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深田晃司監督が明かす、『さようなら』で描いた“メメント・モリ”と独自の映画論

2015年11月16日 12:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015「さようなら」製作委員会

 劇作家・平田オリザの戯曲を原作に、死にゆく人間と死を知らぬアンドロイドの交流を描いた『さようなら』が11月21日に公開となる。監督を務めたのは、前作『ほとりの朔子』でナント三大陸映画祭グランプリ&ヤング審査員賞をW受賞した深田晃司。リアルサウンド映画部では、深田監督にインタビューを行い、本作の製作背景や映画に対する思いなどを語ってもらった。


参考:平田オリザが『さようなら』Q&Aで深田監督にメッセージ 「映画の強みを存分に発揮してくれた」


■「メメント・モリ(死を想え)の芸術を映画で表現したかった」


ーー本作は平田オリザさんのアンドロイド演劇が原作です。なぜ映画化しようと思ったのでしょうか。


深田:「フェスティバル/トーキョー」という国際舞台芸術祭が毎年池袋で開催されていて、2010年に舞台で初めて同作を観たときに、すぐ映画化したいと思ったんです。それで、オリザさんに「映画化していいですか?」と聞いたら、「ああ、いいよ」っていう一言だけで、あっさりと映画化権の許可をもらって動き始めた感じです。


ーー条件とか、こうしてほしいみたいな要望もなく?


深田:全くないですね、フリーハンドです(笑)。自由にやってくれと。


ーーなるほど(笑)。平田さんは実際に完成した映画をご覧になって、どんなリアクションだったんですか?


深田:一言「面白かったよ」って言ってくださいました。原作の戯曲自体は、15分ぐらいの短い演劇で、何もない真っ暗な舞台に椅子を並べて、そこでアンドロイドと女性が2人で対話する。観客にとっては、その女性が何者なのか全くわからないし、その場所がどこかもよくわからない。そういったシチュエーションで観客の想像力を最大限に引き出して、“死”というものをイメージさせる、極めて演劇的なアプローチでした。今回の映画では、より映像寄りの手法で、二人の周辺をもっと具体的に描き込んで、死体そのものも物質的に見せていきました。なので、演劇的な手法から映画的な手法への拡大、翻訳みたいなところを楽しんでもらえたと思っています。


ーー具体的にオリザさんの原作戯曲のどのような部分に惹きつけられたのでしょうか?


深田:1番惹きつけられたのは、死んでいく女性と死ぬことのないアンドロイドの対話を通して、強烈に“死”というものをイメージさせる、いわばメメント・モリ(死を想え)の芸術だというところですね。生き物はみんな死んでいきますが、概念としての死を認識できるのは人間だけだと言われています。だからこそ、“死”という逃げようのない巨大なインパクトからもがくように、古今東西の芸術家はいろいろな“死”を題材にした文学だったり絵画だったり音楽だったり、そういったものを作ってきた。そのようなメメント・モリの表現の最先端となるものが、アンドロイド演劇の『さようなら』だと思ったんですね。それはもともと僕の関心の高い分野だったので、これをスクリーンに持っていきたいと思ったんです。


ーーもともとアンドロイドに興味があったんですか?


深田:特にそういうわけではなくて、最初に描きたいと思ったのはその“死”の部分で、その“死”を描くのに、アンドロイドはちょうどいいなと思って。ただ撮ってみてやっぱり面白いなと思ったのは、今の科学技術の成果でもあり限界も一緒に併せ持ったアンドロイドと人間を共演させることによって、強烈に「人間とは何か」「アンドロイドとは何か」ということに想いを巡らせざるを得なくなってしまう。そこへの関心は確かに昔からあったんですね。アンドロイドと人間はすごく差があるようだけど、結局人間なんてものすごい複雑なアンドロイドに過ぎないのではないかという想いですね。


■「『さようなら』は全部で38シーンぐらいしかない」


ーー本作はクラウドファンディングで資金集めをしていましたよね。そのときは尺が90分予定となっていたのですが、実際にできあがった作品は2時間近くありました。これは脚本段階で延びていったのでしょうか? それとも製作段階でしょうか?


