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宮台真司の『岸辺の旅』評:映画体験が持つ形式のメタファーとしての黒沢作品

2015年10月17日 11:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015「岸辺の旅」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

■まさにザ・クロサワ・ムービー


 今回は黒沢清監督『岸辺の旅』(10月1日公開)を取り上げましょう。まず結論から言うと、彼の原点である『CURE』(1997年)から続くモチーフを反復しながらも、後味がすこぶるよろしいという意味で、万人に勧められる映画だと思います。
 
 その一方で、革新的な作品が選出される、カンヌ映画祭の「ある視点」部門で、監督賞を受賞した理由も、よく分かります。つまり、黒沢清作品によく触れている人間からすると、「いつもの前衛的な黒沢ホラーだ」と思える作りでもあるのです。
 
 実は僕、「感動的な映画だった」という人が多いので、「感動的な文芸作を撮るなんて、 堕落したのか」と、観るのに勇気が要りました(笑)。でも、観てみたらいつもの黒沢清でした。それなのにいつもの難解さがなくて、分かりやすい映画であるのに驚きました。


 本作は、湯本香樹実による同名小説の映画化です。失踪した夫・優介(浅野忠信)が3年ぶりに妻・瑞希(深津絵里)の元に突然帰ってきて、3年前に自殺したのだと告げます。そして、夫婦で、幽霊になった夫の3年間の遍歴をたどり直す旅に出ることになります。


参考:黒沢清、『岸辺の旅』インタビュー ジャンル映画から解放された、新境地を語る



■謎解きに到るロード・ムービー


 この映画の最初で最大の謎は、「なぜ優介は3年も経ってから妻に会いに来たのか」ということでしょう。妻が大切ならば、すぐ会いに来るはずです。普通に考えれば、妻という存在の優先順位が相対的に低かったのだ、ということになってしまいそうです。
 
 観客はその疑問に引っ掛かりながら映画を見続けることになるはずですが、映画が進むにつれて、妻が大切でなかったのではない、逆に大切だからこそ妻に会うためには3年の遍歴が必要だったのだ、ということが分かってきます。その意味で、謎解きの映画です。。


 妻は、夫が失踪した理由をどうしても知りたいのです。理由がわからないうちは宙づりの状態に留め置かれて、普通に生きていくことができません。冒頭、彼女がピアノ教室で女の子を指導する場面で、妻が魂を失った抜け殻のように生きていることが示されます。
 
 実は、そうした妻の悩みと、夫が死んだ理由とが、関連していることが分かってきます。夫・優介は、大病院に勤めるエリート歯科医で、周囲からは何不自由ないように見えています。でも実際は本当の自分が何者かということが分からぬまま、フワフワと生きていた。
 
 その事実が「オレ、なんで歯医者なんかやってたんだろう」という優介の回顧的台詞で示されます。発作的自殺(海への飛び込み)の原因が何であれ、死んでからやっと、生前にはやりあぐねていた自分探しの旅を、一人きりで始めることになったということです。


 初老の新聞配達員の店、夫婦で切り盛りする食堂を経て、最後に山村の農園家族を訪ねて村人を相手にした私塾で宇宙の始まりや終わりについて話すようになります。彼は自分がそういう話がしたかった人間なのだという事実を知り、自分探しの目標を達成します。


 3年の旅の最後に、長らく曖昧だった自分の輪郭を掴んだ。だから妻の元に戻るのです。旅の3年がなければ、優介は自身の死を妻に納得させられなかったはず。そして、その3年間を妻と一緒に辿り直す「岸辺の旅」を通じて、自分が何者であったかを妻に示すのです。


■映像的快楽と実存的快楽の結合


 冒頭に話したように、本作では、黒沢作品に一貫するモチーフが最も分かりやすく示されます。この社会においては、誰しもが輪郭がぼやけ、相手が何者なのか、自分が何者なのかすら、皆目分からず生きている--そうした不全感が黒沢作品の出発点になります。


