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日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く

2015年11月08日 11:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2014「木屋町DARUMA」製作委員会

■ノワール映画もジャパンクール


 今回、取り上げる作品の一作目『木屋町 DARUMA』に関して、最初に本作の大きな構造を俯瞰すると、この物語は、清流と言って良い、綺麗な川の流れる木屋町という京都の街の裏側にさえ、底辺の世界があって、更にそこには突出して凄まじいキャラクターがいて、、、、という異形のヤクザ映画で、主人公たちは最終的にその川に殺され落ちて浄化されていく……という構造になっています。この川はガンジス川と同じで、いろいろな汚れや悲惨な人生も飲み込んで流れていくもので、川による浄化。は、この作品の重要なモチーフだと思います。僕はあまり京都に詳しくはないので、実際の木屋町の様子はわからないのですが、映像を観る限りは素敵な観光の街という印象です。


参考:武田梨奈が明かす、過激シーンを乗り越えた心境「落ちる所まで落ちて、見いだせる強さもある」


 つまり本作は、典型的な、しかし、一般映画界では数少なくなってしまった日本のノワール映画です。単純にヤクザ映画というより、社会の底辺にある黒い世界を描いた物ですが、日本には「Vシネ」という、一種の特別枠があるし『仁義なき戦い』といったクラシックまで持ち出さずとも、最近でも『龍が如く』『ミナミの帝王』のような、アイコン的作品もあるので、一種のジャンル・カルチャーですよね。好きな人は好き。といった。


 とはいえ本作は「それモンの好きモン集合」というだけの、平均的な志の、つまりマーケット限定映画ではない。よしんば、原作者が、よしんば監督が、よしんば映画全体がそのつもりだとしても、本作全体の志はそれを逸脱しています。


 「異形とはいえヤクザ映画」というのも本作の説明としては決して間違っていませんが、そこにもう一層、別次元が加わっています。


 それは、四谷怪談やら近松門左衛門あたりをオリジンとする「日本のエグさの伝統」と言う事が出来るでしょう。これは必ず「やりすぎ」と「(故に?)空虚」といった属性を持っていて、一種のジャパンクールとも言えるかもしれない。考え方次第ですが、例えばJホラーなども「やりすぎ」と「空虚」は基底部にしっかり根付いているように思えます。


 ギャングスターの映画でも、ラブストーリーにしても、日・韓・米・欧ではぜんぜん違う。今回、後編で取り上げる韓国映画の『無頼漢 渇いた罪』は、完全な韓国ノワールですが、R指定にも関わらずカンヌ国際映画祭、しかもどちらかというとアートフィルム対象である「ある視点」に出品されているくらいだから、もう、欧州が認めるアートフィルムな訳ですよね。


 それに対して、『木屋町 DARUMA』は前述の「エグいジャパンクール」という意味では、かなり凄まじく、「やりすぎ」も「空虚」も、ガッツリ入っています。


 日本人というのはもともと、外見はあまりえげつなくない人たちですよね。旅行で東南アジアのリゾートとかに行って楽しく遊ぼうとすると、ゲトーがあったりスラムがあったりして、そこまでいかなくとも、えげつない物売りや物乞いがあって、OLさんが震え上がっちゃう。


 引きこもりだの戦争法案だの、なんだかんだ言ったって、日本はまだまだ清潔だし治安もいいですし、人々は優しく、我慢強く、事を荒立てないようにはんなりとしている。一方で韓国だと、普通にソウルを歩いていても、昔の日本のように怖い人がいる感じで、要するに闇社会というのが身近にあるんですね。米軍が都心部にあるかないか?というのは大きいと思います。


 とはいえ日本にも当然闇社会というのはある。ただ、アンダーグラウンドに潜行してしまって、東京ではほとんど見えないくらいになっている。僕は歌舞伎町に11年住んでいて、どちらかというと夜中に歩き回るタイプで、観光地とかセーフティな所にはあまり行かない生活をしていましたが、任侠の方々に真っ向から遭遇、接触した経験は11年間で5~6回だったと思います。これがアムステルダムやハンブルグの歓楽街なら、もっと頻繁に会うと思うんですよ。日本は、平和で治安が良い。「平和」と「治安」の定義はシンプルではないとはいえ。


