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韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説

2015年11月11日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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■面倒な前置き


 連載タイトルこそ非ロマンス語圏を総て平等に扱うかの如き謳い方になっていますが、正直な所、僕の守備範囲は圧倒的に韓国で、これは新宿歌舞伎町からリトルコリア(厳密にはリトル明洞)を挟むボーダーの上に10年以上も住んでいた。という事もありますが、やはり文化的に、映画のみならず、韓国のサブカルチャーは強烈で、目が離せません。


参考:日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く


 とはいえ、もうK-POPの波も凪ぎ、韓国料理というのも10年も喰うと飽き飽きしてくるものでして、現在ワタシが韓国から得ている物は、テレビドラマ(見る物の90%が韓国産です)と映画(アジア映画では日本と韓国映画しか観ません)とヒップホップ(米5、韓国3、日2、といった配分)です。


 ワタシはナショナリストではありませんので、日韓の映画や音楽のどちらが優れているか?という比較に、愛国心的、或はその逆の、隣国への反発心といったファクター、バイアスがまったくかかりませんので、無心に比較しています(因みに台湾は今、韓流のコピーに大忙しですが、コピー期としての魅力に欠けるので評価しません。それは、台湾という国に対する物とは全く関係ありません)。


 その上で、ついつい国産よりも韓国産に手が出てしまうのは、いろいろなメディアで書いるように、僕個人がSNSやゲームやマンガやアニメやアイドルカルチャーを一切嗜まないので、単純に「ジャパンクールの現状」への適応力が低いだけだと思っています。これはエクスプレインでもエクスキューズでもディフェンスでもなく、ジャパンクールは素晴らしい文化なのではないか?と予想していますし、薄々実感しています。


 そうした者にとって、「漏れ伝わって来て、知らないでも無い」ぐらいのジャパンクールよりも、現前にある、韓流の「実質」は物凄く、机の上から平然と落とす事が出来ません。それはきっと、昭和の方が長く生きた年寄りの感覚かもしれません。


 とはいえ僕は韓流大好きの韓流ATMで、日本のアイドルや映画なんかクソだね。とかでは全くありません。毎回書いている、日本の「空虚」に対し、韓国は「実質」がみっしり詰まっているんですが、このみっしり感が重くて毎回胸焼けを起こしていますし、韓国のアイドルや女優に、特定の信心を持っていたりもしません(名前も憶えていない程です)。


 こういうことをくだくだと説明する事が無粋なのは良くわかっているのですが、ネットの世界というのは、この問題に関して、この位説明しておかないと、自分以外の人々にまで面倒がかかってしまうと脅かされたので(笑)、敢えて今回、本文の前で自分の立ち位置を明確にしてみました。実際は連載をお読み頂ければ説明せずともご理解頂けると当たり前に思っていたのですが、手間のかかる世の中になりました。


■韓国ノワール(ノワールのリアリティが生きている国)


 とさて、今回紹介する『無頼漢 渇いた罪』もそうですが、韓国映画も、他国と違わず、いわゆるヤクザ映画韓国ノワールといったジャンルは非常に盛んで、例えば数年前にチェ・ミンシクとハ・ジョンウが共演した『悪いやつら』(2012)という映画がありました。


 これは、盧泰愚(ノ・テウ)政権が、88年のソウルオリンピックに際して急進的に行ったソウル市の浄化/近代化(現在の「韓流」の下地はほとんどこの時に準備されています)の、言わば総仕上げとして、90年代に入り、ソウル市内における、暴力団殲滅宣言と、それに対する暴力団の抵抗を描いた、戦争映画とも言える半実録もので、韓国版『仁義なき戦い』とも言え、韓国ではかなりヒットしました。


 また、これはつい最近まで公開されていた作品ですが、イ・ソンギュンとチョ・ジヌンが出演した『最後まで行く(クッカジカンダ)』という映画があり、刑事とヤクザが一対一で戦う、いわゆるタイマン映画ですが、名だたる韓国内の賞レースで受賞しています。


 前回書いた通り、日本のヤクザ映画だと、でかい声と怖い顔で、笑ってしまうほど威嚇した後に、ノータイムでドスかピストルが出てきて、そんなもんが出てきてしまえばもうその段階で「死ぬまでの時間を引き延ばす」事以外できなくなります。


 これまた前回書いた、「暴力というリアル」の無化ですよね。古いアメリカの西部劇もそうで、撃ち合いになったら、時間つぶしがスタートするので、ダレるかダレないかは作品によって違うとしても、リアルの牽引力が霧散してしまいます。