 そして、結末がハッピーエンドかバッドエンドかに関係なく、「ようやく“自分”にたどり着いた」と思えた地点で映画が終わります。今回もそうです。僕は原作を知りませんでしたが、黒沢作品にピタリと合う原作をよくもハンティングできたものだと思いました。


 「分かりやすい」と言っても、黒沢作品としてはの話。黒沢監督はハリウッド映画をヌーベルバーグ的な意味で--トリュフォーやゴダールのように--愛する映画マニアです。だから「映像を使って想像させること」を好む一方、「映像で説明すること」は極端に嫌います。


 映画が指し示す虚構が360度丸い輪だとすると、黒沢作品に描かれるのは所々が欠けた輪です。観客は欠けた部分を補いつつ映画を見ます。見えない全体を想像する映像的快楽が、主人公同様に観客にとっても「自分をたどる旅」に重なって実存的快楽を与えます。


 その意味で、夫婦揃っての辿り直しの旅の最初に、優介が世話になった初老の新聞配達員を訪ねるのですが、幽霊男である新聞配達員が、思いを遂げて消えると同時に、周辺が廃墟に変わる場面が大切です。黒沢ファンであれば「待ってました!」となるところです。


 「黒沢作品だからいつも通り廃墟が必要だ」というサービスもありますが(笑)、この場面で主人公夫婦が見ていた光景は幽霊が見せたビジョンだったという事実が分かった結果、論理的に、その後のエピソードの全てが幻かもしれない、ということになるのが重要です。


 本作が素晴らしいのは、最初のエピソードに於いてだけ幻だったことを示した後、それを繰り返さないところ。過剰な説明をしない。だから観客は「何かおかしい」という違和感を伴うビジョンに敏感になり、誰が幽霊なのか分からない不安感で胸が苦しくなるのです。


 これが実存的快楽ならぬ映像的快楽です。映像を見つつ、あれはああなのか、これはこうかと想像が触発されます。全体として安定した構図に収まらない映像モチーフの集合があり、観客は自分で何かを補わない限り、安定した体験が得られないようになっています。


 表象つまり「見えているもの」が何なのかが宙吊りにされ、そこから安定した虚構を想像するための映像的な謎解きが要求されるのです。この映像的快楽に彩られたコストを支払うことの見返りが、観客自身にとっての自分発見という実存的快楽だという仕掛けです。


■黒沢十八番の通過儀礼モチーフ


 その事実が象徴するように、黒沢作品のコアモチーフを一言でいえば「イニシエーション=通過儀礼」です。通過儀礼は「離陸して、カオス体験をして、着陸する」という3段階から成り立ちます。そして、着陸面が、離陸面とは必ず異なっていることが大切です。


 本作では、深津絵里演じる妻が、夫の自死がもたらした「夫は何者だったのか、二人の関係とは何だったのか」が分からない不全状態から、「離陸」して、夫の死後の旅を辿り直す「カオス」体験を経て、望みがかなったがゆえに安定した状態へと「着陸」します。


 「離陸→カオス→着陸」の3段階は、妻のピアノ教師としての振る舞いが、辿り直しの旅を通じてどう変わったかによっても、示されます。先に紹介した冒頭シーンでは、女生徒に対する指示も杓子定規で、「リズムはあなた自身なの」という言葉も空虚に響きます。


 嫌味を言う女生徒の母親も不快ですが(笑)、彼女が良いピアノ教師でないのも確かです。それが中盤、食堂の挿話で幽霊の女児にピアノを教える場面では、「自分の好きなリズムで弾いていいのよ」という言葉も生き生きとし、女児の演奏も素晴らしく見違えます。


 そのことで、彼女が旅を通じて回復途上にあり、来たるべき着陸面が幸いに満ちたものだろうは予兆されます。とても分かりやすいぶん、説明的だとも言われかねない描写です。でも、女児か幽霊だというモチーフの御蔭で気が散らされて(笑)、気にはなりません。
 
 生徒が弾くピアノという楽器の鳴りが、彼女の通過儀礼の進行段階を示すというのは良いアイディアです。そうした展開はたぶん原作に忠実なのだろうと思いますが、分かりやすいものの、決して押し付けがましさがなく、うまく演出されているな、と思いました。


