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映画『バクマン。』に溢れる、マンガへのリスペクトーー松谷創一郎がその意義を考察

2015年10月05日 14:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015映画「バクマン。」製作委員会

■『バクマン。』は、“メジャーの矜持”が示された作品


 映画『バクマン。』を語るうえで、当然ではあるものの押さえる必要があるのは、それが堂々たるエンタテインメントだということです。なぜなら、マンガ界のトップを走る『週刊少年ジャンプ』の内幕を描いた同誌連載の大ヒット作を、日本の映画業界で最大のメジャー会社である東宝が手掛けているからです。これはとても意義深いことです。それゆえ、必ず成功させなければいけない、というプレッシャーも大きかったはずです。しかし、結果として、娯楽映画として素晴らしい作品になり、興行的にも好発進しました。しかもそこには、メジャーであること、マスに向けて何かを発信することへの答が、極めて明確に描かれていました。


参考:異端の日本映画『GONIN サーガ』が描く美学ーー根津甚八を蘇らせた石井隆の作家性とは


 メジャーであることの意義を説明するために、まずは映画とマンガ、それぞれの日本における歴史を簡単に振り返っておきましょう。映画は、テレビや他の娯楽の浸透によって、1960年代前半から急激に斜陽化します。そうした中で、娯楽的な側面と文化的な側面がそれまで以上に分化し、前者は相対的に弱まっていきました。一方、芸術的な側面は、60年代から70年代前半の学生運動もあって相対的に浮揚していった流れがあります。映画だけでなく小説や音楽の世界でも芸術と娯楽の対立は見られますが、東宝は大手三社のなかでもっとも娯楽性を追求してきた会社です。もちろん文芸系の秀作も多いですが、やはり『ゴジラ』 の会社でもあり、娯楽追求に余念がありませんでした。


 一方、マンガの世界では娯楽と芸術といった対立はほとんど見られません。子供が楽しんで読むための娯楽として生まれた歴史があるからです。もちろん、石ノ森章太郎の『ジュン』や、それが連載されていた雑誌の『COM(コム)』(1967~1973)、青林堂の『ガロ』(1964~2002)、変わり種ではガソリンスタンドだけで販売されていた『A・Ha』(1990)のような、アート系とも言うべきマンガや雑誌もありました。しかし、それらも芸術マンガを標榜していたわけではありません。実際、青林堂の社長で『ガロ』の初代編集長だった故・長井勝一さんは、新人マンガ家に対し、常に「面白いマンガを描きなさい」と伝えていました。マンガ界には、「俗情との結託」といった大昔のクリシェを持ち出すひとは、そもそもいなかったのです。『ジャンプ』はこうしたマンガ界で、80年代以降、30年以上もトップを突き進む存在です。


 こうした両者の文脈もあり、映画の『バクマン。』は原作同様に徹底して娯楽作でなければなりませんでした。同時に、原作が背負っていたマンガ文脈にも強いリスペクトを払う必要もありました。映画『バクマン。』は、そこで見事な解答を示しました。そこには、メジャーなコンテンツを生み出す人たちの心意気が強く感じられます。映画の世界では、前述した対立構造のために、メジャー志向の作品が評価されない傾向もありますが、この作品は、メジャー作品がどうあるべきかという問いに対する一つの回答を示しています。


 本作が良質な作品に仕上がったのは、脚本・監督の大根仁さんと企画・プロデュースの川村元気さん(東宝)の組み合わせによるところが大きいでしょう。このふたりは、『モテキ』のタッグです。原作と比べると、大事なポイントだけを残して、映画として不要なところはどんどん切り落としていることがわかります。ちょっと速すぎるかな?と思うくらいのスピードで展開していきますが、あのテンポの良さは大根さんならでは。2時間の映画だけど、90分くらいにしか感じません。


