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『劇場霊』が切り拓くJホラーの新境地ーー不条理性に根ざした恐怖演出を読み解く

2015年11月14日 08:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015『劇場霊』製作委員会

 もはや、Jホラーはホラー映画というジャンルのひとつに留まるものではなく、日本映画のスタイルとして確立されている。基本的には98年の『リング』『らせん』から始まる正月第二弾興行の二本立てとして始まり、02年に『仄暗い水の底から』や03年の『呪怨』と続き、04年から始まったJホラーシアターにつながるというのが王道ルートであろう。とはいえ、Jホラーシアターが始まってからは、それまでのような大ブームが巻き起こらず、かえってホラーが苦手という観客を増やしてしまった印象もある。しかしそれは、日本人が最も怖れているものを描き出すことに成功したともいえるのではないか。


参考:『ヴィジット』に仕組まれた重層的なトリック 奇才・シャマラン監督の試みを読む


 Jホラーに具体的な定義はないものの、これまでのホラー映画にあったような、ショッカー描写やグロテスクを極力排除して、どこか湿っぽい不気味さと、かつ何故襲われるのかが判らない不条理さを、ある種の因縁にも似た物語に乗せて描くそのスタイルは、日本古来の、まるでラフカディオ・ハーンの『怪談』まで遡っているかのような純然たる「恐怖」を追求しようとしている点で共通している。それは、死者の哀しい欲求が生者にとって恐怖としてしか捉えられないというパラドックスによって生み出されるドラマであり、ある意味では日本の宗教観に似ている。これをハリウッドでリメイクしたところで、到底再現のしようがなかったことは言うまでもない。ホラー映画ほど、その国の宗教観が反映されている映画はないのである。


 そもそも、怪談的な恐怖というものは科学的に証明しようがない。心霊スポットや幽霊がいるといった情報によってもたらされる先入観から、脳が錯覚を引き起こしているものであって、それによって体験する、恐怖感や気味の悪さというものは、映像として具現化することは極めて難しい。それゆえ、映画でそれを実現するとき、必然的に目に見える物体(=幽霊などの恐怖の対象物)を置く必要性が出てくる。それが『リング』の貞子や『呪怨』の伽倻子のように登場人物に迫ってくるようなアメリカ的な方法論で恐怖を生み出すこともあれば、『死国』の莎代里のように日本の文化に素直に即したタイプのときもある。もっとも、それらは単なる記号でしかなく、『劇場霊』においては一体の人形がその役割を担った。


 人形師の男が作り出した一体の人形によって、彼の娘が変死する場面からこの映画は始まる。彼はその人形を破壊するが、残ってしまった頭部だけが、巡り巡って20年先の、ある舞台演劇の小道具として採用されてしまうことから始まる惨劇を、これまでのJホラーの形式を踏襲しながらも、どこかヨーロッパ製ホラー映画のにおいを漂わせながら描き出している。舞台のために劇場に集まった、若く美しい女性たちに代替品の身体で迫る人形が放ち続ける絶望的な欲求は、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』を想起させ、またクライマックスで訪れる壁に移る影から恐怖の接近を予感させる演出はカール・テオドール・ドライエルの『吸血鬼』そのものである。


 もっとも、この映画で驚嘆すべき点はそれだけではない。『劇場霊』がどういう映画か説明して、と言われたとき、おそらく「人形が動く映画」という単純明快なプロットでしか説明ができないのである。これは『呪怨』が「ある家に関わった人たちが襲われる映画」として説明できるほど単純でありながらも、突き詰めてしまえばあまりにも長い物語として説明しなくてはならないことに対して、徹底的な無駄を排除したことである。島崎遥香演じる主人公が女優を志した動機や、事件が起こっても中止されない舞台の重要さなどは、決して明確に描かれることなく、ただ舞台のヒロイン争いがあって、人形が動くという最低限度の設定のみで映画を動かしているのである。もちろん、何故人形の頭が巡り巡ってきたのかの説明も、不条理のままなのである。


 この不条理性から生まれるホラー映画の定理となると、やはり根底に小中理論(脚本家・小中千昭が著書『ホラー映画の魅力』で解説した、恐怖を生み出すための表現論)の存在を感じることができよう。そもそも人形は動かないという先入観を逸脱し、それが動くという極めてシンプルな方法論で生み出される恐怖の描き方を始め、多くのホラー映画が多用してきた、単なるサプライズでしかないショッカー描写を一切使わないことで、より基礎的な恐怖描写を追求しているのである。また、クライマックスでの舞台上における襲撃シーンは極めて異様な光景に映り、生きた殺人鬼ではなくあくまでも心霊であるはずの人形が、大勢の人間の前に姿を表すという、もはや情報の統一を超越した画期的な恐怖演出であった。


 もちろん主人公を演じる島崎遥香のホラークイーンとしての才も存分に楽しめる。中田秀夫監督は前々作『クロユリ団地』でAKB48卒業後の前田敦子を主演に配したが、再びAKB48のメンバーでホラー映画を作ると聞いたときは、少々不安な気持ちもあった。しかし、いざ出来上がった作品を見てみれば、そんな不安など軽く吹き飛ばされるのだ。そもそもAKB48関連のドラマの出演が主で、演技キャリアは浅いものの、グループ内でも努力家と知られている彼女だけあって、台詞読み自体には課題は残るが、普段の冷たい視線と恐怖シーンの表情とのギャップや、クライマックスでの決め台詞には、彼女を推しメンにしているファンでなくとも魅力的に映るであろう。かの大所帯グループの中でも群を抜いて、女優として輝ける素質を持った逸材である。(久保田和馬)