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オダギリジョー&中谷美紀が語る、“非”伝記映画『FOUJITA』が意図するもの

2015年11月13日 11:11  リアルサウンド

リアルサウンド

オダギリジョー、中谷美紀

 『死の棘』(1990年)でカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ&国際批評家連盟賞をダブル受賞するなど、海外でも高い評価を受けている小栗康平監督が、約10年ぶり(!)に撮り上げた、待望の新作映画『FOUJITA』。ここで描かれるのは、1920年代のフランス・パリと太平戦争前後の日本という、2つの異なる時代と環境を生きた画家・藤田嗣治の数奇な運命だ。リアルサウンド映画部は、おかっぱ頭に丸メガネという個性的な出で立ちで、主人公“フジタ”を熱演したオダギリジョーと、フジタの晩年を支えた5番目の妻・君代を演じた中谷美紀の2人に取材を敢行。ともに1976年生まれの同い年でありながら、面と向かって芝居を交わしたのは意外にも今回が初という2人に、美学的なタッチで知られる小栗監督の撮影現場の様子やお互いの印象、そしてある意味“芸術至上主義的な作品”となった本作の意図するところについて尋ねた。


参考:オダギリジョー主演『FOUJITA』東京国際映画祭に出品へ「映画史にその名を残す作品」


■「そこに“存在すること”が、いちばん大切だったと思います」(オダギリ)


――本作に出演されるにあたって、どんな事前準備をされましたか?


オダギリ:特にないですよ、大袈裟なことは(笑)。最初に監督から、フジタのことは勉強しないでほしいって言われたんですよね。で、その言葉を真に受けて、あまり調べないように……とはいえ、やっぱり心配だから、ちょっと調べてしまったり(笑)。ただ、それを全部忘れて、現場に入ろうとは思っていました。もちろん、絵を描いたりとか、フランス語をしゃべったりっていう、現実的に乗り越えなきゃいけない課題はいくつかあったので、その練習はやりましたけど、そのぐらいですよ。


――なるほど。


オダギリ:感覚的な話になってしまいますが、結局、その現場で何が起こるかみたいなことって、行ってみないと分からないところがあるんですよね。特に、小栗監督の場合は、肌感覚でフジタを演じて欲しい、生きたフジタを見せて欲しい。そういう事を望む方だったんです。資料や情報を集めて、フジタとはどんな人間かと分析したり、頭で演じてしまうと感覚的な部分が小さくなってしまいますからね。固定観念に囚われてしまうのも怖いですし。だから、今回の作品では、1920年代のパリと戦時中の日本という、まったく雰囲気が違うふたつの世界で自分が置かれた状況に、いかに順応できるかっていう。そこに“存在すること”が、いちばん大切だったと思います。


――中谷さんは、いかがでしたか?


中谷:事前に監督からの指示も特になかったので、大して準備はしなかったのですが、フジタが晩年を過ごしたエッソンヌのアトリエがあるのですが、そちらを訪れたりですとか……あと、ランスにあるノートル=ダム・ド・ラ・ペという、フジタが最後の集大成としてフレスコ画を手掛けた教会を訪れたりしたぐらいですね。


■「映画だからこそ描ける、フジタというものを作りたい」(オダギリ)


――藤田嗣治は、20年代のパリと戦時の日本という2つの文化と時代を生きた画家ですが、そんな数奇な運命を辿った“フジタ”という人物を、おふたりはどのように捉えながら今回の役どころを演じたのでしょう?


オダギリ:すごく乱暴な言い方なんですけど、僕はフジタを理解しようと思わなかったし、フジタになろうとも思ってなかったんですね。彼がどんな人で、どんなエピソードを残していて、どう思われているかということを、まったく念頭に置かなかったんです。それはそれとして、僕は小栗監督が書いた脚本のフジタを演じるだけだという気持ちでした。というのも、小栗監督が「この映画は伝記にしたくない」とおっしゃったんです。


――伝記にしたくない?