 だからこそこういう、ヤクザモノ、しかもゲテモノぎりぎりの素材を扱うノワールを描こうとすると、力が入りすぎてしまうのでしょう。一種の自虐性も含めて、とにかくやりすぎてしまう。要するに「リアルじゃない」訳です。古い言葉ですが、パロディにどんどん近づいて行く。


■「リアル」な黒社会。を日本は映画に出来るか?


「リアル」「フェイク」「アンリアル」「ファンタジー」といった現実感との位相は、映画のみならず、あらゆる虚構の基底部を決定する重要な同一性ですが、最近、山口組系のもめ事がテレビのニュースで、ほんのちょっとだけ流れて、実際の関係者が、ほんのちょっとだけ写りましたが、その「リアル」さには、本当に惚れ惚れします。日本にもまだ「本物」はちゃんといるのだ。これは任侠礼讃とかいったシンプルな話ではなく「日本人、そして日本の役者の顔つき」の話なんですね。


 かつて、日本もワイルドで荒んでいた60~70年代には、『仁義なき戦い』などのクラシックスがあって、そこに出てくる菅原文太さんたちの顔つきはリアルだった訳です。


 『仁義なき戦い』だけをどうこう言ってるんじゃありません。これはリアルの話なのね。『アウトレイジ』っていうのは、良い意味でそこを完全に見切っちゃって、パロディ、クリーチャー、妖精としての「悪の顔」をいっぱいならべて、さあお楽しみください。と。


 あれが今、日本でヤクザ映画を作る上限でしょう。「フェイク」とか「アンリアル」とかでもない、あれは完全なファンタジーです。『指輪物語』とかと変わらない。


 これは悲観論でも楽観論でもないけれども、今の日本の娯楽映画で「リアル」であろうとする限り、それは高い確率でオタクの映画にならざるを得ない。たとえば最近では『バクマン』とかね。同じ大根さんの『モテキ』でも何でも良いけど、オタクを描いていくというのが、良くも悪くも今の日本のリアリズムのマジョリティであって、ジャパンクールのメインコンテンツですよね。


 後はフェイクになるか、アンリアルになるか、ファンタジーになるか、いずれにせよオタクという最強のリアルを扱わない、としたら、「リアル」の強度自体をある程度捨てて、その上でベストを尽くさないといけない。「ダメな映画」というのは、非常にシンプルに、それが出来ていない映画の事です。


 オタクや引きこもりが一人も出てこなくても、スマホもゲームも画面に一切映らなくとも、良質でリアルな日本映画もあるわけでし、逆もまた真なりで、マンガ原作で、アイドルが出る。こんなもん純度100%のリアルなジャパンクールなんですが、そこから『るろうに剣心』みたいな傑作も生まれる可能性もあるし、駄作も死屍累々でしょう。ただ、リアルかフェイクかファンタジーかは、マーケットの質も規模も変わってしまう。


 と、前置きが長くなりましたが、そうした状況へのアゲインストとして地下でマグマ化したものがドワーと噴出する瞬間があって、本作もそのひとつなのでしょうが、冒頭に書いた通り、これは批判でも称揚でもなく、『木屋町 DARUMA』は、相当高い確率でジャパンクールのアンチだと自己規定していると思いますが、実際はガチガチのジャパンクールだという事です。それがこの作品の総てだと言っても良い。


 話がまたそれますが、四肢欠損者の人生を描いた映画というと、若松孝二監督の『キャタピラー』(2010年)が思い出されるわけですが、というか、それ以外思いつきませんが(笑)、あれはジャパンクールじゃない。あれは時折出てくる「和式グランギニョル」です。グランギニョルというのはフランスの残酷劇の事ですが、寺島しのぶさんは名誉フランス人ですから、グランギニョルの主役に適役です。