 その点、韓流ノワールは、決定的な殺傷武器が出てくるまでが長く、前述の「最後まで行く」のタイマンシーンで使用されるのは何とダイアル式の黒電話(それを引き抜いて、マウントをとって何度も何度も顔を打ち付けると、みるみる腫れ上がって行く)や、どの会社にもある、金属製の書類ケースや、トイレの便器(「便器に顔を突っ込む」などという流暢な使い方ではなく、便器を固定した鈍器と捕らえ、顔やら腰やらに打ち付けるのです)だったりして、リアルの牽引力がハンパないです。


 後述しますが、本作は前述の2作と違い、カンヌ狙いの芸術志向なんですが、それでも、「そうとう強い悪役」を、マンションの一室に追い込んだ警察のうち、主人公である若くて良い男は最新式の、特殊セラミックみたいなので出来た、見るからに当たったら痛そうな細い警棒を、シューとかいって延ばしますし、先輩である壮年でデブの刑事は、何と金属バットを手にして突入に臨みます。その時の台詞が「相当手強いぞ、気を抜くな」というんですが、そのトーンに全く緊張感がなく、「今日は暑いからコート要らないよ」ぐらいの感じで、リアリティに震え上がります(北野バイオレンス映画みたいに「敢えて逆に行く」みたいな感覚とは全く違います)。


 とはいえ、この『無頼漢』のリアルは、こうした暴力シーンだけではありません。もう、映画が始まって、画面が立ち上がった瞬間の、半スラム的な公団の屋上に猫が一匹いて、それが主人公と入れ替わりに画面から見切れるんですが、まったくわざとらしくなく、緩く斜めに設置されたカメラも、おそらくフィルター無しの、明け方の濃密なブルーの画面も、震え上がる程の美しさで「こらカンヌが喜ぶわ」としかいいようがありません。


 韓国はスゴく変わった国なんです。ソウルでは、明洞というところが日本でいう原宿なんですが、明洞からちょっと車を走らせると、あっという間にスラムがあって、米軍の基地もある。地下鉄には明洞ですら北からの毒ガス攻撃に備えた防毒マスクが備えてあったりしますし。韓国には、日本がクールジャパン化される以前の前近代的な昭和の感じがまだ残ってるんですね。文化だけだと日本やアメリカと肩を並べるくらいなのに、経済的には破綻している。


 IMFの監査が2回もあった国なんて他にはないわけです。「IFMの監査が入ると外資が逃げる。その隙に南北の紛争が起こりそうだというデマを流して、死の商人たち=大抵アメリカが韓国の経済ごと乗っ取ろうとする」という設定のドラマや映画もあるぐらいです。この設定はまったくアクロバティックではありません。


 つまり、韓国映画の娯楽としての実質の強さが年々ものすごいことになっていることと、そしてインド映画の娯楽としての実質の強さが年々下がっているのは、貧困の有無だと思います。インドも地方に行ったら、気を失うぐらい酷い貧困がある訳ですが、ボンベイとソウルでは経済的な発展に於いて桁が違います。ヤクザ映画と一口に言っても、一作一作にコンセプトの違いがあって、豊かである。というのは、ゲトーもスラムも殆どない日本では臨むべきも無い豊かさです。


 ヤクザ映画に金は付きものですが、韓国にはどうしても貧困の問題があるから、描かれ方が懇切丁寧でリアルなんです。日本のヤクザ映画だと、あっという間にパーティーグッズみたいな札束が出てきて、「はいこれは歌舞伎の世界ですよ」という風にリアルが吹っ飛んでしまう。


 本作では、主人公の刑事が、もうひとりの主人公(実際は主人公は女性で、三角関係になるんだけど)である犯人を逮捕するに際し、みせしめのために、奴を半身不随にしろと、内部から命令されます。「足を撃つだけだ。殺さなくて良い。あいつを一生歩けなくすれば良いんだ。わかったな」。


 それだけでもリアルだなあと思うんですが、そのミッションの対価が5万円なんです(笑)。


 「韓国映画の犯罪映画は、金のやり取りがきめ細かい」というのは憶えておいて下さい。パーティーグッズの札束は出て来ません。


 それでいて画面はもう、東欧かユーラシアの平原かという位の美しさで、実際に行ったら悪臭で吐き気がするのは解り切っているスラムのリアルと、「画面が美しい=空気が澄んでいる」感を、無理なく見事に両立させた斬新な感覚には脱帽です。高い場所に動けば動く程、空気がきれいで、悪臭と毒性が渦巻いているのは地表近くなのだ。と、まるでSF映画みたいですが。


