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恋愛から解き放たれた女性映画『マイ・インターン』の新しさとは?

2015年10月20日 07:21  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ベストセラー小説を映画化した『プラダを着た悪魔』で、ニューヨークの一流ファッション誌の鬼編集長に、こき使われ、いびられつつも奮闘するアシスタントを演じ、作品のヒットとともに大ブレイクを果たしたアン・ハサウェイが、それから9年経ったいま、ファッション業界で活躍するキャリアウーマンとして再び帰ってきた。しかも、ファッションサイトを運営する企業の経営者、つまり、あのメリル・ストリープの演じた鬼編集長の立場に近い管理職としてである。そしてさらに、今回そのアシスタントを演じるのは、なんとロバート・デ・ニーロなのだ。この設定だけでも、本作『マイ・インターン』の試みの奇抜さに期待してしまう。


参考:「時間」を取り扱う恋愛映画の課題とは? 『アデライン、100年目の恋』のSF性とファンタジー


 『マイ・インターン』は、働く女性の生活を、ファッションやインテリアでお洒落に、また心理をリアルに描写しながら、この異色のコンビが活躍する設定を利用して、コメディ・タッチで軽快に、しかし女性の在り方や理想の男性像を新しく捉えなおした映画として、面白さと先進性を併せ持つ挑戦的な作品に仕上がっていた。ここでは、この新しさの秘密に、できるだけ深く迫っていきたい。


■役割を逆転させた現代的な物語


 『プラダを着た悪魔』以降の9年間、様々なヒット作に出演しオスカーを獲得、いまやアメリカを代表する女優のひとりとなった、アン・ハサウェイ。彼女は、アカデミー賞授賞式や、TVのバラエティ・ショーでも、優れた歌唱力でミュージカルやラップを披露し、「リップシンク(口パク)・バトル」に出演した際には、タンクトップ姿でスタジオに吊り下がった巨大な鉄球を模した振り子にぶらさがるという、第一線のハリウッド女優としては、あり得ないような圧倒的なパフォーマンスを披露し、アメリカ国内で話題になった。


 その「目立ちすぎる」振る舞いは、ときに「でしゃばり」と言われ、一部でやっかみの対象にもされてきた。プライヴェートでは、そんな世間の声に傷ついていたという彼女だが、仕事の現場では批判に屈せず、パフォーマンスはエスカレートする一方だ。その勇敢な姿勢は、彼女が演じる強いヒロイン像に重なる部分が多い。『マイ・インターン』の主人公ジュールズは、強い意志で人生を切り拓いてきたアン・ハサウェイを象徴するように、30代前半で夢を達成した、若くバイタリティのある女性である。


 彼女が演じる主人公ジュールズの現在の悩みは、急成長していく会社の業務に忙殺され、家庭をケアする時間がほとんどないということだ。会社経営をする自分を気遣って家庭に入り「イクメン」になった夫や、育ち盛りの幼い娘に負い目を感じている。これまで、多くの場合「男の問題」とされてきたことに、彼女は直面しているのだ。それを解決する道として、誰か有能な人物に経営者の座を譲り渡そうという選択に迫られている。


 一方、そんなジュールズの企業に、「シニア・インターン」として、ロバート・デ・ニーロ演じる、70歳を超えたベンが入社してくる。もともとこの企業にとってインターン制度は、企業のイメージアップ戦略の一環としての意味でしかないようで、ベンは職場で全く期待されていない。彼はジュールズのアシスタントとして配属されるが、とくにジュールズは、「こんなおじいちゃんが何の役に立つの?」という態度を隠そうともせず、彼に仕事を与えないばかりか、忙しさにかまけて数日間そのまま放置してしまう。


 面白いのは、ここでのジュールズというのは、無理解で偏見を持った「男」そのものになってしまっているということだ。彼女が老年の男性など役に立たないと考えているというのは、偏見を持った男が、「女などバカだ」と考えているのと変わりがない。ジュールズはおそらく、厳しいビジネスの世界で勝ち抜いていくなかで、他者への想像力が失われ、悪い意味での「男性的」な存在になってしまっているのであろう。これは、アン・ハサウェイに対する悪意のあるパブリック・イメージにも近いのかもしれない。


 しかしジュールズの予想に反し、ベンはきわめて優秀だった。仕事を与えられなくとも、独自の判断で、しかも「波風を立てないように」、適切に職場の問題を解決していく。彼は、長い間管理職として職場をまとめていた経験から、あらゆる職場問題への対処を心得ていたのだ。さらには、YouTubeやInstagram、Skypeなどが活用されている環境にも必死に順応し、次第に会社のなかで必要とされる存在になっていく。ついにはジュールズも、自分が偏見を持っていたことを素直に認め、人間として成長することになる。ジュールズの夫がイクメンとして家庭に入ったのと同様、ここでの、ジュールズが矢面に立ち対外的な仕事をこなし、ベンが「内助の功」を務めるという、これまでの価値観でいうと男女が逆転しているような関係は、ここ数年のハリウッド映画における女性の描き方の変化を象徴しており、その背景には、来年の大統領選挙で初の女性大統領が生まれる可能性が高い、アメリカの現在の空気が感じられる。