 え?他の和式グランギニョル?『佐川君への手紙』とかね。映画になったっけあれ?(笑)まあ、なってないとしても(笑)。それこそ「東京グランギニョル」という劇団を率いていた飴屋法水さんの「ライチなんとかクラブ(飴屋さんスンマセン・笑・怖くてタイトルが憶えられない)」なども、そのジャンルに入るかどうか問われるでしょう。


 それに比べると『木屋町 DARUMA』は、近松門左衛門から四谷怪談から腹切り女浄瑠璃から花園神社の蛇のみ女か『実話ナックルズ』から『神様の言うとおり』までを貫く「やりすぎ」と「空虚」の伝統の中にあります。


 「ちょっと待ってくれよ。こっちゃあ、男の世界を描いてんだよ。マンガ原作の学園ものなんかとと一緒にしないでくれよ」と言われるかもしれません。御説ごもっとも、それはその通りなんだけれども、前述の、「やりすぎ」と「空虚」が、「男の世界」「その美しさ」を描こうとするあまり、自走的に行き過ぎちゃってるんですよね。


 実話物で、オタクなんか入る隙もない男の世界を描こうとしても尚、気がつくとジャパンクールになる可能性がある、というより、あくまでワタシ個人は、ですが、歌舞伎や浄瑠璃や神話の類いもジャパンクールに含んでいるので、カテゴリーが広過ぎるかもしれませんけれども。


■「やりすぎ」の数々


「やりすぎ」が往々にして引き起こす効果の一つですが、「笑ってしまう」という状態も引き起こします。<借金取りが四肢を欠損者を債務者の家に住まわせる事で、気も狂わんばかりの状態に陥れ、金を取り立てる>というのは、もう、このあらすじだけ聞いた人で、ちょっと吹いてしまう方もいるかもしれないし(勿論、震え上がってしまう方もいるかも知れませんが)とはいえ、「やりすぎ」ないのであれば、それによる笑いは絶対に起こりません。


 そしてこの物語は「リアル」であること、それはつまり、シリアスであること、ジャパンクールなんかかじゃないこと、等々連合的に保証する担保として「実際に実話を元にした原作なんだから」の一点突破で行こうとするんですが、これは原理的にリアルの担保になるとは限らないんです。


 物語というのは、前述の視点を基軸にしても、最低4層に別れます。


1)「誰の身にも起こりうる虚構」
2)「誰の身にも起こりうる実話」
3)「いやあオレには関係ないよこんな話。という虚構」
4)「いやあオレには関係ないよこんな話。という実話」


 です。


 宮沢りえさんの『紙の月』なんかが(1)の代表でしょう(実際の事件ではないにしろ、相当な取材をしていますが)。


 (2)はいっぱいありますよね。幸せなカップルの片方ががんで死んだ感涙の実話ラブストーリーとかですね。


 (3)もいっぱいあります。映画で最も多いのが(3)じゃないでしょうか。『スター・ウォーズ』から『なくもんか』まで、何でも入っちゃう(笑)。


 そういう意味で『木屋町 DARUMA』は(4)なんです。


 だから、いくら現実を素材にしたセミドキュメントであれ、観客がリアリティに誘導されません。「へえ、こんな凄い事も世の中にはあるんだね。こわー」と思うばかりで、言ってみればガザやソマリアの映画と同じです。ガザやソマリアのがリアリティ誘導あるかも知れない位ですね。


 こうなると、作品の力点は、勢い「やりすぎ」と「空虚(自分の日常との関係なさ)」に偏ります(これは、連載前回からしつこく書いていますが「空虚」は、まったく悪事ではなく、ひとつの状況/価値観です)。厳密に言えば「やりすぎ」は「空虚」と相互補完的な関係です。空虚だからやりすぎる。やりすぎるから空虚感が漂う。


