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『マジック・マイク XXL』が提示する、これからの時代の“マッチョ”像とは?

2015年10月25日 17:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT,LLC

 超マッチョな肉体とあどけない表情が魅力のハンサム・ガイ、チャニング・テイタムを始めとして、セクシーな男達が惜しげもなく裸体をさらす、圧巻のパフォーマンスで話題になった『マジック・マイク』。その最高のマッチョ・ガイズ達が、再び女性達の熱いまなざしをスクリーンに釘付けにするべく帰還した。それが、前作よりもより「デカい」サイズを表す「XXL」を名乗り、さらにギリギリにセクシーな表現で魅了する、『マジック・マイク XXL』である。


参考:恋愛から解き放たれた女性映画『マイ・インターン』の新しさとは?


 しかし、本作の魅力はそのようなセクシー描写だけでは終わらない。男性ストリッパー達の旅を通して描かれる、現在のアメリカが直面する新しい男女の関係、真の「マッチョ」とは何かを突きつける革新性など、ストリップという行為を掘り下げた、本作の意外と深いテーマを、前作『マジック・マイク』も振り返りながら、深く迫っていきたい。


■アメリカの「男性ストリップ」事情


 本編について考える前提として、まず、アメリカにおける「男性ストリップ 」はどのようなものなのかを説明していきたい。現在のアメリカの、プロフェッショナルなスタイルの男性ストリップ・ショーが始まったのは、1970年代だといわれる。普段は女性のストリップ・ショーが行われるストリップ小屋が、月に一度などのペースで女性客限定の日をもうけ、女性ストリッパー同様、男性が衣服を脱ぎセクシーにダンスするショーを披露し始めた。時代とともにショーは洗練され、大会が開かれるなど、安っぽい、汚い、恐いというイメージは少しずつ払拭されてきたが、「アメリカの善良な市民」によって、ショー自体やストリッパー、女性客などが軽蔑の対象にされてきたことは確かだ。90年代においても、アメリカの過激なTVアニメ「ザ・シンプソンズ 」で、主人公一家の少年バートの担任教師が、「お宅の息子さんは…このままだと場末のストリップ劇場で働くしかありません」と親に告げるというギャグに使われるなど、男性ストリッパーが最底辺の職業というイメージがあったことが分かる。


 「男性ストリップ」の是非については、アメリカの進歩的な女性の立場から、大きく二つの考えに分かれると言われている。ひとつは、「女性が性的な商品として消費されている社会状況は許されないため、男性を性的な商品として扱うことも厳しく制限されるべき」という考え方だ。もうひとつは、「女性が性的な商品として扱われているならば、男性の側も女性が商品として消費して良いはずだ」という考え方であり、後者の考えを持つ女性達のなかには、女性向けの性風俗産業やポルノ業界に積極的に参加している人も多い。この考え方に限るならば、男性ストリップを題材とする前作『マジック・マイク』は、進歩的な映画だったといえるだろうし、ある意味で多くの女性観客達の既成概念を破る役割を果たしたといえるだろう。また、この映画のヒットによって暗い業界イメージが飛躍的に向上し、ラスベガスで大々的な公演も行われるようになるほど、「男性ストリップ」 は、女性が堂々と楽しめるショーとして進化してきているのだ。


■前作『マジック・マイク』が描いた男性ストリッパーへの共感


 前作のヒットの秘訣は、主演のチャニング・テイタムが、モデルとして成功し映画業界に入るまで、実際に男性ストリッパーとして働いていたという経験を活かし、肉体とパフォーマンスの両面で、『フル・モンティ』など、これまでの少ない男性ストリップ描写の映画にはなかったクォリティの表現を達成したことが大きい。そしてマシュー・マコノヒーの舞台でのカリスマ的な熱演は、何度見ても思わず笑ってしまう楽しさを作品に与えていた。


 チャニングが演じる主人公、通称マジック・マイクは、大工として働きながら、夜は、街でトップのストリッパーとして稼ぎ、気ままに不特定の女性達と遊ぶ生活を送っていたが、頭の中ではいつも「こんな生活はいつまでも続かない。俺は40代のストリッパーにはなりたくない」と考えている。そんなときに彼が出会った、しっかりした知性的な女性、ブルックは、現状に不満を持ち、自分の世界を変え人生を落ち着けようとしていたマイクにとって、理想的な相手だった。マイクは、マシュー・マコノヒー演じる、自身もストリップ・ダンサーとして活躍するカリスマ的な経営者ダラスの元を去り、彼女と生きることを決めるのだった。


 この、『サタデー・ナイト・フィーバー』を下敷きにしたという、「いつかは乱痴気騒ぎから卒業しなければならない」悲しみを負った、苦さと希望をともなった青春映画は、男性ストリッパーの人間としてのリアルな心情を描くことで、人間としての共感を与えることに成功したといえるだろう。そして、その続編である本作、『マジック・マイク XXL』は、それとは全く違うアプローチで、男性ストリッパーの世界を捉えなおしている。