■黒沢作品の本質は昼メロドラマ


 思えば、こうした通過儀礼モチーフは、60年代の昼メロや、70年代のピンク映画や日活ロマンポルノに頻出しました。平凡な女が、カオスを経験し、日常に戻る。見たところは以前と何の違いもないが、女は日常を再帰的に輪郭づける能力を獲得している--。


 実は、黒沢作品は昼メロなのです。ただし、着陸面が、社会から遠く離れたところに設定される作品が多かった。『CURE』や『カリスマ』などが典型です。形式上はバッドエンドになるので、ホラー作品になります。だから、一見したところ昼メロには見えません。


 ところが『岸辺の旅』では、着陸面が、珍しく社会そのものなので、昼メロやピンクや日活ロマンポルノに、あからさまに近い構造です。黒沢監督は初期に日活で『神田川淫乱戦争』(1983年)を撮りましたが、今回は久々にピンク映画的な着陸をしたのです(笑)。


 ピンク映画的な着陸とは、雨降って地固まるで、最後がセックス場面で終わるのが定番です。今回もラスト直前がセックス場面でしょ(笑)。主人公の女が、カオス--昼メロの“メロメロ”パート--を経て、元の鞘に戻る。見掛けは以前と同じでも、心は違うって。


 昼メロ・パターンを最初に洗練させたのが、今村昌平監督『赤い殺意』(1964年)だと思いますが、それが昼メロを超えて日本映画の王道モチーフになりました。その意味で、“ザ・ジャパニーズムービー”を観たという満足度の高さが『岸辺の旅』にはありました。


■不完全な表象からの全体の想像


 『岸辺の旅』は俳優の演技も素晴らしかった。夫を演じた浅野忠信が魅力的でした。彼にしかできない演技だったと思います。浅野はもともと、役柄の幅が広い人物ではない。今作でもまさに、浅野忠信そのものでした(笑)。それがなぜよかったのかを申します。


 「自分探しをする男」を表現する上で、外見や佇まいが、あからさまにメンヘラに見えてしまえば、演出的には恥ずかしい作品になったはず。人間、外から見た印象はどうあれ、心はいろいろです。内面に相応しい外見や佇まいをしていることなんて実際には稀ですね。


 そもそも論から言えば、外見からメンヘラぶりが分かるなら、妻が夫に死なれて動転することが不自然になります。地位も収入もあり、周囲から見て自分の人生に満足していそうに見えることが重要です。その点、浅野はハマリ役で、そういう役作りをしていました。


 お気づきのように、幽霊の役なのに浅野はいつもよりふっくらして、肌の色つやもよかった。メンヘラ的な佇まいの対極でした。それを含めて、黒沢監督は、浅野忠信のいつもどおりの演技であれば、反メンヘラ的な描き方ができると考えたのでしょう。成功です。


 特に、彼が演じた夫を魅力的だなと思わせたのは、終盤、山村にある農園の家族を訪ね、村人全員を相手に、アインシュタインや宇宙の始まりや終わりについての講義をするところ。本作における浅野忠信の出色の演技です。本当に魅力的な人物だと感じさせました。


 自分探しをしていた歯医者が、宇宙について講義をするなんて、意外どころか異様です。なのに、一瞬後にはまったく意外ではないと観客を説得しきってしまう。そういう演技をしていました。これは浅野忠信じゃなければ到底できなかった仕事ではないでしょうか。


 妻・瑞希役の深津絵里も良かった。序盤、抜け殻のような人格をうまく演じていました。冒頭のピアノレッスンの場面では、オーラも表情も硬く、生徒である少女の母親が指摘していたようにドン臭い。世界の奏でる調べに対して閉ざされる風情をうまく演じていた。


 それが旅の途中、食堂の挿話で、幽霊の少女にピアノレッスンする場面では、表情が一変します。瑞希が見違えて回復しつつあることがうまく表現されていました。そうでなければ、「思いが遂げられる」というラストが、まったく説得的でなくなっていたはずです。


