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『顔のないヒトラーたち』と『ヒトラー暗殺、13分の誤算』ーー“ナチスの時代”を描く2作品を考察

2015年10月15日 13:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 LUCKY BIRD PICTURES GMBH,DELPHIMEDIEN GMBH,PHILIPP FILMPRODUCTION GMBH & CO.KG (c)Bernd Schuller

 第二次世界大戦終結から、ちょうど70年となった今年、「ナチスの時代」を描いたドイツ映画が2本、立て続けに日本公開される。ひとつは、10月3日(土)から公開されている映画『顔のないヒトラーたち』。そしてもうひとつは、10月16日(金)から公開される映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』だ。物語の舞台となる時代はやや違えども、これまであまり描かれることのなかった事件を扱うことによって、従来の映画とは異なる形で「ナチスの時代」を浮かび上がらせようとする、という意味では相通じるところも多いこの2作品。それぞれ順番に見ていくことにしよう。


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 まず、「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」を実現させた検察官たちの苦闘を描いた『顔のないヒトラーたち』。その舞台となるのは、1958年の西ドイツ、フランクフルトだ。第二次世界大戦から十数年が経った西ドイツは、次第に経済も復興し、戦争の記憶も薄れ始めていた。そんな折り、アウシュヴィッツ強制収容所の元親衛隊(SS)員が、規則に違反し教師の職についていることが判明する。しかし当局は、さしたる関心を示さない。そこに疑問を抱いた新米検事ヨハン(アレクサンダー・フェーリング)は、アウシュヴィッツについて独自に調査を開始するのだが、やがて恐ろしい現実にぶち当たり……。


 今となっては信じられないことだが、当時の西ドイツ国民は、戦後ポーランド領になったアウシュヴィッツで、かつてナチスが何をやったかはもちろん、その存在すら知らなかったというのだ。本作の主人公ヨハンもまた、そんな西ドイツ国民のひとりだった。しかし、そこに収容されていたユダヤ人たちの重い口を開かせていくうちに、ヨハンは強制収容所で行われていた蛮行の数々を知ることになる。さらには、それに加担していた人々が、何のおとがめもなく、現在普通に暮らしていることも。かくしてヨハンは、検事総長フリッツ・バウアー(ゲルト・フォス)の協力のもと、彼らを訴えるべく奔走する。容疑者の数は約8000人。そのなかには、かの地で人体実験を行っていたという、「アウシュヴィッツの象徴」メンゲレ医師もいた。そして、1963年12月20日、その後ドイツ国民の「歴史認識」を大きく変えることになる「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」の初公判が開かれる。


 検事総長フリッツ・バウアーをはじめ、ヨーゼフ・メンゲレ医師、アウシュヴィッツ強制収容所の元所長リヒャルト・ベーア、元副官ロベルト・ムルカなど、実在の人物や史実に基づきながら展開してゆく物語。しかし、本作の面白さは、そんな実録的な面白さだけではなく、実在する3人の検事を混ぜ合わせたキャラクターであるという主人公ヨハンの父が、かつてアウシュヴィッツに勤務していたことが発覚するなど、正義を追求する側の内的な葛藤や矛盾をドラマチックに描いている点にある。「ヒトラーの死で、ナチスが全滅したとでも?」、「今、この国が求めているのは、体裁の良さだけなんだ。真実は二の次さ」、「ヒトラーだけなく、一般市民が罪を犯した」……さまざまな人々の声を耳にしながら、激しく煩悶するヨハン。そう、彼は自国の「負の歴史」と対峙する、ドイツ国民を姿を象徴しているのだった。


 一方、『ヒトラー暗殺、13分の誤算』の舞台となるのは、それから遡ること約20年、1939年のミュンヘンである。ナチス政権下のドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告。やがて多くの国々を巻き込むことになる第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた年の11月8日。ヒトラーは、ミュンヘンのビアホール“ビュルガーブロイケラー”で、毎年恒例の記念演説を行っていた。そして、ヒトラーが去った「13分」後、その場所が時限爆弾によって爆破される。ゲシュタポ(秘密警察)は、その日のうちに、爆弾の設計図を持った怪しげな人物の身柄を拘束する。男の名は、ゲオルグ・エルザー(クリスティアン・フリーデル)、36歳。田舎町に住む、平凡な家具職人の男だった。彼は果たして、何者なのだろうか? その正体を明らかにすべく、熾烈な尋問と拷問を繰り返すゲシュタポ。そこで、だんだんと明らかになってゆく、エルザーの犯行動機とは?


 かつて、映画『ヒトラー~最期の12日間~』(2004年)で、アカデミー賞外国映画賞にノミネートされたドイツ人監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルが、再び「ナチスの時代」を描いたことも注目を集めている本作。監督は言う。「この映画は『ヒトラー~最期の12日間~』の裏話のようなものだ。あの映画では第三帝国の最後の数週間に集中した。本作では伝統的な村社会に、ナチスが徐々に侵入していく1930年代を描いている」と。ちなみに、ヒトラーの暗殺計画は、その後も合わせて40以上あったという。そのなかでも、一労働者の単独犯行であったこと、戦争突入への早期予見、そして何よりもイデオロギー的な要素がほとんどなかったことなどから、かなり特異性を放っているという「ビュルガーブロイケラー爆発事件」。


 映画は、固定カメラで撮られた殺伐とした尋問シーンと、手持ちカメラで色鮮やかに撮られたゲオルグの回想シーンを交互に映し出してゆく。田舎町で暮らす彼の平穏な生活のなかに、徐々に入り込んでくるナチスの「暴力」、「人種差別」、そして「戦争」の予感。近い将来、最悪の事態が訪れることをいち早く察知した彼は、個人の力で何とかそれを阻止しようとするのだった。尋問中、共産主義思想との関係性について尋ねられた彼は言う。「僕は何からも自由だ。そして、その自由を失ったら死んでしまうだろう」と。それがこの映画のテーマなのだろう。監督は、今を生きる我々がエルザーから学べることについて、次のように語っている。「ある地点に達したら、『これ以上は従えない。自分の良心と折り合いがつかない』と立ち上がる勇気」であると。


 「時の権力」や「時代の空気」といったものに惑わされることなく、自らの頭で考え、そして行動に出ること。そこで想起されるのは、2013年に日本で公開され、異例の大ヒットを記録した映画『ハンナ・アーレント』(2012年/監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ)だった。『顔のないヒトラーたち』でも言及されている通り、1960年にアルゼンチンで身柄を拘束され、イスラエルへ移送されたアドルフ・アイヒマン。エルサレムで行われたその裁判を実際に傍聴し、記事を書くことによって、一大センセーションを巻き起こした哲学者ハンナ・アーレントは、映画のクライマックスとなるスピーチで、次のように語っていた。


「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」。


 ある者(『顔のないヒトラーたち』のヨハン)の行動は、その後の歴史を大きく変え、またある者(『ヒトラー暗殺、13分の誤算』のエルザー)の行動は、惜しいところで歴史を変えることなく、長らくのあいだ人々に忘れ去られていた。いずれにせよ、彼らは思考停止に陥ることなく、自らの頭で考え、そして行動に出た。翻って、今の日本はどうなのだろうか? 『顔のないヒトラーたち』と『ヒトラー暗殺、13分の誤算』……これら2本のドイツ映画は、今を生きる我々日本人にとっても、多くの考えるべき要素を含んだ映画と言えるだろう。(麦倉正樹)