2016年卒で導入された「就活後ろ倒し」が見直しにさらされています。理由は企業や学生から「就活の長期化」が問題視されたためですが、そもそも後ろ倒し自体がこの問題を解決しようとして実施された取り組みでした。
これについて考えるためには大学などからの批判に耳を傾ける必要がありますが、そもそも「就活の長期化」は本当に悪いことなのでしょうか? もしかすると、もはや解決すべき重要な問題とはいえないのかもしれません。(文:河合浩司)
学生の期待に応えていないことに無自覚な大学
長期化を問題視する筆頭者は、大学関係者です。就活に時間をとられると、学生が大学からいなくなります。自分たちの食い扶持である「授業」の存在価値、もっと言えば自分たちの存在価値が怪しくなるわけですから、当然ながら大騒ぎします。
しかし彼らは、自分たちが提供している授業が学生の期待に応えていないことを考慮していません。大学の授業にたくさんの学びとそれに伴う成長があれば、学生はこぞって授業を受けに行くでしょう。なにがしかの成長を果たせるなら、結果的に就活で内定に至ることは決して難しくないからです。
純粋に学びを深めたい学生も、就活に時間を割かれることを問題視します。実際に理系の学生さんからは「学部の4年次や大学院の後半を就活に時間を割かれると、やりたかった研究ができなくなります。何のために大学に来たのか分かりませんよ」という話も聞きます。
大学関係者とは違い、彼らの言い分は十分に理解できます。しかし彼らのようにきちんと学びを深めた人たちは、就活ルールがどのような形になっても企業に求められます。就職できないことなどありえません。
しかし、そこまで勉強に力を入れている人は、学生全体から見たらほんの一握りでしかないといえるでしょう。多くの人は「卒業」の単位を確保するための要領の良さを競っているだけ、というのが現実ではないでしょうか。
大学が行わない職業教育は「就活」が担っている
成長を伴う学びが少ない大学の授業に比べると、就職活動そのものが学生に成長をもたらす効果は大きいといえます。新入社員に話を聞くと「今思えば、就活が一番成長した実感がある」と答える学生は少なくありません。
私は就活に時間と労力を注ぐことが、職業観の醸成を図るうえでも必要だと考えています。私自身もそうだったのですが、ほとんどの学生は就職活動を通じて、初めて真剣に「どんな働き方をしたいのか?」「どんな仕事をしたいのか?」などと社会との関わり方を考え始めるのではないでしょうか。
そして「社会にはどんな仕事があるのだろうか?」と調べ始め、最初は有名企業を受けながらも徐々に様々な企業の存在を知り、社会の仕組みを知っていくのです。このプロセスそのものが、いまの大学生にとっては一番の職業教育になっていると私は思っています。
大学の出口を「就職」とすれば、本来ならこれらの教育も大学の役割なのかもしれませんが、大学はこういった役割を果たせていません。正直なところ、採用の仕事をしていて「この大学は学生の教育を本当にしっかりやっているなぁ」と思ったことが一度もないのです。
希望の仕事に就くために中退して中途採用を受ける人も
大学があろうとなかろうと、立派な学生はいます。彼ら彼女らの学びの深さ、考える力の豊かさに接すると「20歳そこそこの年齢で、本当に素晴らしいなぁ」と感服します。しかし彼らが有する能力のうち、大学のカリキュラムによって培われたものと言えるものは、残念ながらあまりに少ないのです。
偶然素晴らしい教員に出会い、開花する学生もいるでしょうが、それも大学教育のおかげというより一人の優秀な教育者の個人技に過ぎません。大学がその個人技を活かせればいいのですが、少なくとも私はそういう取組みを聞いたことがありません。
大学が教育機関として機能しなければ、大学を卒業することすら意味がなくなってきます。実際、希望の仕事に就くために4年生でありながら航空会社の中途採用の選考を受け、中途退学で働き始めた人もいるくらいです。
卒業証書は、活躍する社会人の証明書ではありません。むしろ、一日も早く仕事を覚えることの方が明らかに有意義です。今後も大学が教育機関として存在価値を示せずにいれば、このような形の採用も珍しくなくなるのかもしれません。
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