■監督の描く、一歩進んだフェミニズムとは


 本作の監督は、脚本と演出の両方で、ティーンから熟年女性まで、人生の転換点や様々な心理を赤裸々に、ユーモラスに描写することを得意とするナンシー・マイヤーズだ。彼女の作品は、登場人物のスピーチのような自分語りでスタートするのが特徴で、多くは、ここで語られる心情や、現代社会への素朴な疑問が、作品自体のテーマとなっていく。


 『ハート・オブ・ウーマン』や『恋愛適齢期』、『恋するベーカリー』など、近年の彼女の作品では、コメディ・タッチで観客を楽しませながらも、女性の心を全く考えない男の傲慢さ、男ばかりが若い相手と付き合う理不尽さなど、女性差別的な社会への風刺を巧みに物語に織り込んできた。しばしばある種の男性によって、「フェミニズム的な要素は自由な娯楽表現を阻害する」と言われることもあるなかで、コメディ描写を活かしつつ、それがエンターテインメントとして成立し得ること、素材としてプラスに作用し得ることを作品で証明し続けている作家だといえるだろう。


 このようなフェミニズム的な要素を扱ってきた彼女のテーマのひとつである、無神経な男性への批判は、本作で飛躍的に高度なものになっている。ジュールズのベンへの偏見を通し批判しているのは、女性の中にもある「無神経な男性性」であり、それは本質的に女性差別にもつながるような、異質なものへの無神経な決め付けや固定観念である。女性をターゲットにする商業映画で、このような女性の主人公による差別意識を掘り出すというのは、作り手の勇気や信念があってこそだろう。しかし、女性であれ男性であれ、真に差別を撤廃しようと考える人間にとって、自分の差別意識に向き合うことは避けられないのも事実だ。そこをきっちり扱っているという意味で、彼女の脚本は考え抜かれているし、意義深いものになっているといえるだろう。


■恋愛から解き放たれる男女のかたち


 ナンシー・マイヤーズ監督が描いてきたテーマは、他にもある。それは、「自分の人生を主体的に生きること」、そして「人生を楽しむこと」である。監督作『ホリデイ』のように、自分が大事にしているものや楽しみを、旧態然とした社会や世間体のために、あきらめてはいけないということを、繰り返し強調している。そして、本作ではその最も大事なものが「恋愛」だと描かれていないのも画期的だ。本作は恋愛映画ではなく、男女の愛を一部に含めた、あくまでもライフスタイルを描いた作品なのである。男と女が分かり合うために、必ずしもキスやハグ、ましてセックスをする必要はない。むしろ、そのようなつながりがないからこそ、ここでは欲望を排除した、より信頼できる関係が成立しているはずだ。古風だが経験豊かで芯の通ったベンという存在は、やがてジュールズの生きる指針ともなっていく。その上司と部下による、上下が逆転した師弟的な関係は、特徴的なラストシーンにも表れている。


 本作は、じつは当初、ジャック・ニコルソンがベンを演じる予定だったという。ジャック・ニコルソンといえば、マイヤーズ監督の『恋愛適齢期』でも主演している。『恋愛適齢期』は、主に海辺の家を舞台にした恋愛作品だが、海辺にある雑貨店のシーンで、監督とニコルソンの意見が対立し、険悪な雰囲気になるというトラブルがあったという。ニコルソンは、自分が着る衣装を、カラフルなボーダーのマリンルックにするべきだと主張し、シンプルでエレガントなファッションが好きなマイヤーズは、それは自分の好みに合わないと反対した。


 母親がデザイナーであったというマイヤーズにとっては、自分のファッションセンスに強い自負があっただろうし、ニコルソンのことを、いかに名優だと尊敬していても、「あなたにファッションの何が分かるの」と批難したかったかもしれない。しかしニコルソンは、この店内の場面が、海が近くにあるということが観客に伝わりづらいという、経験からくる危惧があったらしい。そして、その弱点を補強するためにボーダーを着るという彼の主張は受け入れられた。


 監督に意見をするようなやかましい俳優を、マイヤーズは本作でまた起用しようとしていたのである。それは、ニコルソンの豊富な経験による発想が、正しかったことを素直に認め、彼の映画への真摯さに心を打たれたという証でもあるだろう。その尊敬は、ベンという、ニコルソンから少しだけやかましさを除いて紳士的になった、より理想化された存在として、脚本の中に受け継がれたのだと思われる。このように、男性の無神経さを批判しながらも、良いところがあればどんどん学んでいこうという柔軟性、そして他者を理解しようという姿勢が、本作によりしなやかな強さを与えているのだ。(小野寺系(k.onodera))