 そして特に言及したいのは川村さんの存在です。パンフレットを読むと分かりますけど、彼の名前がいたるところに出てきます。今の時代、ここまで前面に名前が出る映画プロデューサーは彼しかいません。彼自身も『世界から猫が消えたなら』などベストセラー作家であるように、マスに対して訴えかける感度はとても高いです。


 川村さんは原作の処理がやはり上手い。代表作は『告白』と『悪人』(ともに2010)ですが、これらはともに原作が小説でした。また、その前後の『デトロイト・メタル・シティ』(2008)や『宇宙兄弟』(2012)、最近では去年の『寄生獣』(2014、15)など、マンガ原作モノも目立ちます。川村さんは小説やマンガ、アニメやゲームなどにも非常に詳しく、それらをただ映画にするのではなく、原作の魅力を最大限に活かしながら、映画ならではの表現を追求します。本作でいえば、マンガ界の熾烈な競争をビジュアル化するために、主人公たちがペンを刀のようにして戦うシーンとして表現したところが、映画ならではのエンタテインメント性につながっています。


 原作のストーリーを忠実に映画化してしまうと、寄り道をしてばっかり締まりのない作品になることが少なくありません。とくにマンガは連載という形式のなかで進むため、後から振り返るとノイズとなるエピソードが加わっていることがあります。たとえば『DEATH NOTE』であれば、後半登場するニアのエピソードがそうです。マンガならではの魅力的なキャラクターではありますが、ひとつの作品として通して見ると蛇足感があります。そのあたりを、原作者や編集部、監督、脚本家、そして出資者などと交渉・調整しながら処理するのが映画プロデューサーの仕事です。


 本作は、しっかりと原作のポイントを押さえたうえで腑分けし、『ジャンプ』のテーゼである「友情・努力・勝利」を前面に出し、さらに娯楽映画としてのクオリティを追求しました。この入念な気の払い方に、制作側の強いメジャーの矜持が感じられるのです。


■天才と秀才の戦いを描いた王道ストーリー


 私がもう一つ、この映画で感心したのは“マンガを描くこと”から逃げなかったところです。ここまでマンガと向き合った映画は、おそらく過去にはなかったでしょう。そもそもマンガを描く作業は、基本的に机に向かっているだけで見た目には地味。はっきり言って、映画向きではないんですね。それを、前述したペンを刀に戦う表現やプロジェクション・マッピングを活用しただけでなく、全編を通して、ペン入れの「カリカリ」「ガシガシ」「ザッザッ」という音がかなり強調されています。地味な作業に潜む迫力を、音で表現したわけです。それは、ひたすら机に向かうなかからマンガが生み出されることが、上手く表されていました。そのあたりからも、この映画のマンガに対する愛情が強く伝わってきました。


 『バクマン。』は、『ジャンプ』の裏側を描いた作品で、いわゆる“内幕モノ“でもあります。『ジャンプ』の“アンケート至上主義”や“作家の専属契約”といった編集姿勢は、人気取りのマンガ家ばかりになるとか、作者を囲んでしまうからダメだとか、否定的に語られることも少なくありませんでした。しかし、そうした面をできるかぎり明け透けに描いたからこそ、『バクマン。』は信頼を得たところがあります。そして映画もしっかりとそこを描いたのは、嬉しかったですね。


 とくに編集会議のシーンは秀逸です。リリー・フランキー演じる編集長が、「あり」「条件付きであり」「なし」と、掲載を決めていく。『ジャンプ』編集部は、実際はもっと辛辣だとコメントしていましたが、そういう残酷な側面も描きました。あそこをとてもシビアに淡々と描いたのは、川村さんや東宝も同じようなことを日々経験しているからでもあるのでしょう。メジャー作品がそういう過酷な難関を突破したうえで生み出されるのは、東宝においても同じだからです。その点で、マンガ家志望のひとはもちろんのこと、多くのクリエイターにとっても参考になるところが多い作品だったのではないでしょうか。