 「思いが遂げられる」とは、夫が何者であったのか彼女なりに想像できるようになることです。不完全な表象--切れ切れの輪--から想像を完成させることへの主人公の「思い」が、先に話した黒沢監督ご自身の映画への「思い」とシンクロすることに注意しましょう。


■蒼井優の「演技」を超えた「演出」


 公開前から妻との対決場面が話題になっていた、優介の不倫相手を演じる蒼井優も注目です。岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)に出ていた高校生時代を思えば、いろんな経験を経て、ああいう「演出」ができるようになったのだなと感慨深い。


 あれは「演技」を超えた「演出」です。僕は黒沢清監督と個人的に付き合いがありますが、彼はかねて「自分は女が分からないという劣等感がある」と語っておられます。だからラブアフェアー(色ごと)の演技は役者にお任せになるのだともおっしゃっておられました。


 それもあって、あのシーンは蒼井優が「演出」したのだと感じました。「最初はジャブで、その後パンチの応酬で……」と、形式を伝えたことを監督自身が新聞の取材で明かしています。形式にどんな内容を盛り込むのかを、蒼井優が決めたということですね。


 黒沢監督と以前お話ししたとき、お任せした俳優の演技によって形式に内容が盛りつけられたとき、「そうなるのか!」とシーンの意味が発見される瞬間が、演出の快楽なのだと語っておられた。今回その快楽を味わえたのが、この対決シーンだったろうと思います。


 不意にアップにされる彼女の表情が怖く、まさにホラーです。その結果、奇しくも黒沢作品っぽくなりました。他方、新聞には、性行為を生々しく描いたことが黒沢清の新しい挑戦という趣旨が書かれていました。“生々しい”とは思わなかったけど、良い演出でした。


 説明しましょう。僕は黒沢作品というと、昼メロ的ということと、監督の恥ずかしがりが刻印されていることを、思い出します。今回はラブシーンを子細に演出して映像化するのが恥ずかしかったわけです。だから、マジガチのベタではなく、絡め手から責めました。


 それが、衣服を一枚一枚、という演出になるわけですが(笑)、この過剰な恥ずかしがりぶりこそが、先ほど申し上げた「説明よりも想像を」という黒沢モードと、元来とても相性が良いのです。その意味で、ラスト近くの情事場面はよくできていたと感じました。


■『向日葵の丘』と『岸辺の旅』--断片的表象からの想像の完成--


 『岸辺の旅』はこのように優れた作品でしたが、この映画との共通性という観点から、二つの作品を紹介してみます。一つは、太田隆文監督『向日葵の丘 1983年・夏』(8月22日公開)です。これには誰が見てもあからさまに『岸辺の旅』と重なる部分があります。


 常盤貴子演じる売れないシナリオライターのもとに、故郷で暮らす高校時代のクラスメート(田中美里)から、30年ぶりに連絡があります。難病で余命数ヶ月だと手紙で知らせてきたのです。常盤貴子は悩んだ末に、30年ぶりの帰郷を決意し、映画が始まります。


 悩んだのは、高校時代のトラウマゆえでした。仲良し3人組の映画サークルで作品を撮ったものの、父親の理不尽な妨害により映画館で上映することができなかったという出来事。それがきっかけで、3人の間がギクシャクし、ほどなく疎遠になってしまったのです。


 難病のクラスメートが密かに抱え持っていた完成版フィルムを、30年前に上映予定だった映画館で上映することになります。『岸辺の旅』と同じ「過去にやり残したことを完遂する」という形式です。かくて「思いを遂げられた」というハッピーエンドになります。


 両方に共通して、「思いを遂げる」とは内容的には「過去にやり残したことを、やり切る」というものです。しかし踏み込んで言えば、形式的には「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」という、そもそも映画体験自体が持つ形式に関連しています。


 同じ時期に「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」ことをモチーフとする映画が2本出て来た。偶然かもしれませんが、僕は社会学者なので、もうかすると偶然ではない理由があるかもしれないと考えます。それは、ある種の願望なのかもしれません。