オダギリ:はい。本や資料を読んだり、ドキュメンタリーを観たりすれば、フジタを知ることはできるわけですが……それは結局フジタの行動の羅列でしかないというのか‥「映画だからこそ描ける、フジタの内面や感情を大切にしたい」というようなことを監督がおっしゃっていて。それはイコール、フジタを再現しようとは思ってないじゃないですか。だから、小栗監督のオリジナリティを持ったフジタという人物を、どう作り上げるのか。そこにこの映画の意義があると思っていたんです。


――なるほど。


オダギリ:なので、僕もフジタを真似ようというつもりがなかったんです。だから、誤解を招く言い方になりますが、結局のところ、フジタがどういう人間だったのか分からないままですし、それを掴もうとはしなかった。まったく別の感覚で演じていましたね。


――とはいえ、おかっぱ頭に丸メガネ姿のオダギリさんは、我々が写真など見るフジタと瓜ふたつでした。


オダギリ:あれも最初、監督は似せなくていいって言ってたんですよ。髪型も別におかっぱである必要もないしって。ただ、あのインパクトって、どの時代の人も残っているというか、「フジタと言えば」というスタイルだと思ったので……一応、勝手にカツラと丸メガネを用意して行ったんですね。で、一回、「ちなみに、カツラとメガネを付けると、こんな感じです」って監督に見せたら、結構面白がってくれて。「じゃあ、映画の前半、パリのパートは、これでいこうか」っていうことになったんです。


――そうだったんですね。しかし、そんなフジタの五番目の妻・君代として、日本のパートから登場する中谷さんは、さらに難しい役どころだったのでは?


中谷:そうですね。実際にお会いしたわけではないので、君代さんがどんな方だったのかは分からないのですが、オダギリさん演じるフジタが、ずっとフジタでいてくださったので(笑)。もちろん、フジタという人は、美意識の大変高い方ですので、その美意識の一端を担いたいという思いはあって……とはいえ、フジタにはフジタの世界があって、実際に絵を描いているアトリエには、君代さんも入れなかったらしいんですよね。ですから、どこかその立ち入ってはいけない境界線みたいなものを感じつつ、それでもこうフジタを手のひらのうえで転がそうとして転がされているような、そんな何とも言えない関係だったんじゃないかと思って演じていましたね。


■「無駄なものを排したところにある、もっと奥のものを描こうとしている」(中谷)


――実際の現場は、どんな感じだったのですか?


オダギリ:普段、お芝居をしていて……テレビや舞台、映画、まあいろんな分野があるんですけど、その場その場に合わせた芝居を、どこかバランス取りながらやっていたような気がするんですね。今までの経験上、こういう表現がこの場には適しているんじゃないかって自分で判断して、芝居をしてしまっているところがあったというか。だけど、小栗監督の作品には、そういう計算めいたものはいっさい必要ないんですよね。むしろ計算をすると浮いてしまう。小栗監督が作る世界は淡々として見えるかもしれませんが、その淡々とした芝居の中にも、観る人たちにすくい取ってもらいたい部分が、そこにたくさんあるんです。余白のなかにこそ、いろんなものが詰まっているタイプの監督だと思うんですよね。


――余白ですか?


オダギリ:ある時、小栗監督が仰ったんですが、1つのカットを撮る時、そのフレームにはもちろん俳優が立っているんだけど、そこには物があったり風が吹いていたり光が射していたり、絵の中にある全てのものがそのカットを構成している。俳優が1人で表現出来ることは限られているんだ、と言うんです。俳優が余計な芝居をしてしまうと、その他のものに意識が行かなくなりますもんね。そういう奥行きを考えた表現の仕方を、とても誠意を持って追求されている方だと思うんです。だから、そこに身を預けて、ひとつの作品に携われたことは、自分にとってすごくいい経験になったというか、俳優としてちゃんとゼロに戻してくれる、余計なアカを落としてくれるような経験になったと思います。


――中谷さんは、いかがでしたか?