■各キャストの演技について


 「やりすぎ」の体現者は、原作者もそうでしょうし、監督もそうでしょうが、まずはなんといっても俳優でしょう。


 主演の遠藤憲一さんは、勿論、自覚を持って演じていらっしゃる筈ですが、そもそも濃厚な顔立ちなので、これまでの映画の中ではそれほどオーバーアクトをしてこなかったと思うんですよ。ちょっと睨みを利かせるだけで充分に怖いから。


 ところが今作では「俺がオーバーアクトしなけりゃ誰がやる」という勢いで、完全にアヴェレイジ突破の凄まじい怪演を見せている。


 遠藤さんは役者としても、個人としても大変素晴らしい方だと信じた上で、ディスではなく断言しますが、遠藤さんは「グロテスクでエグい表情」をやってはいけないです。何故か?雨上がり決死隊の宮迫博之さんにシュミュラクラ(簡単に言うと「似ている」「見えてしまう」こと)を起こしてしまうからです。


 目をひんむいてヨダレは流すは、糞尿は垂らすは、セクハラはするは、怒り狂うは……とにかくすごい迫力で(勿論、これは借金取りの為の、自覚的な怪物化であって、そうでない時間はむしろ、任侠の徒としては大変な人格者です)、途中から宮迫さんとのオーバーラップと闘う事になりました。寺島進さん演じる債務者の家に文字通り「転がり」込んで、はいつくばり、のたうちまわり、傍若無人の限りを尽くす様は、世の中にこれほど悪質でグロテスクな借金取りの方法があるのかと驚くばかり、あまりのエグさに「実話ベースなのか」という生々しいリアリティは、すぐに霧散してしまいます。


 しかし一方、これは演者同士のアンサンブルなのかも知れませんが、舎弟である坂本健太役を演じた三浦誠己さんは、本当に非常に良かった。彼はこの映画のもう一人の主人公で、ダルマになってしまった兄貴分を運び、面倒を観て、債務者の所に派遣する仕事をしていますが、キャリアの中で培った、余裕が感じられる、素晴らしい演技を披露しています。これこそ演技によるリアリティという、お芝居の魔法でしょう。


 単なる抑えた演技でもない、静かな中にあらゆる複雑な感情が(劇中、最も複雑な感情を持つのが彼であることは間違いありません。だって、どんな仕事よ)、少ない台詞と、軽妙と言って良い程の軽い動きと発生の中で、雄弁に伝わって来ます。 


 氏のみならず、脇を固める人たちはみんなすごく上手なのですが、調べてみたら、ほとんどの人が『ガキ帝国』『岸和田少年愚連隊』などの大阪の不良映画でデビューして、その後もVシネ一本槍というタイプの役者さんなのも、本作の興味深いところです。井筒和幸監督の大変大きな業績と言えるのではないでしょうか。「この作品がある限りあのファンク愚弄映画<ゲロッパ!>は許したるわ」としか言いようがありません。


 ただ、主人公の旧友であり組長である古澤武志を演じた木村祐一さんに関して、これははっきりと明確にディスりですが、もうシリアスな劇映画に出ないのが彼の良心ではないかとしか思えません。


 周囲の人たちの演技が圧倒的に上手なのもあって、どうしても素人感(前回書いた「コント感」「テレビドラマ水準」)が目立ってしまっています(すげえ主要な役ですし)。


 木村さんは、坊主で細目でヒゲも生やしている強面で、映画監督もしているし、お人柄も良さそうなので、ついつい、映画に出演させたら名脇役になるんじゃないか、と自動的に判断しそうになってしまうのでしょうが、この制作チームの犯した最大の愚行だと思います。


 繰り返しますが、氏の、コントの作家やダウンタウンの側近としてのお笑い芸人としては、未だに全く才覚は薄れていないように思うので、そちらに集中されるのが(敢えて繰り返しますが)良心という物でしょう。


