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ジョージ・クルーニーが『ミケランジェロ・プロジェクト』で描く、国境を超えた「芸術の魂」

2015年11月12日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2013 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

 第二次大戦中、ヨーロッパのあらゆる財産を略奪、あるいは破壊しようとするナチス・ドイツの魔の手から、価値ある美術品を守ろうと立ち上がった男たちがいた。それが、実在した英雄たち、美術品奪還作戦部隊「モニュメンツ・メン」である。


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 この、知る人ぞ知る実話を基にした、『ミケランジェロ・プロジェクト』は、彼らの熱い戦いと友情をコメディ・タッチで描く、ユニークな戦争映画だ。そして本作は何より、現代の潮流に逆らうような演出で、じんわりとした熱を内に秘めた、血の通った作品にもなっている。今回は、この熱さの理由、そして、製作、主演、監督、脚本を手がけたジョージ・クルーニーが、この題材を選んだ理由を明らかにしていきたい。


■ジョージ・クルーニーの新たな挑戦


 32歳のときに、TVドラマ「ER緊急救命室」の医師役で、はじめて俳優として大きな成功を収めたジョージ・クルーニーは、遅咲きでありながら、ケイリー・グラントやジェームズ・スチュアートを思わせるダンディな魅力で人気を拡大し、いまやハリウッドになくてはならない存在になっている。映画への熱意があり、人望にも厚い彼は、数多くの映画を製作してきた。『ミケランジェロ・プロジェクト』は、監督としての5作目の映画となる。


 戦争映画でありながら、芸術という優雅な要素を扱っている本作は、現代の作品には珍しく、悠長さや静かな味わいを感じ、作中で流れる軍隊マーチ調の音楽とあいまって、『大脱走』や『戦場にかける橋』など、5、60年代の第二次大戦を描いた戦争映画を思い起こさせる。もともと、監督としてのクルーニーの趣向は、彼の俳優としての雰囲気同様にクラシカルだ。デビュー作『コンフェッション』は、オーソン・ウェルズを意識した撮影に挑戦しているし、『かけひきは、恋のはじまり』で、20年代のプロ・フットボールの世界を描いたように、ここでも彼は、表面的な現代性や、商業性をいたずらに追わない作品づくりをしている。それは、ある意味でジョージ・クルーニーだからこそ許される、特権的アプローチであるといえるかもしれない。


 リベラルな政治思想を持つクルーニーは、社会への意識の高い俳優の中でも、とくに積極的に多くの社会活動に従事し、スーダンへの紛争問題についての働きかけによって、国連平和大使にも任命されていた。俳優同士の横のつながりによって、多くのスター俳優がクルーニーの作品に出たがるという強みがあるとはいえ、今までの彼の作品は、政治における正義の失墜や、アメリカの負の歴史などをテーマにし、政治的信念が強く打ち出されるものになっており、見る者を選ぶことは確かだ。しかし今回は、そのような政治性に加え、戦闘アクション、コメディ、友情、ラブストーリーを配置し、最も大衆的な領域での作品づくりに踏み込んでもいる。これは、クルーニーにとっては大きな挑戦であっただろう。本作の明快さと、いきいきとした名優たちの演技を見れば、その試みはしっかりと実を結んでいることが分かるはずだ。


■ヒトラーが芸術を弾圧する理由とは


 ナチス・ドイツが、戦時中にユダヤ人を大量虐殺するという歴史的犯罪に手を染めたことは、有名な事実だ。しかし、ナチスの悪行はそればかりではない。軍事力で支配下においたヨーロッパにおいて、国内外の、公的もしくは私的な財産を没収し略奪したのだ。さらに、多くの書物や美術品、建造物などが、総統アドルフ・ヒトラーの意向によって、焼かれ、破壊されていく。


 アドルフ・ヒトラーは、何故このようなことをしたのだろうか。本作でもその構想が描かれている、ナチスが征服する世界各地から集めた美術品を厳選し展示するはずだった「総統美術館」建設計画の中身と、ヒトラーの過去を知れば、その謎は解ける。


 「私の本質は、政治家ではなく芸術家である」とは、ヒトラー自身の発言だが、実際の彼は、過去にウィーン美術アカデミーの受験に失敗した劣等生であり、描く絵自体も、面白さや野心に欠け、最低限の技術があるだけの、才能を感じないものであった。権力を手中に収めてからは、キュビズムやダダイズムなど、同時代の新しい美術の流れを嫌悪し、軍事力で奪ったそれら急進的な絵画を、堕落の象徴として、「退廃美術展」と名づけた展覧会でさらしものにし、もしくは破壊・焼却した。総統美術館には、そのような「退廃美術」でなく、ヨーロッパ全土から略奪した、過去の偉大な芸術家の作品や、自身が奨励する、ドイツ民族の優秀さや勇敢さを題材とした、新古典主義的な手法の絵画を展示するはずだった。


