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乃木坂46が舞台『すべての犬は天国へ行く』で手にした、グループとしての強靭な武器

2015年10月14日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

舞台『すべての犬は天国へ行く』のワンシーン。

 演劇に対峙するグループとしての乃木坂46についてあらためてまとめるならば、その始まりは2012~2014年まで合計3度上演されてきた演劇公演『16人のプリンシパル』に見出せるだろう。『16人のプリンシパル』は公演の第一幕を公開オーディションにあて、それを受けての観客による投票で第二幕の演劇のキャスティングを決めるという、独特の形式をとった。日々の上演の動向をファンの「民意」にゆだねる企画性を持ちつつ、キャスト選出の当落線上にいる彼女たちをドキュメンタリー的に見守るこの公演は、乃木坂46のトレードマーク的なイベントになってきた。しかしまた、これを「演劇」の公演としてみるとき、そこには常に限界が伴ってもいた。形式上の「本編」である第二幕の演劇のキャストが公演時間の直前に決定されるという性格上、メンバーはすべての登場人物の台詞と段取りを覚える必要がある。専業の俳優であればいざ知らず、まだ俳優としての訓練を受ける以前の彼女たちにとって、その環境の下で演劇のクオリティを上げることはきわめて難しい。『16人のプリンシパル』は独特の魅力を放ちつつも、演劇と向き合うための場としては、演者であるメンバーにとっても演出する側にとっても、いびつさをはらむものだった。


 今年に入り、乃木坂46は演劇面に関してある変化を見せた。デビュー以来毎年続けてきた『16人のプリンシパル』を実施せず、代わりに2つの演劇公演を企画したのだ。ひとつが6月に上演された『じょしらく』、そしてもうひとつが今回上演された『すべての犬は天国へ行く』(いずれも渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyo)である。これら2つはそれぞれに異なる性質を持ちながら、いずれも乃木坂46の演劇への志向を大きく推し進めるものになった。いってみれば前者は「アイドルが演劇をやること」を内側に向けて、後者は外側に向けて、ひとつの形を突き詰めようとした歩みといえるだろう。『じょしらく』は、「アイドルが落語家を演じる」というその企画趣旨そのものを入れ子構造のように劇中劇として再現し、アイドルが「演じる」ことの意義自体を作品の重要なテーマにしていた。「アイドル」というジャンルの可能性をポジティブに謳い、同時にこのジャンルへの批評ともなる投げかけがそこでは行なわれていた(参考:乃木坂46が舞台公演『じょしらく』で見せた、“アイドル演劇”の可能性とは?)。


 それに対して今回の『すべての犬は天国へ行く』は、「アイドル」という枠組みを外したときに彼女たちが俳優として立ち回っていく基盤を作る、そのための足がかりだった。この公演のために乃木坂46が選んだのは、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)によるシリアス・コメディの傑作『すべての犬は天国へ行く』だが、この戯曲が描く救いのなさと笑いを成立させるのは、そう容易いことではない。実際、「KERA作品の上演」としてこの乃木坂46版をみるとき、まず気にかかるのが客演の役者陣に比べての、乃木坂46メンバーたちの未熟さであることは間違いない。しかし、今回の公演に関していえば、その未熟さの露呈自体が、ひとつのプロセスとして「正しい」ものだった。


 西部劇をモチーフにしたこの劇に登場するのは女性のみ。町の男たちが殺し合いの果てに一人残らず死に絶えたのち、居酒屋とその二階にある売春宿で過ごす女性たちが描かれる。男たちが形作っていた町の論理の中では従属的な立場にいたはずの彼女たちは、男が誰一人いなくなったのちも、それを解放の契機と受け止めるのではなく、男がいた頃の習慣をなぞって生きている。男がいなければ成り立たなかったはずの売春宿でさえも、虚構の男を無理やりに維持させ、虚構の「外部」に出ていこうとする女性たちを次々と殺してまでも、その形骸を守ろうとする。そして、全員で維持している虚構がほころぶと同時に、彼女たちは無意味に最後の殺し合いを始める。


