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Perfume、AKB48、E-girlsの現在地から考える、女性グループにとっての「成熟」

2015年11月21日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015“WE ARE Perfume”Film Partners.

 公開中の映画『WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT』は、2014年に行なわれたPerfumeのワールドツアー及び2015年に出演したSXSW2015の裏側を追ったドキュメンタリーだ。Perfumeの3人をアイコンにしつつも、振付師のMIKIKOや映像等の演出を手がけるライゾマティクスの真鍋大度らを含めた、チームとしての成熟度の高さが強く印象に残る同作は、時折“アイドルのドキュメンタリー映画”という共通項をもって、近年のAKB48ドキュメンタリーシリーズとの対比で論じられている。AKB48のドキュメンタリーの代表的なイメージはおそらく、苛酷さやメンバーの疲弊を剥き出しに見せるような絵だろう。それと対比するならば、同じくライブの裏側に密着したドキュメンタリーである『WE ARE Perfume』は、凝集度の高いチームが目の前の展開に淡々と対峙していく作品といえる。それらはもちろん、それぞれのグループの一面のリアリティではあるはずだ。


参考:アイドルは「未成熟」を越えられるか? SDN48、恵比寿マスカッツの試みを振り返る


 しかしそもそも、それらのドキュメンタリーはそれぞれの製作側が「何を見せたいか」によって制御されている。Perfumeの3人が明らかな疲弊を見せる瞬間を切り取ることも、やろうと思えば可能だろうし、AKB48のライブに大人数なりの細やかな連携を切り取って見せることだって同様に可能だろう。すでに何編ものドキュメンタリー映画が製作されているAKB48に関していえば、寒竹ゆり監督によるドキュメンタリー第一作は、AKBドキュメンタリーのパブリックイメージを作り上げた高橋栄樹監督による二作目以降とは切り取り方の大きく違う作品である。つまり、AKB48というひとつの組織の中でも、グループが大きくなるにつれて何にフォーカスが当てられるかには変化が生じている。その意味でいえば、双方のドキュメンタリーに映った姿は、あくまで一側面でしかない。


 とはいえ、このような両者のドキュメンタリーの見せ方の差異には、各グループ特有の必然もある。もちろん、AKB48が混沌や人間関係のドラマを過剰なほどに強調してみせるのは、それが多人数グループの面白さ、スリリングさを効果的に見せる方法だからということもあるだろう。ただし同時に、そのようなドラマの強調は、所属メンバー個々にとって実際的な機能を果たしてもいる。この連載では2つ前の回からアイドルと「成熟」について考えているが、前々回に確認したのは、AKB48に代表される多人数グループの場合、基本は将来的にソロでそれぞれの道を見つけるためのステップとして、グループという場が位置づけられているということだった。この場合、各メンバーはまだ将来の活動方針を模索中の立場になるし、いわば「売り出し中」の身としてグループでの日々を過ごすことになる。ドキュメンタリー映画で人間関係のダイナミズムや感情の起伏を強調することも、選抜総選挙のような催しも、種々のユニットやソロ活動も、それ自体が一大コンテンツになってはいるが、他方でまだその一つ一つが、売り出し途上の多数のメンバーたちを縁取るようなドラマを与えたり、適性を探り当てるための機会をもたらすイベントでもある。AKB48のドキュメンタリーシリーズが、時に過剰に「ドラマ」を見せる群像劇であることは、そうした実際的な機能と地続きでもある。それは「卒業」を習慣化させているグループの宿命なのだろう。


 そう考えると、『WE ARE Perfume』はそもそも、人間関係のダイナミズムや感情の起伏によってメンバー個々を際立たせる必然がない。つまり、固定されたメンバーで成功を収めたPerfumeの3人にとって、Perfumeに在籍すること自体がひとつの成熟した姿であり、グループへの所属は「売り出し中」を意味しない。この点、循環していく他数のメンバーたちによって巨大なイベントが実現していくAKB48とは、エンターテインメントの性質が大きく違っている。それは個々人やそれぞれのグループの優劣の問題ではなく、メンバー循環を前提とするグループか、メンバー固定型のグループかによって否応なく生じる性質の違いである。ともに同時代に人気を博す「アイドルグループ」ではあれ、この二者を共通の位相で語ろうとすることはそもそも非常に難しい。


 ただし、アイドルと「成熟」について考えるとき、両者の対照は示唆的である。この連載前回で、グループアイドル全盛がもたらした「卒業」のルーティン化によって、「アイドルである/ない」の線引きが明確になると同時に、その線引きが「未成熟/成熟」に結びつけられやすくなる点について述べた。アイドルが未成熟なイメージに留め置かれてしまうことは、「アイドルである/ない」が「恋愛禁止/解禁」を示すものとされるような現象からもうかがえるが、そもそもこの線引きは「卒業」を前提としたグループに有効なものだった。Perfumeの場合、明確にアイドルというジャンルから出発したグループであるが、メンバーが固定されたまま強大な認知を獲得していく過程で、「アイドルである/ない」の境界をごく自然に曖昧にしていった。それは「アイドル」をはっきりと拒否することなく、アイドルというジャンルが抱える習慣やある種の旧弊からも自由になるような道筋だった。だからこそ、アイドルがキャリアを重ねて成熟していく姿の理想形としてPerfumeはしばしば語られる。


 しかし、Perfumeの場合もちろん理想形のひとつではあれ、アイドルを志す者にとって参照するためのモデルケースにはなりにくいのも事実だろう。その受容のされ方や来歴には、Perfume固有の幸運が大きく作用していた。後からくる者がその道筋をなぞることは不可能に近い。その点、後続の人々にとってのモデルケースとして見るならば、グループをあくまで一時的な所属機関と位置づけてその後のキャリアをうかがう、AKB48の形の方が似つかわしい。ただし、繰り返すように現状このモデルには、アイドルであり続けながら「成熟」していくイメージが構築できていない。アイドルというジャンルがキャリアを重ねる難しさはそこにある。


 ただ、少し視野を広げてみれば、「卒業」という儀式を取り込みつつ、ライフコースに応じて自然に「成熟」を実現する女性グループというモデルは描けないわけではない。LDHに所属するE-girlsは、今年10月のErieのE-girlsでのパフォーマー卒業や、下部組織のRabbits、Bunniesといった人事のあり方にみるように、ある程度のメンバー循環を視野に入れているグループである。しかし、ある立場を「卒業」後のグループ内での立場を含めて、成員のポジショニングに幅をもたせるそのあり方は、在籍メンバーが単純な「未成熟/成熟」といった視点にからめとられないバランスを実現している。それは、LDH全体でいえばさらに年齢の高いEXILEのHIROが先立って「パフォーマー引退」という道筋を拓いたことで、パフォーマンスグループの人事に新しい見え方を示したことによる部分もあるだろうし、またE-girlsが恋愛など性にまつわる規律を明示することに価値を置いていない点も大きいだろう。E-girlsが「アイドル」という言葉を採用していないことはよく知られるが、これは単に呼称だけの問題ではない。若くは10代からのメンバーが所属する組織の中で、それぞれが自然にライフコースを歩めるような、メンバー循環型のグループをいかに作っていけるか、LDHの歩みはそうした試行でもある。その推移を見守ることは、同様にメンバー循環型のアイドルグループにとっても重要なヒントになるはずだ。(香月孝史)