■女性の心情が主体となるロード・ムーヴィー


 本作では、主人公マイクはストリップから足を洗い、数年来の夢であった、ハンドメイド家具製作の小さな工房を経営し、日夜、家具を作り、自ら運搬するなど、精力的に働いていた。しかし、前作で恋に落ちた相手、ブルックは彼の傍にいない。彼女はどうやらマイクと別れ、出て行ってしまったらしいのだ。映画の最初のカットでは、所在無げに海辺のブランコに座った、マイクの打ち沈んだ顔を映している。


 その後、久々に昔のストリッパー仲間に出会った彼は、マートルビーチのストリップ・ダンス・コンテストに参加するためサウスカロライナ州まで旅をするという彼らの計画に、衝動的に参加してしまう。未来の象徴だったブルックを失って、マイクの理想の生活はほとんど瓦解していたのだ。だが、出発しても未練たらしく携帯電話から従業員へ指示を送るマイクにイラついた、仲間の一人、通称「ビッグ・ディック(アレがデカい)」と呼ばれるリッチーは、彼の携帯電話を、走行中の車内から外に投げ捨ててしまう。「俺達の世界に、片足で入ってくるんじゃねえよ」という仲間達の本気の態度に、マイクの心は定まった。


 ダンス・コンテストでどうすれば勝てるのかを考え迷走しながら、目的地に向かう彼らは、天啓のように通過儀礼のような体験をしていく。それはさながら、『地獄の黙示録』のような象徴性を帯びている。コンビニで仏頂面をしながら働いている女性従業員を楽しませ笑顔にさせようと、リッチーがバックストリート・ボーイズの曲に合わせてコンビニのアイテムを利用しながら踊るシーンは大きな見どころだ。この場面によって、作品全体の方向性が決定付けられる。『マジック・マイク XXL』は、女性を喜ばせることが最大のテーマになっていくのだ。つまり、本作はストリッパー自身の心情よりも、女性側の心情が主体になっており、それに対し、彼ら男性側がどう対応するのかが問題になっているといえるだろう。


 マイク達は、より過激かつ繊細なサービスを提供する、男性ストリップの秘密クラブを運営する女性、ロームの館や、豪邸に住む年上の女性達のパーティーに参加することによって、「女性を喜ばせる」ヒントをつかんでいく。それは、男性が女性ストリッパーに求める直接的な刺激とは異なり、よりデリケートに、女性の尊厳を守り、男性上位社会が女性達に与えている屈辱に対し、ケアをするという役割を引き受ける必要があるということである。それは、ストリッパーと客という関係を超えた、現代の女性が男性に求める男女関係そのものであるともいえる。


■マジック・マイク達が体現する新時代のマッチョとは


 従来、マッチョとは、「男が主体性を持って女を引っ張っていく」という保守的な男らしさの誇示を表す言葉である。しかし、そのような価値観が支配する社会においては、女性が男性に気に入られるような自分を作らなければならず、男性に承認されなければ幸せにはなれないというプレッシャーが、いつもつきまとうことになる。ここでの男性ストリッパー達は、金銭と引き換えに、そのような社会の男達による女性への振る舞いによって与えられた負担や心の傷に対し、部分的に責任を取っているということになるだろう。そして、それこそが「男性ストリップ」というシステムの隠された本質であるということを本作は鋭く描いており、また、女性の自主性を認め生き方をサポートするということが、新しい時代に求められるマッチョ像であるということを示しているように思えるのだ。


 マートルビーチでの彼らのパフォーマンスが感動的なのは、彼らの旅の全ての体験が、このショーで「女性を喜ばせる」一点に集約され結実したという達成を目の当たりにするからである。そして、そのことによって、マイク達ストリッパー自身も喜びを与えられるということも描かれているからであろう。ステージを終えた彼らの表情は晴れやかで、冒頭で活力を失っていたマイクも笑顔を取り戻している。ここで、花火が打ち上がり、アメリカ国旗が映されるアメリカ独立記念日の喧騒のイメージのなかにいる彼らの姿は、これからの男達は従来のマッチョから脱却し、女性の意志や心情を尊重することを学ばなければならないという、アメリカ社会の未来における、男性のひとつの理想像を提示している。


 前作のスティーヴン・ソダーバーグ監督の後を引き継いだのは、ソダーバーグ作品の多くの製作に関わってきたグレゴリー・ジェイコブズ監督である。ジェイコブズ監督にとって本作は、コンゲーム(騙し合い)を描いた、日本未公開の映画『クリミナル』、雪山でのオカルト恐怖映画『デス・ロード 染血』に続く三作目にあたるが、巨匠監督の後で、充実した内容でテーマを先に進ませ、より意義ある作品に仕上げたという点において、目覚しい成果をあげたといえるだろう。(小野寺系(k.onodera))