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「時間」を取り扱う恋愛映画の課題とは? 『アデライン、100年目の恋』のSF性とファンタジー

2015年10月19日 10:31  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ブレイク・ライブリーの顔を見るとどうしても、『ゴシップ・ガール』のセリーナ・ヴァンダーウッドセンのイメージが離れない。他のゴシガル出身俳優たちを他の作品で見かけても、それぞれの役を思い出してしまうのだが、その中でもライブリーに関しては群を抜いてセリーナのイメージが強力すぎるのである。『ゴシップ・ガール』はさながら90年代末に人気俳優を数多く輩出した『ドーソンズ・クリーク』の再来と呼んでも過言ではない。


参考:スケールアップした“ガールズ・ムービー”続編 『ピッチ・パーフェクト2』の見どころは?


 近年、ハリウッドでは映画は元より、テレビドラマの力が強くなってきている。ネット配信ビジネスが盛んになってきたことも相まってか、映画とほぼ同等のバジェットで作られるテレビドラマのクオリティが、以前と比べても遥かに進化し、もはや映画との境界がなくなって見えるほどである。


 『ゴシップ・ガール』はシーズン6まで続いた、やや長めのシリーズである。もっともこのぐらいの長さになると、作品単体の規模というよりは、物語の進み方や裾の広げ方で、映画と完全に対になっているのであるが、単発のテレビ映画や、ミニシリーズは劇場用の映画とそう大差なくなっているのである。


 それを考えると、この『アデライン、100年目の恋』が仮にテレビドラマのミニシリーズとして製作されていたとしても、規模自体に大きな変化はなかったであろう。それでも、同じ尺の中で収めたとしても、物語をおよそ4話ほどで集約させなければならなくなり、登場人物と設定を確認する第1話を経て、メインカップルが出会う第2話、物語が揺れ動く第3話で終盤に進み、第4話で綺麗にまとめあげる必要が出てくる。その点では、映画というフィールドを選択して、時間配分に自由を利かせたことは功を奏した。年を取らない女性の100年の物語というプロットだけでは、ある程度の長さを必要とする物語が描かれなければならない予感がしてしまうが、それを2時間に満たない映画の尺にまとめあげるという決断は好意的に迎え入れたい。


 それでも、100年の中から2時間を抽出する作業においては、監督を務めたリー・トランド・クリーガーの力ではまだまだ及ばない印象を強く受けたのである。時代描写の描きこみは決して悪くはないのだけれど、どことなく無機質であり、時間軸の推移や一定の見せ場を作るといった映画の基本的な構成よりも、主人公の心理を描き出すことで精一杯になってしまっているようにも思える。


 とはいえ、アデラインという女性が生まれるのは1908年のことで、29歳のときに事故に遭い、雷に打たれてそのまま年を取らなくなっていくというメインプロットの扱い方においては決して悪くない。ストーリーの主軸を2014年の現代に置き、回想の形で過去の出来事を辿っていきながら、現代では一定のペースで物語が進んでいく。終盤にハリソン・フォード演じる恋人の父親が登場してからの過去とのリンクの方法論は、少々強引さを感じるものがあるが、やむを得ないのではなかろうか。


 概ねフォーカスが当てられるのはタイトルロールにもなっているアデラインであるが、この物語でより深く描かれるべきは、アデラインの娘フレミングである。自分自身が年老いていく傍で、母親が自分よりも若く美しくい続け、それを見守り続けるというあまりにも残酷な運命を辿る、紛れもなくこの映画のもう一人の主人公であるのだ。彼女の存在を無視することなく、映画のひとつの核として、決して大きな比重ではなかったにしろ、描いたことはこの映画の最大の魅力だ。


 現代パートでこの役を演じるのは『アリスの恋』でオスカーに輝き、『エクソシスト』の母親役など、言わずと知れた名女優エレン・バーステイン。さらに、彼女の若き日を演じるのはケイト・リチャードソンというまだ無名の女優で、どうやらこれが映画初出演だというのだから、この難役を演じきったことは高く評価できよう。


 エレン・バーステインの底知れぬ演技力は、年老いてもなお衰えることを知らず、出る映画出る映画で大御所としての風格と、まだ若き日の彼女を思い出させるような儚げな微笑みを見せてくれるのである。思い返してみれば、昨年の『インターステラー』でもマシュー・マコノヒーの娘を演じ、親よりも年上の娘という珍しい役柄を2作続けて演じたことになる。


 ただ妙に気になって仕方ないことが、事故で一時的に心臓が止まったり、雷に打たれたことで何らかの奇跡が生じて主人公の老いはストップすることになるという説明が、なんだか気恥ずかしいほどに説明臭く感じてしまうことだ。純粋にファンタジーとして機能させることをせず、ややサイエンス・フィクション寄りにしてしまったことで、かえって青臭く見えてしまうのである。劇中のセリフにあるような、「政府に見つかったら……」のようなくだりが、真っ直ぐにファンタジーとしての悲恋ものを描くことを拒絶してしまっていることは、魅力を半減させてしまうのではないだろうか。


 もっとも、「時間」を取り扱う恋愛映画はどちらに傾けるかが大きな課題となっている実績があって、たとえば近年ではSFに傾けた『バタフライ・エフェクト』は大きな成功を産んだが、対照的にファンタジーを重視した『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』はそれ以上の成功を果たした。SF性を重視すべきだったにもかかわらずファンタジーになってしまった『きみがぼくを見つけた日』のような例を考えると、非常に難しい選択であったようにも思える。


 映画はあらゆる選択の果てに生まれる芸術である以上、正誤の判断が入り混じり、それぞれが補完し合わなければならない。その点では、シネマスコープの画面やデジタルと16㎜フィルムの併用、カラーバランスなど、外見のパッケージとしての選択はすべて効果的に働いた。これがまだ4作目の長編であることを考えれば、リー・トランド・クリーガーの課題はパッケージとディテールの中間の層をより高密度に仕上げていくことであろう。(久保田和馬)