 ストーリーも、さっき挙げた『悪いやつら』や『最後まで行く』に比べると、ぜんぜん小さい話で、ヤクザの話というよりも、どちらかというと愛の話で、まあ女性映画なんですよ。


 前回書いたように、今の日本映画の構造的上限だと、任侠物の主人公が女性だった場合、女性の男性化、つまり「鬼流院設定」を組み込まずにはいられない訳ですが(これの、見事なポストモダンが、早くも80年代に『セーラー服と機関銃』で達成されていたのは、ジャパンクールの先駆としても映画史に残る事は指摘するまでもないでしょう)、昔の日本映画には、「女の生き様映画」が「任侠映画」と合成された作品はいっぱいあったんですが。今「女の生き様映画」ちゅうのは(以下略)。


 韓国は何せ兵役と儒教があるガチのマッチョ社会だから、まだまだ「女の生き様」+「任侠」が成り立つんですが、「あーんな古くさいもの、韓国人しか喜ばないよ」と仰るあなたは、ナショナリストの愚民とは決して言いませんが、先入観99%、イマジネーション1%で生きている、つまり人生を大変もったいなく過ごされている方なので、悪い事は言いませんので、是非本作を観て下さい。


■(またしても)カンヌ対策の話


 何か、この連載、通奏テーマがあるみたいになっちゃいますが、本作は「カンヌ対策バッチリ映画」なんですよね(笑)。実際、「ある視点」の方に出品されてます。


 以前、ホウ・シャオシェン監督の『黒衣の刺客』を紹介しましたが、そのときにカンヌ映画祭で賞を受賞するための傾向と対策のようなものがこの世には存在するんだ、という話をしました。


 いわば、相撲部屋が太った子を探してくるように、カンヌが賞を与えたいような、カンヌのブランドに合った人をカンヌが探してくるのか、それとも作品側からカンヌを獲りにいっているのか、あるいはそれらの双方向的な理由なのかは分かりませんけど、米国のアカデミー賞には、まだ幅があるんですよ。


 1950~60年代の頃は米国アカデミーの作品賞というのは受賞作に軽い一貫性がありました。初期はハリウッドがイチオシするスターの売り出し系とか、中期はアングロサクソンとかユダヤ系の人が作るような社会派のドラマとか、単に質の高い恋愛ドラマなどです。


 それが今は結構何でもありになってしまって。というより「アメリカ映画」のジャンルが広がり続けているので、昔のようなブランディングに安閑としていられないのでしょう。


 それに対して、カンヌはさすがフランスというか、まだメゾンのブランドを守る力学が萎えていません。


 ホウ・シャオシェンは画面にとても中国とは思えない密林や原生林を出すことで、カンヌの「ヨーロッパ以外の森のイメージに弱い」という傾向の対策をし、河瀬直美監督の諸作品との類似性を指摘しましたが、本作もガッチガチのカンヌ向けですね。


 なにせこのチョン・ドヨンは“カンヌの女王”と呼ばれていて、出演した作品はだいたいカンヌに出品されて、本人は審査員までやってるという。簡単に言えば、「韓国人で、女優である河瀬直美さん」ですよね。要するに、アジア人である自分が、フランス人から見たらどういう魅力持っているのか(ただエロいとか、綺麗とか、そういう意味ではありませんよ決して)ということを、客観的に熟知しているといいますか。河瀬と違うのは、テレビドラマや、カンヌ向きでない映画にも出ていて、コメディエンヌも、見も凍るサイコキラーも、普通の女の哀れも何でも出来る、オールラウンダーということですかね。


 ただ、やや戯れた言い方をすれば、お二方とも「カンヌ顔」なんです。もっというと「カンヌ体」でもあります。ルーシー・リューはハリウッド顔のハリウッドバディですが、カンヌ顔ではない。


 他にも女性監督も女優も山ほどいる中で、彼女等だけが賞を獲るということですから。善くも悪くも、賞というものは、そういう物です。


 このチョン・ドヨンという人は、オフショットではニコニコしていてさばけた普通のオバさんなんですけど、映画に出ると神がかるんです。本作でも最初は「このオバさん、ちょっとキツいなー」っていう感じなんですが、刑事役のキム・ナムギルが、チョン・ドヨンを好きになっていく過程に、こっちも完全にシンクロしちゃって(笑)、途中からもう、この人が、好きも嫌いも、とにかく一回セックスしないと収まらない。というぐらいの性欲を喚起します(ホントに)。


