番」(15)でも知られる黒田大輔(役名も黒田)が、ずっとアツシのことを見守っている善意のかたまりのような役を演じている。その役柄には片腕がない。きっと壮絶な過去を抱えているのだろう。でも終始ニコニコと菩薩みたいに笑っている。彼は言う。「俺はあなたと、もっと話がしたいよ」。何気ないセリフに思えるが、人を優しく包み込み、そして力強く救う言葉だ。


 きっと今度は、アツシが黒田のような存在になっていくのだろうなと、ふと思った。希望のともしびとはそうやって大切に受け継がれ、次第に強度を増しながら繋がっていくものなのかもしれない。(牛津厚信)