深田:クラウドファンディングを始めたときはまだ脚本が出来上がっていなかったんです。もちろん脚本段階で膨らんでいる面もあると思うんですけど、たぶん撮影段階ですね。僕も最近脚本を見直してみて驚いたことがあったんです。ちょうど今、僕は新作映画を撮影しているんですけど、シーンの数が145シーンぐらいで、2時間ちょっとかなってぐらいの長さの映画なんですよ。でも『さようなら』は全部で38シーンぐらいしかないんです。だから1シーン1シーンがものすごく長いんですね。何でもない時間をものすごく長く撮ったりしているので。例えば、ターニャが部屋で寝ていて、起き上がってお茶を飲んで戻って来るっていう流れを全部1カットで長く撮るとか。そういうことをやっていったので、尺が長くなっていったんだと思います。


ーー舞台版でも主役だったブライアリーさんを、映画版でもターニャ役で主演に迎えようというのは最初から決めていたんでしょうか?


深田:それは最初から決めていました。外国人でありながらアンドロイドと日本語で話している奇妙な面白さもそうですが、多言語を話せる彼女の無国籍な個性というのも映画の中で活かせたら面白いなと思い、人間らしさとアンドロイドらしさのイメージを崩していくポイントになりましたね。あとはやっぱり、日本が破滅して日本人が苦しむというドメスティックな話ではなく、災害が起こったときに苦しむ人たちに国籍は関係ないという世界観を取り入れたかったので。映画化すると決めてオリザさんに許可をもらった時点で、ブライアリーさんにも出演をお願いをしました。彼女は製作段階の資金集めのところから動いてくれて、プロデューサーの1人としても名前を連ねています。


ーー今回、レオナ役のアンドロイド・ジェミノイドFも主要キャストの1人ですが、役者陣だけでの撮影と比べて大変なことも多かったんじゃないでしょうか?


深田:それがですね、ものすごい大変なエピソードがあったら面白いんですけど、あんまりなかったんですよ(笑)。演劇の方では、公演中にアンドロイドが止まって大変だったみたいな話を聞いたり、その場に立ち会ったりもしたんで、「映画はもっと大変だぞ」と思ってたんですけど。撮影日数も11日しかなくて短期間だったので、途中でジェミノイドが止まったり壊れたりしたらもう撮影中止だ、みたいな。そう思ってハラハラドキドキでみんな覚悟して臨んだんですけど、結局撮影中にジェミノイドが止まることはほとんどありませんでした。撮影のほうもスムーズで。それはやっぱりアンドロイド演劇が2010年から繰り返し演じられていて、技術者の方もブライアリーさんも演劇のほうでもずっと一緒だったので、経験の蓄積があったんですね。あとはやっぱり、2時間だったら2時間、90分だったら90分、ノンストップで動き続けなきゃいけない演劇と比べて、映画はどんなに長くても1カット数分で終わって、1回カメラを止めてまたセッティングできるので、アンドロイドにとっては映画のほうが演劇に比べて負担が少なかったんじゃないかと思います。


■「社会派だから原発を描いたわけではない」


ーー難民問題や原発問題といった社会問題も作品の随所に散りばめられていますが、このようなテーマを組み込もうと思った理由はなんでしょうか?


深田:原作の『さようなら』は第1部と第2部があって、第2部には福島のことが出てきて、最後は壊れたアンドロイドが福島に派遣されるところで終わるんですけど、僕が観て原作にしようとした第1部には、原発も何も出てこなかったので、僕が映画にする上で勝手に付け加えました。前作『ほとりの朔子』でも、福島からの避難民という少年を描いているんですけど、僕が社会派だからそのような問題を描いてメッセージを伝えたいという思いは全くなくて。ただ、世界にはそういうこともありえるというレベルで描きたいと思っていて。それはつまり、『ほとりの朔子』に例えて言えば、恋愛ごっこに興じる少年少女の物語で、本来そこに原発問題なんか入れなくても済むといえば済むんですよ。でも、彼らの立つ地面は、福島や世界中で起きているあらゆる災害と地続きであるという、そういった世界観は忘れず持っていたいという気持ちがあったんです。