 でも、この映画が徹頭徹尾、ベタでゲスにならないよう、格調を保っているのは素晴らしく、(まあそれもカンヌ対策だろと言われれば、100%ノーとは言えませんが)、いやあよく出来てるなと思ったのは、サービスシーンである全裸が、最初に出ちゃうところです。


■裸体の意味


 この人の最大の見せ場=剰余価値である全裸というのを、観客が「ああ、この人の裸を見たいな。見たい。ああ、見たい」って思わせて、ピークで脱ぐんじゃ、ストリップになっちゃう。


 「いやあこんな、眉毛の無い、幸の薄そうな、何喰ってるか解んないような、頭も軽くおかしそうな女の裸なんか見たくねえよ」という段階で、ドッカーンと全裸シーン(寝ている)が来ます。


 スラムみたいな安アパートの一室で、絶対あんな毛布かけたくないわ。という不潔感漂う毛布と布団で、中年2人がセックス後に寝てるんですよ。ところが美しくもなんともないはずなのに、2人を銃を持って上から見下ろしている刑事の目線シーンが本当に美しい。


 まるでフランシス・ベーコンとかエリック・フィッシェルの作品のような、モダンアートの中のエロティックでリアルなペインティング作品みたいに格調高いんです。2人とも体の美しさがスゴくて。これもやっぱり日本人が見せ付けられないもののひとつで。


 アイドルの体は締まってるかもしれないけど、ダンスレッスンによって作られた体だから、よしんば脱いでもアスリート体型でしょうし、日本人俳優の男の体も兵役を通ってないから、やっぱジム体であって、それがアクトは言いません、それが日本なんですね。兵役で鍛えられた体っていうのは、殺傷訓練の痕跡を残しますから、韓国男は、老いも若きも全員がヤクザ役の第一関門を通過しているとも言えます。しつこいようですが、これを逆手に取った智将が、北野武監督でしょう。


 『無頼漢』は社会的なメッセージは何もないし、物語の枠だけを抽出したら、Vシネマの、しかも軽めの切ない奴ですよ。身を持ちくずした女がいて、捜査中の刑事も惚れてしまう。そして自分に対して金の工面ばっかしてるが、明らかに彼女を愛している逃亡中の犯人が恋人で、どうしてもその男のことが好きだと。刑事も女のことが好きだし、犯罪者と警官との三角関係になって、結局最後はどっちも死んでしまうという。


 Vシネを誹謗する気はさらさらありませんが、こんなストーリー、Vシネでやったら、主人公3人、リアルさゼロにまで下げないと演じられない筈です。


■もし「日本ノワール」のリアリティを追求するとしたら?


 日本で、ノワールもので、リアルさを表現するとしたら、渋谷~六本木を仕切っている人と、渋谷で遊んでいる人たちとの対比を描くしか無い。歌舞伎町はテーマパークですから。


 でも、「渋谷がロスみたいに映ってるリアルなJノワール」なんて作れないし、作ってほしくもないですよね。アンチクールジャパンの動きはいっぱいあるけど、「渋谷の任侠映画」は洒落にないならないでしょう。そもそも取材が出来ない。


 『無頼漢』は、善くも悪くも全部リアルで、画面の立ち上げから、リアルさに誘導され切ってるから、もう。刑事が張り込みで、ちょっとコンビニまで行って変な弁当を買って食うとか、月9のドラマでやられたりしたらどうでもいいようなシーンが(リアルじゃない世界に、リアルっぽいシーンを突っ込む悲劇)、ものすごく匂いたつような感じで迫って来るし、すべてのシーンにおいて、1秒も緩みがないんです。


■俳優がプライヴェートに見えない盤石さ


 主人公だけでなく、チンピラから親分まで登場人物達は全員大変リアルで、それでいて1番悪いやつは姿を現さないというところもリアルです。韓国ドラマを何本か観て韓国が好きな人だったら、知らない出演者はいないですよ。例えば、情報屋で出演している卑屈なヤツは、テレビドラマに年中出ている人です。日本でいえば、一時期の竹中直人さんくらい出演しています。


 でも、知らない人が観たら、嫌な情報屋にしか見えないと思います。そういうリアリティがものスゴい。竹中直人さんが5、6本に越境して、全然違う役をやっても、竹中直人さんにしか見えないというケース(この呪縛から逃れる為、竹中サンはモビットのCM一本やりの、渥美清型を選択されているので、話が少々古いですが)の真逆をいっているというか。


 逆に、日本ではリアリティがあったらダメなんですよね。全部があの俳優さんということになっていて、半分舞台裏を見ながらテレビドラマを見ているようなところが、これまたジャパンクール。