 キム兄きっかけのスリップをさせて頂ければ、吉本興業は、かつて映画産業に参入しようとして木村祐一さんや板尾創路さん等「作家も出来る芸人に、がんがん映画を撮らせる」というやり方で、映画界参入計画に頓挫し(まあ、まだ続いてるんですけどね沖縄で。と、これ以上書くと、当連載が実話ナックルズになりそうなので自粛しますが)、結果としてテレビタレントさんに映画の制作費を与えてしまったのですが、残念ながら結果は惨憺たる物です。


 映画の学校を出て、才能があり、映画を撮りたい一心でクラウドファウンディングを行っている若き才能が数多くいる世界で、お笑い芸人に、出来高と関係なくポンと映画を撮らせ、上映するのはかなりの悪徳です。いまはネットで毎日いろんなニュースが出てくるから、過去のこともすぐに忘れてしまいがちですが、「木村祐一監督作品」の存在を我々は忘れてはいけません。本作で思い出すべきです。


 そして、もうひとつの「やりすぎ」は、正に歌舞伎、「血糊の量と勢い」です。


 さっき近松の歌舞伎に例えたばっかりの口で言うのもなんですが、こういう映画は作っているうちにスタッフも興奮してトランス状態になってくるのでしょう。ラストに向け「これじゃ懐かしの80年代。スプラッター映画だよ」というほど血を噴きます。


 ラスト、債務者の娘である不幸な少女を演じた武田梨奈さんは、鯨料理用かと思われるほどの厚身の長刀で、主人公2人を、一気に(文字通り)串刺しにします。


 その設定(ホモソシアルなまでに深い繋がりのある2人が、互いを守ろうとして抱き合ったまま、長刀で2人一緒に串刺しにされる)自体は素晴らしいんだけど、そのあとの血糊の扱いが、「ちょっとお(笑)」というぐらいやりすぎなんです。


 刺された男が口から溢れ出た血を、刺した彼女の顔に、グレートムタみたいにブワーっと噴きかけるわ、腹部の出血はシャワー状に吹き上げるわ、まったくリアルではありません。完全な大歌舞伎です。ラストに向けて、花火みたいにドカンドカンやりたくなってしまったのだと思います。


 次回扱う、韓国ノワールの『無頼漢』なんて、血も凍る程の恐ろしさと緊張感が1秒も途切れない作品なのに関わらず、出血量は100ミリリットルに満たないです。その代わり、犯人宅に突入する際、刑事が金属バッドを握ってたり、ダイアル式の黒電話で、何度も何度も顔面ゴンゴン殴って、みるみる顔面が痣とともにふくれあがったり、組み付かれた際、サミング(指に依る目つぶし)で相手の鼻や目の中に遠慮なく指を差し込んで脱出したり、暴力として震え上がる程リアルだし、リアリズムに誘導された恐怖心を煽ります。


 それに比べると本作のバイオレンスシーンは、これぞクールジャパン爆発といえるのかもしれません。せっかく「木屋町という京都の美しい街に流れる、清流に、地の底を這って来た男2人の、毒のような血が流れ、しかし、それも清流は清めて行く」という本当に素晴らしい設定があるのに、コッチは何せそのまえに笑っちゃってるので(笑)ちょっと残念でした。でも、しつこいようですが、それが歌舞伎=ジャパンクールかも知れないですけどね。


■「女子目線」の在処


 中間地点の重要点として、「男の映画」でさえ、「フェミニズム」という敵はもう無視出来ない。というテーゼを上げさせて頂きます。


 『仁義なき戦い』『龍が如く』等々の 20世紀ノワールクラシックスに対し、21世紀のヤクザ映画を描くならば、もう課題はこの一点だけとも言えます。これは関係各位、猛勉強して頂きたい所です。


 本作は“女子の目線“というものを極端に排しているけれど、まあ、しょうがない、このジャンルにそんなもんなかったんですから(「鬼流院花子」とか、ああいう「女ヤクザ」「姉さん映画」は、女子目線ではありません)。