 この陰鬱で閉塞的、かつ秀逸なコメディである戯曲は、「アイドルが演劇に挑戦する」ことに奉仕してくれるタイプの作品ではない。むしろ、まだ俳優として途上の段階にある彼女たちがキャストになることで、救いのなさとコメディを両立させることの難しさをストレートにさらすものでもあった。そしてまた、そうした戯曲だからこそ、東風万智子や猫背椿、柿丸美智恵、ニーコ、山下裕子、鳥居みゆきといった客演陣の力は不可欠なものとなる。より正確にいうならば、この舞台は実質的に「乃木坂46主演+助演女優」による作品ではない。というのも、キャスティングに関して乃木坂46のメンバーは特権的な位置を与えられていないのだ。メンバーの出演頻度を優先して配役が行なわれているわけではないし、ラストシーンを飾る5人のうち4人は乃木坂46のメンバーではない。また、そのラストを含めてこの作品中で特異な存在感を与えられ印象的な歌唱シーンのあるデボアの役は、乃木坂46メンバーではなく鳥居によって演じられている。このことは、乃木坂46の舞台公演という縛りがある中でも、アイドルを主演にすることよりも戯曲と演出を尊重しようとする意図が感じられるものだし、またそうしなければ成り立たない作品であることも意味している。乃木坂46が主体となる公演である以上、企画そのものの主役が乃木坂46であることは揺らがないが、この公演で行なわれているのは、乃木坂46のメンバーがいかに戯曲や演出に奉仕できるのか、というレッスンであるように見える。その試みはグループとしての野心を感じさせるものだし、その野心を一方で支えながらKERA戯曲に挑む演出、スタッフ、客演陣に対しても多大な敬意が払われるべきものだろう。


 アイドルをアイドルとして活かすための演劇ではないこの企画は、確かに彼女たちの俳優としての未熟さもはっきり見せる。しかしまた、そうした場だからこそ彼女たちの現在地をはかることができるし、その作品で見ることができた輝きは、アイドルという枠組みの中とは異なる価値観の場に出た時の、武器を探るためのきっかけになるものだ。『すべての犬は天国へ行く』で唯一の「部外者」である早撃ちエルザを演じた井上小百合や、もはや形骸化した檻でしかない「男」の影をまとって売春宿を成り立たせるキキを演じた桜井玲香らのコメディへの順応には目を見張るものがあった。こうしたセンスの発掘は、おそらくは現段階の技量に対してハードルの非常に高い戯曲に触れたからこそ生じたものだろう。この野心的な企画は継続されなければこれらの発掘は実を結んでいかないだろうし、またこのような性質の演劇が乃木坂46の伝統になっていくならば、グループの武器としてきわめて強靭なものになる。たとえばこれは、乃木坂46結成初年度でやろうとしても成立しなかった作品のはずだ。それを考えれば演劇を志向するグループとしての乃木坂46が、段階を踏みながら確かに歩を進めようとしていることがわかる。その点では、戯曲選びは今後も大きな鍵となるし、今回の『すべての犬は天国へ行く』は、乃木坂46の野心的企画にとって非常に良いチョイスだったように見える。そして、戯曲として、演劇として『すべての犬は天国へ行く』が抜群に面白いのだと示せたことで、その第一歩は順調に踏み出せたのではないだろうか。


 ただし、これはアイドルから「脱する」ことで成し得た企画ではない。そうではなく、「アイドル」というジャンルを長期的に育んでいくうえで、このようなベクトルでエンターテイナーとしての熟成を目指すこともできるのだという、ひとつの可能性の提示である。「アイドルのイメージを壊す」という常套句は、ある意味ではアイドルというジャンルそのものに限界を設けてしまう表現だ。実際、メンバーにとって今回のような経験値は乃木坂46に所属しているからこそ可能になったもののはずだ。乃木坂46が今回の『すべての犬は天国へ行く』で足を踏み入れたのは、「アイドル」の枠組みを壊すことやそこから脱することではなく、アイドルという枠組みが手にすることのできる幅を拡張させるための入り口なのだろう。現時点で見える個々人の表現の弱さなどの食い足りなさはいわば、必要かつ順調な第一歩としての未熟さなのだと思う。この公演に続く企画が組まれ、乃木坂46独特の伝統を紡いでいくのを待ちたい。(香月孝史)