 文句を言っているのではなくて、独特な文化の発達を遂げているんですよ。最初からメイキングとか舞台裏を見ながら、本編を見ているという感じですよね。


 韓国なんか、日本以上にメイキングを見せるし、アイドルのリアリティショーとかいっぱいあるんです。舞台裏を見せまくり。でも、本編を見ている間は、舞台裏のことを絶対感じさせてはいけないという倫理が働いている。


■唯一のフェイク


 日韓の文化対比の話が長くなったので『無頼漢』に戻しますが、一カ所だけフェイクだな、って思ったのが、さっきの「セックス後に寝ている2人を刑事が起こす(女は起きない)。主人公は、正義と倫理の人なので、犯人の足を撃たずにベランダから飛び降りさせることで、足を骨折させて、ミッションを半分だけ遂行しようとする。というシーンがあります。


 そんで、全裸で3階から飛び降りて、足を押さえてもんどりうっているので、てっきり骨折したのかと思ったんだけど、下に降りたらものすごく強くて(笑)、明らかにUFC型の擬闘で、まず立ち技で顔面を殴り合って、坐ったらチョークを決めるっていうのは逮捕術としても、ヤクザの喧嘩の仕方としてもどうかな?UFCの定着度が日本より遥かに高いのは知っているけど、、、、という感じでした。


 それでも、チョークを決められた主人公は、何とサミングで脱出するの(笑)、サミングは、指を相手の目や鼻の孔に突っ込むという、どの格闘技でも禁じられている、一番エグいスキルです。これを、刑事が犯人に行う。


■音楽ハンパないです


 と、最後に、1番圧倒的にものすごいのが音楽。ハンパじゃないです。こんな映画っていったら失礼だけど、これくらいのストーリーだったら、適当な仕事で何とかなるんですよ。どよーんとした音楽と、愛のテーマみたいな音楽と、緊張感が高まるような音楽の3つを用意しておけば、一丁あがり。


 この映画ではチョ・ヨンウクっていう人が音楽を担当しているんだけど。プレスには『オールド・ボーイ』『ラブストーリー』『親切なクムジャさん』などで「音楽が映画にどれだけ影響を与えることができるのかを証明した」と書いてあります。それくらい、このアンダースコアはすごくて。音楽家として申し上げますけど、2ステージくらい違うというか、フランス映画よりもスゴいと思います。


 音楽のジャンルでいうと、ニュークラシックって言うんですが。芸大を卒業して、オーケストレーションができるからといって、テレビドラマ用にチャラくて簡単な分かりやすい曲を作るというのが、今までのオリジナルサウンドトラックの平均だったんです。それが最近はベートーベンなどのクラシックを勉強してきたような人たちが、惜しげもなく商業プロダクツにその能力を乗せてしまうと。例えば、渋谷慶一郎さんは現代音楽家だけど、初音ミクのオペラもやるというように、現代音楽のテーマが大きくポップな方向へ舵をとりだした。そういった現代音楽側の事情と、それをアダプトしようとしているテレビドラマや映画の事情がうまく合致したんです。


 クラシック音楽の教育をしっかり受けた人が、クラシックの交響曲を書くのではなくて、かといってポップスの人の手伝いをするわけでもなくて、クラシックの作曲家として、ポピュラリティのある音楽を作るというのが、世界的にすごく流行してきています(この話に御興味が涌いた方は、『密会』というドラマを観てください。極点だから)。


 そういう水準は、ブラジルとかアルメニアとかチェコだと、あたかもいそうじゃないですか。だけどそういう人が韓国にいるというイメージは、あまりないですよね。韓国の音楽はまだまだ大味でしょ、どうせ辛子とキムチでしょ(笑)って思われがちなんですけども、それがとんでもない話で。最初から響きがヤバくて、それもパリがヒーヒー言いながら喜んじゃうくらいで、ちゃんとヨーロッパ対応ができている。


 と、今回は『木屋町 DARUMA』と『無頼漢 渇いた罪』という、日本と韓国の裏の世界を扱った映画をあえて対比してみようと思って選んでみました。Kムービーなんかどうせ暗いんだろと思わずに、皆さんにも2つの映画を並べて観て欲しいです。そうすると、日本という国と、韓国という国が、どれだけ違うのかということが、嫌というほど分かると思います。日本のヤクザ映画がカンヌに招待されるようなことは、まずないですから。『アウトレイジ』がトロント国際映画祭に出品されたのも、あれはトロントの町おこしですから(笑)。たいした権威はないですよ。(菊地成孔/構成=リアルサウンド編集部)