ーーその原発が原因で、様々な人々が映画の中に出てきては消えていきますよね。中でも、山下(村上虹郎)と木田(木引優子)がでてくるシーンが印象的でした。


深田:全体的な大枠で言えば、“孤独に死んでいく女性”というのが1番の核として描かなければいけないモチーフだったんです。ターニャの周りに、恋人、友達、家族など、いろいろな人物がいて、彼らが彼女の元から離れていってしまった後に、ターニャとアンドロイドだけが残される。世界そのものが死に進んでいくような…ある意味、陰湿でネガティブな世界観の中で、基本的には未来が閉ざされていくような話なんですけど、村上さんと木引さんが出てくるシーンだけは、未来を感じさせたかったんです。国が滅びて故郷を追われるというのは、ものすごくネガティブで悲しくて辛い出来事だと思うんですけど、実際の人々の受け止め方は多様だと思うんですよね。ひとつの災害があって、そこに100人の人がいれば、100通りの受け止め方があると思うんです。その中には、「外国の新しい生活楽しみ!」と素直に前向きに受け止めている人も絶対いると思うんです。だから、あのカップルはそういったことの象徴で、今起きていることをそんなにネガティブに捉えていないんですね。


ーー今回、イレーヌ・ジャコブさんと、ジェローム・キルシャーさんという、海外で活躍している2人も参加しています。彼らはどのような経緯で出演に至ったのでしょうか?


深田:もともと僕が『ふたりのベロニカ』という作品が大好きで、イレーヌ・ジャコブさんの大ファンだったんです。実はこの2人は、『変身』という、オリザさんの別のアンドロイド演劇に出演しているんです。僕はその撮影も少し手伝っていて、そのときに「ファンなのでよかったら観てください」と『ほとりの朔子』のDVDを渡しました。そしたら「面白かったよ」とメールが届いて。それで、「実は今こういう映画を作っているので出演してくれませんか」って聞いたら、「いいよ。何時に行けばいい?」みたいな(笑)。あっさりOKをもらいました。


ーーそこもあっさり決まったんですね(笑)。確かに深田監督の作品は海外の方々にも高く評価されています。海外の方にも分かりやすいように作品を作ろうと意識はしていますか?


深田:それは全く考えてないですね。映画を作るときには、自分が最初の観客だと思って、まずは自分が面白いと思えるものを作ろうと。基本的にはそれしかないと思っています。ただ、これは作家なりのセンスの問題にもなってくると思うんですけど、そういうときに普遍的な題材を選べるか、普遍的な価値観を示せるかどうかじゃないかなって。僕にとって普遍的だと思えるテーマやモチーフを扱うことができて、それがうまくいけば、日本人に限らず世界中の人がちゃんと何かしら面白がってくれるはずだと思っています。


■「例外的な演出意図がない限り、絶対にバストショットよりは寄らない」


ーー前作『ほとりの朔子』ではエリック・ロメール、今回の『さようなら』ではアレクサンドル・ソクーロフの影響も見受けられます。ご自身が影響を受けた監督や作品へのオマージュを自作の中でも取り入れようというのは、意識的に行っているのでしょうか?


深田:意識的というよりは、そういう性なんです(笑)。僕が映画を撮るのは、映画の現場が楽しいからとかではなくて、小さい頃から本当に映画ばっかり観ていた、ただの映画ファンなので。好きな映画の背中を追っかけて作っているという感じはありますね。やっぱり何か映画を作ろうと考えたときに、「ロメールだったらどうするんだろう」みたいなことは考えてしまいますし。ただ、どんなに参考にしても、真似をしても、オマージュを捧げても、滲み出てしまうものがオリジナリティだと思いますね。