 しかし、深く考えると、そのような過去の偉大な絵画は、新しい挑戦によって、いままでの芸術を革新することで後世の評価を得た作品ばかりである。描かれた当時は、新し過ぎることで批判された物も数多くあっただろう。だから、「ピカソやエルンストのような同時代の革新的な画家は野蛮で取るに足らないものであり、ミケランジェロやレンブラントなどの画家は偉大だ」という考え方は、芸術における基礎的な知識に欠け、美術界の評価をも無視した、ヒトラー個人の勝手な解釈に過ぎない。つまり彼は、個人的なコンプレックスによって、新しい芸術の流れを葬り去り、同時代に成功した芸術家たちの価値を、権力によって否定することで、青春時代の、そして人生の復讐をしようとしていたのだ。


 優れた芸術作品は、資産家が大金を払って所有したものであれ、略奪したものであれ、所有者が粗雑に扱ったり、ましてや勝手に焼却してよいものではない。所有者や体制の寿命などは短いものだが、芸術作品自体は、本質的には世界全ての人の共有の宝であり、未来の人々に残さなければならない遺産である。少なくとも、それが芸術を愛する者たちの総意であり、常識的な考え方だ。ジョージ・クルーニーが自ら演じた、本作に登場するハーバード大学付属美術館の館長・フランクは、そのような観点から、アメリカ軍に対し、ナチスによって蹂躙されていく美術品を守ることの重要性を説き、「モニュメンツ・メン」の発足を認めさせるのである。


■モニュメンツ・メンと「芸術の魂」


 第二次大戦中、フランスがドイツに侵略された時代に撮られた、サッシャ・ギトリ監督の『あなたの目になりたい』というフランス映画がある。その冒頭、ナチス支配下のパリで、ふたりのフランス紳士が、美術品を観ながら会話をしている。「カミーユ・コロー、ルノワール、マネ…君はこの芸術家たちの作品に、どんな感想を持つかね?」「うむ、我々は戦争では負けたが、芸術、そして精神性の面ではむしろ勝利したのだ」…この宣言を聞いて、映画を観ている、どん底の時代を生きるフランスの観客たちは喜び、一瞬の間、溜飲を下げたに違いない。芸術を愛し、その良さを心から感じることができる精神こそがフランスの誇りなのである。そして、そのような「芸術の魂」は、ヒトラーには無いものだ。


 ケイト・ブランシェットが演じた、パリのキュレーターであったクレールも、そのようなフランスの誇り、芸術の魂を持った女性である。美術品の整理のためにナチスに協力させられている彼女は、危険を冒し、略奪された美術品の行方を調べ、独自にリストを作っていた。クレールが、マット・デイモンが演じるジェームズに、自分の愛情を伝えるシーンは感動的だ。彼女は、弟が殺され、自分も処刑をされると脅されても、弱みを握り彼女を自分のものにしようというナチス将校の求めに応じるようなことはしなかった。そんな彼女がジェームズに愛情を感じたのは、美術品に敬意を払い、持ち主に返そうとする彼の姿を見て、そこに自分と同じ、芸術の魂を感じたからだろう。


 芸術の魂とは、ただ「財産」として美術品をとらえず、本当に芸術を愛する者だけが、同士として分かり合える価値観であり精神性なのである。そしてそれは、フランス人だけのものではない。各国から集められた、キュレーター、彫刻家、建築家、歴史家などによって組織されたモニュメンツ・メン全員が持っている価値観でもある。だから、彼らの結びつきは特別に強いのだ。


 モニュメンツ・メンの一人は、教会に置かれたミケランジェロの聖母子像を守ろうと、危険を冒し、敵の銃弾に斃れてしまう。その事実に直面した隊員たちは、彼の遺志を継ぎ、さらに結束を固め、さらなる危険に挑んでいく。戦局が悪化すると、ヒトラーは「ネロ指令」を発令した。これは、自国を燃やし焦土とするというものだ。ヒトラーは、「戦争に負ければ国民もおしまいだ」と、国民を道連れに無理心中をはかろうとするのである。さらにソビエト連邦も侵攻してくるなかで、モニュメンツ・メンはナチスの略奪品の隠し場所を必死で捜索する。彼らが無事、聖母子像をはじめとする美術品を発見できるかどうかは、本編を見ていただきたい。


 本作では、「美術品を守るために命を落とす価値はあるのか?」という問いかけがなされる。確かに、人の命は美術品よりも重い。人の命を芸術と交換するようなことはできないし、してはならない。だが、優れた芸術作品は、芸術家が命を懸けて生み出したものであることも事実だ。その作品は、危険を冒して守る価値があるはずだ。奪い返した美術品を持ち主に返すことを前提に、命を賭けるのである。そのリスクを負うことができるのは唯一、芸術の真の価値を知り、芸術の魂を持っている者たちだけなのである。


 その精神をしっかりと描いているからこそ、『ミケランジェロ・プロジェクト』は、熱さを内にこめた、あたたかな作品になっているといえるだろう。そして複数の国の人々が、国境によってではなく、正しい価値観を共有することによって協力し合う「モニュメンツ・メン」は、ジョージ・クルーニーが描くべき理由のある英雄たちであったと思えるのだ。(小野寺系(k.onodera))