 注意深く見てほしいのですが、僕のこうした願望自体が「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」というモチーフを反復します。思えば、僕のこうした願望は近年ますます強くなってきています。そのことが、偶然ではない理由に関連しているでしょう。


 僕たちの日常は埋めがたい不全感に満ち、数多の理不尽や不条理に宙吊りになったままに死んでいく。だからこそ、できることなら、全ての理不尽で不条理な「表象」の断片がつながって「思いが遂げられる=納得できる想像が完成される」瞬間があってほしい⋯⋯。


 そうした理不尽や不条理は「表象」というより、身も蓋もない端的な「事実」でしょう。だからこそ、それらがもっと大きな「事実」の現れ--「表象」--であってほしいと願う。それが人というものの摂理だと思います。事実そういう願望を多くの人が持っているはずです。


 身も蓋もない端的な「事実」としての理不尽や不条理がかつてなく「見える化」しつつあるのが先進各国の現在です。その感覚が作家を突き動かしている可能性があると睨んでいます。想像の完成がもはや不可能だからこそ、想像の完成を望むということだと思うのです。


 想像を完成したにせよ、想像に対応する大きな「事実」--隠れたる神--が存在するかどうか保証の限りではない。そうした感覚も増進しつつあります。でもこれも同じで、だからこそ、人々は想像の完成を想像するのではないでしょうか。初期ロマン派的な発想です。


 そこまで踏み込むかどうかは別にして(笑)、いずれにせよ、僕らがいま何を不可能だと思っているのかということが、「思いを遂げる」ことを主題とした2つの映画の共通性から炙り出されるだろうと思います。それを皆さんが御自身で言葉にしてみてください。


■『ナイトクローラー』と『岸辺の旅』--演技を超えた演出が映画を変形--


 もう一本、『岸辺の旅』と共通するモチーフを含む最近観た映画が、ダン・ギルロイ監督『ナイトクローラー』(8月22日)です。これはB級っぽい作品ですが、傑作です。しかし、これを御覧になった方は、どこが『岸辺の旅』と共通するのかといぶかるでしょうね。


 人脈も学歴もなく、仕事が得られずに困っているルイス(ジェイク・ギレンホール)が、たまたま事故現場に遭遇します。そこで、撮影した衝撃的な映像をテレビ局に売る「ナイトクローラー」=報道パパラッチの姿を目撃したところから、映画はスタートします。


 ルイスは警察無線を傍受し、事件や事故の現場に駆けつけては過激な映像を撮り、多額の報酬を得るようになります。やがてテレビ局の要求はエスカレートし、主人公は特ダネを求めるあまりに常軌を逸した行動に走るようになった挙げ句⋯⋯堂々成り上がります。


 えっ? 最後に成り上がって終わり? あり得ない。後味のわるいトンデモ映画です(笑)。ジェイク・ギレンホールは役作りで3ヶ月間に12キロ痩せたそうです。鏡を叩き割るというアドリブで手を血まみれにして42針縫う大怪我を負ったというエピソードもあります。


 とにかく演技が凄かった。あまりに凄かったので、監督の意図はマスメディアのスキャンダル合戦についての社会批判だったはずなのに、映画全体が、社会批判から、都市伝説的ホラーへと変形してしまった(笑)。これは明らかに意図せざる帰結だと思います。


 ギレンホールが演じる主人公がバケモノになり、社会のど真ん中に座っているのに誰も気が付かない--。この都市伝説的ホラー(恐怖)は、監督が当初想定していたものを超えているはず。途中からホラーにすべきだと気づき、演出に切り替えたことはあり得ます。


 蒼井優の「演技」を超えた「演出」が『岸辺の旅』を一瞬ホラー映画に変えたのと同様に、ギレンホールの「演技」を超えた「演出」が、映画全体に及ぶ形で強力かつ大規模に展開したものが『ナイトクローラー』なのです。こうした意図せざる帰結も映画の快楽ですよね。(取材=神谷弘一)