 そもそも女性は観なくても良いという前提です。マーケットを絞るのは悪事ではありませんが、広げるのも悪事ではない。「あの『マッドマックス』にシスターフッド/フェミニズム的視点が!!」と騒がしい昨今ですが、今作では、そんなもん知るかい。というアティテュードで、それならそれで潔い訳ですが、問題は、潔くてもダメなもんはダメということです。


 本作の「女の目線なんか知るか」という潔さは、どちらかといえば、「振り切っていてあっぱれ」というより、「狭量さ」にしか映りません。「やれば出来そう」に見えるからです。


 この犠牲を、武田梨奈さんがひとりで背負っている印象で、実際に彼女は現場でも相当にしごかれたそうです。しごかれる事自体は彼女はまだ若手だからしょうがない部分もあるのでしょうけれど、この現場で、もっと「若い女の子の魅力も出していこう」という空気があったら、さらに間口の広い作品になった気がします。


 これは決して彼女が悪いということではなくて、映画の構造上、そういうポジションになってしまっているんですけど。全然可愛く撮れてないし、例の「やりすぎシリーズ」で、もう、笑う程図式的に墜ちて行く彼女は、聴いていて嫌になるほどエロくて汚い言葉を吐散らすんですが、痛々しさしかなく「女が墜ちて行くちゅうのはこんなもんじゃい」と言われたらそれっきりですが、そんなもんは古くさいバカな男のファンタジーで、まったく共感出来ません。


 たとえば、『アウトレイジ』などは女性の観客も含めてそれなりの興行成績を達成しました。それは加瀬亮さんや三浦友和がヤクザになったということ、つまり一般的に女子が好きな俳優がヤクザになったという北野監督の大ホームランが、映画の魅力のひとつになっていたということだと思うんです。


 そういう感覚を入れてあげると、もっと良い作品になったと思います。ただ、お金もそれほど使えなかったでしょうし、少ない仲間でちゃんとスタッフを賄っていかなければいけなかったでしょうから、それで男同士でがんばっているうちに、ものすごくブラザーフッドというか、ホモソシアルになってしまうのはしょうがない。この制作チームの志はちゃんと買うので、その辺も踏まえて今後も良作を作り続けてほしいものです。「萌えさせろ」等とゲスな事は言いませんが、武田さんへの扱いは、余りにも古くさ過ぎるミソジニー(女性嫌悪)で、「顔ぐらいは普通に可愛く撮って上げたら?」という思いが最後まで抜けませんでした。


■<正気>の人たちが形成する社会の底辺


 最後に、本作に関して一番強調したいのは、こういう映画はすぐに「狂った映画」といった風なステレオタイプが口にされがちなんですが、実はこの作品は狂気ではなく、正気を描いている作品だということです。所謂、精神病的な狂人は一人も出て来ません。  


 設定こそグロいですが、出てくるキャラクターは全員が完全に正気で、寺島進さんなんかはだんだんと狂って行くんですが、追いつめられてるだけで、大して狂っていません。


 現代的な狂気。たとえば『冷たい熱帯魚』みたいな場合は、普段は熱帯魚屋として暮らしている善人が快楽殺人者であるし、『悪人』や『ヒミズ』みたいな場合は若くて美しい主人公たちが、狂おしい状況に身を置かれて、いわば狂気と正気の臨界的体験をこれでもかというほどに訴えかけてくるわけです。


 この映画の主人公は身体こそ過酷な状況に陥っているものの、人間的には全然狂っていないわけで、むしろ屈強な精神を持っています。武田梨奈さんが演じる高校生だって、状況は悲惨だけれども、その“墜ち方”も本当に狂っている感じではなくて、普通の昭和の女の落ち方です。人は殺すけど、殺す相手は間違えていないのだから、その行動は正気に基づいたもので、説明の付くものです。