 宮藤官九郎さんが演じるマンガ家・川口たろうが、「マンガは読者に読んでもらって、初めてマンガなんだよ!」という言葉も、とても重みがあります。もしかしたら、メジャーでやっていく意識がないひとには、この言葉は理解し難いものかもしれない。でも、作品は人に見られてナンボだというのは、間違いなく正解です。マンガの世界に限らず、クリエイターには天才型のひとと、秀才型のひとがいます。そしてクリエイターの99%くらいは秀才型で、制約のある中で、努力と工夫で結果を出します。先ほどの川口たろうの言葉は、まさにそうした秀才型のクリエイターに向けられたものでしょう。


 そういえば『バクマン。』は、“天才VS秀才”を描いた、極めて王道の物語です。天才型の新妻エイジ(染谷将太)に対して、絵を描くことしかできない真城最高(佐藤健)と、原作を書くことしかできない高木秋人(神木隆之介)が、力を合わせて立ち向かっていきます。そして、秀才型の人間を引き上げる役割を果たすのが、山田孝之演じる編集者です。この映画におけるマンガ編集者にあたる存在は、プロデューサーの川村元気自身です。あの編集者の姿は、川村さんの分身でもあるのです。


 作中でも、たとえば登場人物の部屋の壁に「毒蛇は急がない」(強い者は、急がずに泰然自若としているという意味)と書いた紙が貼られていますが、これは藤子不二雄Aの自伝的マンガ『まんが道』に出てくる言葉です。他にも酒を飲みながら『スラムダンク』ネタを話したりします。つまり『バクマン。』は、過去のマンガ作品にオマージュを捧げた作品であり、同時に、映画制作者が自分たちの姿勢を表明したメタ的な作品でもあるわけです。エンドクレジットなどは、本当にマンガ愛に溢れていて、そこにも感銘を受けました。「映画が、ここまでマンガを描いてくれたんだ!」という喜びでいっぱいになりました。


■映画でマンガを描くことの意味


 映画でマンガへのリスペクトを表明することがなぜ重要かというと、私はマンガが日本のコンテンツの基盤だと考えているからです。実際、2000年代中期以降に復活した日本映画は、マンガ原作、アニメ、それとドラマのスピンオフ作品の三本柱です。しかもアニメとドラマのスピンオフも、もとはマンガ原作であるケースが多い。統計的に処理をしても、オリジナルや小説原作は数が減っており、しかもそれらの映画がヒットする度合いは低いのです。日本映画は、マンガを土台としているんです。


 しかし、若い人からお年寄りまで多くの人々がマンガに親しんできたにも関わらず、日本社会でマンガはまだまだ十分に評価されていないと思います。私はそれが不満で、もっとマンガに対する敬意を払うべきだと考えていたからこそ、映画『バクマン。』はすごく嬉しかった。


 映画の後半で、定食屋とか電車内で、人々がマンガを読むシーンが出てきますが、これはまさに川口たろうの「マンガは読者に読んでもらって、初めてマンガなんだよ!」という言葉を表しています。マンガ家がいて、編集者の手によって雑誌や単行本というメディアを介し、そして読者の手に渡り読まれる――送り手・メディア・受け手という一連のプロセスを経て、はじめてマンガは成立します。先ほども言ったように、マンガは面白いもの、多くの読者に届くものを目指すもので、その姿勢こそがマンガ文化を発展させてきた“力”です。しかも人々が生活の中で自由に読むもので、受け止められ方も読者によって自由です。あの何気ないシーンはそうしたマンガの豊かさがよく表れていました。一部の映画ファンのように、作品の良し悪しをめぐって差異化競争をするような古いタイプのオタクはほとんどいません。


 そもそもメジャーの娯楽コンテンツは、さまざまなひとに受け止められるものです。当初は子供の読み物だとバカにされながらも、マスに向き合うことで、マンガというものはどんどん成長してきました。そのことを明確に示した映画『バクマン。』は、マンガや映画だけでなく、なにかに誰かに伝えたり届けたりする仕事をしている人たちにとって、特に強く響く作品でしょう。(松谷創一郎/構成=松田広宣)