中谷:私にとっては、小栗監督の『泥の河』(1981年)と『死の棘』(1990年)という2本の映画が、とりわけ記憶に鮮明に残っている素晴らしい映画で……映画史に刻まれる名作だと思うのですが、そのような監督とお仕事ができるというだけで幸せでした。とはいえ、監督のおっしゃることを自分が表現する……むしろ、監督は表現しないことを求めていらっしゃって、感情を台詞に込めずに話すというのが、とても難しくて。監督の思い描いていらっしゃるところに辿りつくのに、なかなか時間が掛かりましたね。オダギリさんは、それをもう、サラリとやってのけるので。


オダギリ:いやいやいや(苦笑)。


中谷:オダギリさんは、無駄な抵抗をなさらないんですよね。どうしたらこんなに力が抜けるんだろうっていうぐらい楽に演じていて……そこが素晴らしいですよね。私はどこか抵抗してしまって、それですごく時間が掛かってしまったのですが。台詞に抑揚を付けず、ゆっくりと間延びしたように言うのが、どうしても難しくて。途中で「気持ち悪い」って申し上げたら、監督に怒られましたけど(笑)。でもきっと、そういう無駄なものを排したところにある、もっと奥のものを、監督は描こうとしていらしたんですよね。何とかそれに近づくように努力しましたけれど……難しかったですね。


■「この映画が素晴らしいのは、監督が観客の想像力を信じているところです」(中谷)


――先ほどオダギリさんがおっしゃっていた「伝記映画ではない」というのは、非常に重要な点だと思うのですが、観客はどんな気構えで、本作に臨めば良いでしょう?


中谷:この作品に携わって本当に素晴らしいなと思ったのは、監督が観客のみなさまの想像力を信じているところなんです。そこまで説明しなくても分かってくださるはずだという暗黙の了解と言いますか、日本人のインテリジェンスを信じているという。私はそこに感銘を受けました。


――いわゆる“説明台詞”のようなものは、いっさい無いですものね。


中谷:無いですね(笑)。実は、もうちょっと物語があったにもかかわらず、全部カットなさいましたから。ただ、そういう想像力って多分、日本人にはもともと備わっていたものだと思うんですよね。日本って、行間を察するような文化ではありませんか。


――良い意味で“空気を読む”というか……オダギリさんは、いかがですか?


オダギリ:今って、本当に分かりやすい映画というか、ちゃんと答えを出してくれるものだったり、どういう感情で観ればいいのかすぐに分かるような映画だったりが、日本映画の主流になっているような気がして……。


――ある意味、観客の想像力を必要としないような?


オダギリ:ええ。先ほど中谷さんがおっしゃったのとは、逆のものが多い気がするんです。で、俳優として映画に関わっている僕らとしては、それをちょっと残念に思ったりするんですけど……その一方で、お客さんもやっぱり残念に思っているはずなんですよね。そういう作品が多い現状を、すべての人が喜んでいるとも思えないし。もう少し能動的に映画を楽しみたいはず。ただ、フジタという人間をわかりやすく教えて欲しいと思っている方がこの映画を観に行っても、そこに求めていたものがあるかどうかは……。


――フジタの伝記映画には、なっていないということですよね。


オダギリ:はい。ただ、感じることって、ひとりひとりまったく違っていいと思うんですよね。みんながフジタの答えを求めて観に行くべきじゃないというか……それって、逆に気持ち悪いじゃないですか。ひとりの人間のひとつの側面だけを描く映画なんて、あるべきじゃないと思うし。その人のいろんな面を想像することによって、初めてその人物が立体化していくような気もするので。だから、フジタという人物像を捉えにいくというよりは、それを通じて豊かな時間を過ごすというか、そういうものに近い気がするんです。僕はこの映画を観たときに、本当に観て良かったと思えたんですよね。いろいろな事を考えることが出来たし、ゾクゾクするような感覚も味わったし。


――特に、終盤のイメージの美しさは、鳥肌ものですよね。


オダギリ:そうなんです。何か今の社会って、いろいろ大切なものを見失いやすいじゃないですか。文化的な豊かさが、軽視されているようにも感じるというか。そういうものを味わう余裕があんまり無い社会のよう気もするんですよね。時間とかお金ばかりが上に立っていて。この映画は、それとはまったく違うものを目指している映画だと思うので、是非一度立ち止まって、そこを感じてもらえたらなって思います。(取材・文=麦倉正樹)