 <正気の人たちが形成する社会でも、ちょっと裏に入ると、これだけのことが起こっている>こんな映画は、昭和には掃いて捨てるほどありました。それが少なくなった今、敢えてその事を描いたのがこの映画の長所なのではないでしょうか。「<現代的な狂気とやら>をちょいと掘り下げてほい文芸作品一丁上がり」という映画は昔から後を絶たず、その多くはイージーウエイです。


 『仁義なき戦い』の頃は、我が国全体に敗戦トラウマという巨大な外傷が横たわっていたからこそ、任侠というものが成り立ったのだと思います(それでも「仁義なき」というのは、「そういう時代も、もう終わった」というテーマですけどね)。


 しかし、いまはむしろ戦争へと向かっているわけで、いまの市井の人たちに敗戦トラウマはリアルではない。戦争予期不安のが100倍リアルでしょう。だから任侠というものがリアルやアンリアルという足場を失って、ファンタジックに一人歩きをしている。


 最初に話した、ニュースに映った実際の山口組関連の人々の顔、昔は、こういう顔をした日本人が、まだまだ路上にもいっぱいいたし、映画の俳優のなかにも、こういう顔の人はいました。


 でも、いまや彼らは完全にアンダーグランド化してしまっている。お母さんたちが警戒しているのはヤクザではなく、自分の子供を狙う変態です。健康的な社会というのは、任侠社会というのが、一般の社会の脇にちゃんと寄り添っているのが、それを様々な方法で抑圧したから、行き場のなくした狂気が野に放たれてバランスを崩し、ロリコンやら快楽殺人者やらといった病理へと繋がったというのは、余りにステレオタイプな社会的病理の見方ですが、嘘偽りとは言えないでしょう。


 つまり、本作は「現代的な狂気」が出てこないので「空虚」ではない。と仮設する事が出来ます。


 一見、安易なイメージとして、空虚っぽく、真空っぽく見える「狂気」ですが、実際狂気の実質というのは、嵐のように激しい物で、空虚でも真空でもありません。精神分裂病も、鬱病も、精神的なエネルギーは煮えたぎったマグマです。


 本作の「空虚さ」は、前述の「物語が、見るもの誰にも関係ない」という非現実感だけではなく、「現代的な狂気」という、ずっしりした実質がなく、正気で満ちているので、「空虚」なのです。「やりすぎ」と「空虚」の相互補完的な絡み合いがお解り頂けたでしょうか?


 だって、一般的に「ジャパンクール」と呼ばれる物の中に「狂気の登場人物」はいるでしょうか?「ちょっと不思議なキャラクター」はいるかもしれないけど、それはセーフティであって、本物の狂気は、作中には登場せず、作外、つまり作者、ユーザー、そしてこの国に蔓延する現代的狂気として位置されるのがジャパンクールでしょう。本作と同じ構造です。


 様々な意味で懐かしさと志を感じましたし、ユーモアもあるし、それを支える井筒チルドレンの演技も素晴らしい。そういう意味では、好感の持てる作品でしたが、まだ若い彼等が、「俺たちゃ男の世界で、オタクなんか関係ねえ」とかいった誤った自己既定から解き放たれ、更に出来うるならば、「女性性」を作品に組み込んだ時が、ネクストレヴェルでしょう。後編の韓国ノワール「無頼漢」で、その事を扱います。


 監督もキャストも「まさか映画館で上映出来るとは思ってなかった。こんな強烈な映画」と口を揃えるのですが、全然そうでもないです。「タイトルでさえ、マスメディアでは言えないんですから」なんて言ってるんですけど、別に「ダルマ(四肢欠損者)」をタイトルに入れる必要性もなし、ほかのタイトルにすれば、もっと広く訴えかけることができたかもしれない。志の高い良い映画なのだから、全国ロードショー目指しても良いと思いました。何せ、ジャパンクールなのだから。そうそう、もっとも重要な事を。「ダルマが出て来るなら見ない」という方へ。ダルマのシーンはちょっとです。逆に純粋ダルマフェチの方は残念。(菊地成孔/構成=リアルサウンド編集部)