ーーターニャとアンドロイドが車で移動するシーンで、引きのロングショットが使われていたのが印象的だったのですが。


深田:単純に車が走っている画が好きなんですよ(笑)。ただ、車中の会話を聞かせると同時に、世界を見せられるという点では意味があるかなと思います。やっぱり人があって世界があるけど、世界があって人があるというか。今回の作品に限らず、僕の作品は比較的引きの画が多いんですね。自分の中でルールとして決めていることがあって、例外的な演出意図がない限り、特に人物を映すときは、絶対にバストショットより寄らない。それは、3人称で描くということだと思っていて。ある特定の登場人物の気持ちや感情に同化するような作り方をするのではなくて、あくまでカメラは一歩引いたところで、関係性をフラットに眺めていくという。その方が観客にとっても、関係性の想像力を自由に広げられるだろうと。なので、そういうことをやっていくと、比較的引きの画が多くなっていくんですね。


ーーなるほど。そのこだわりは面白いですね。あと、今回の作品では時間の経過や原発事故後の空気感を表現しているような照明が素晴らしいなと思ったんですが、そこはやはり監督としてもこだわった部分なのでしょうか?


深田:そうですね。照明にこだわってやろうというのは最初から決めていました。もともと照明をちゃんとやろうと思ったのには3つ理由があって。1つは美学的な問題で、単純にああいう陰影の濃い画って美しいと思うので、今回はそれをやりたかった。日本で日常のドラマを描こうとすると、ほとんどが全体照明なので、なかなか陰影って出にくいんですよね。でも、今回は原発が吹き飛んで電気がなくなったという状況設定なので、思いっきりリミット外してできると思って。なので、照明の永田(英則)さんや撮影の芦澤(明子)さんには撮影前から相談して、陰影の濃い、ある意味、語弊はありますが西洋絵画的な画を作りたいと伝えしました。僕の中では2006年に撮った『ざくろ屋敷』という作品と向き合い方は近いので、その作品を観てもらいました。理由の2つ目は時間ですね。今回の作品の場合、時間が流れていくっていうのがものすごい重要で。それは主人公の女性が1秒1秒死に向かっていくという、その時間を描く映画なので、全く静かな画の中でも、確実に時間は進んでいるっていう。それは観客に対して無意識レベルに訴えかけるぐらいでいいと思っているんですけど。そのために、動いていないようなものでも、空間の中で光が揺らいでいたりして、確実に時間は進んでいるんだっていうことを表現したかったんです。3つ目は大気、空気を感じさせるってことですね。放射能の本質的な恐怖って見えないことなんですよね。見えないけど、確実にそこにあるという恐怖だと思うので。見えない放射能を感じてもらうには、最低限でも映像の中に空気が感じられるようにしないといけないと思ったので、光だったり、風に揺れるカーテンだったり、そういうものを意識しました。


ーーカメラマンの芦澤さんは黒沢清監督とよく組まれていますが、彼女を起用した理由は?


深田:これまで一緒に仕事をしてきたカメラマンの方も、今新作で一緒に仕事をしていて、素晴らしいカメラマンなんですけど、今回はちょっと趣向を変えたかったんです。あとは、単純に芦澤さんの撮る映像が好きなんです。黒沢さんの『叫』での廃墟のすごい陰影の濃い表現とか、『トウキョウソナタ』での冒頭でカメラがグワーって動いてなめていくような光と影の表現とかが素晴らしくて。是非一緒に仕事をしたいカメラマンの1人だったので、僕としては胸を借りるつもりでお願いしました。


ーー映画の中でも描かれているように、今後アンドロイドが一般的に普及すると思いますか?


深田:既にPepperとかが発売され始めてますけど、今回の映画で描かれているような、何かを介護するようなロボット、癒すためのロボット、コミュニケーションをとるためのロボットっていうのは普及してくるんじゃないかと思います。これは石黒先生も言ってましたが、やっぱりアンドロイドだとおじいさんやおばあさんが抵抗なく話せるらしいんですね。相手に基本的には人格がないから気を遣う必要もないし、これ言ったら怒るんじゃないかみたいなことも気にせずに話せる。あとは今後高齢化社会や少子化が進んでいけば、当然介護や老後の孤独が問題になっていきますよね。そういった意味でも、孤独死を癒す存在、あるいは孤独に死んでいく人を看取る存在としてのアンドロイドは、今後どんどん増えていくんだろうなと思いますね。(取材・文=宮川翔)