トップへ

異端の日本映画『GONIN サーガ』が描く美学ーー根津甚八を蘇らせた石井隆の作家性とは

2015年10月05日 12:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015『GONIN サーガ』製作委員会

 閃光と雷鳴、土砂降りの雨。斜めに歪んだ字体。紛れもない石井隆監督作の刻印を残しながら、犯罪アクション映画『GONIN サーガ』は、さらにギラついた熱気と尋常でない緊張感を加え、見る者を圧倒する。あの『GONIN』の正統的な続編であれば、それも当然だろう。今も語り継がれ根強い人気がある『GONIN』。19年前に突如出現した、この異端の日本映画は一体何だったのか。そして、その後の物語をつなぐ狂気の新作、『GONIN サーガ』は何を描いているのだろうか。出来る限りその正体に迫っていきたい。


参考:大人の悲哀ヒーロー映画『アントマン』が描く、小さな世界の壮大な人間ドラマ


■『GONIN』とは何だったのか


 1995年、バブル崩壊後の新宿が『GONIN』の舞台だ。バブルの象徴であるディスコクラブの経営不振や、会社のリストラなど、不況の時代を象徴するように、金に困った五人の男達が集まり、暴力団・大越組の事務所を襲撃し大金を奪う。五人の男を演じたのが、佐藤浩市と本木雅弘、そこに石井隆監督作の常連である根津甚八、竹中直人、椎名桔平が加わる豪華俳優陣だ。大越組を取りまとめる五誠会は、金を盗んだ五人組とその家族に死の報復をするべくヒットマンを雇う。大きなバイク事故から復帰したばかりのビートたけしが演じる、この異常なヒットマンが現れると、フラメンコのカスタネットの独奏が流れ、死の舞踏が始まる。ヒットマンに追い詰められて、仲間や家族を殺されていく男達。物語は、狂った血みどろの復讐合戦に突入していく。


 ここで描かれる容赦ない暴力や、即物的といえる呆気ない死の演出、また同時に感傷的なファンタジーであるようにも見える、相反する美学的表現が、『GONIN』、そして『GONIN サーガ』の脚本と演出を務めた、石井隆監督の個性だ。死や暴力に接近すればするほど、血が流れれば流れるほど、むせ返るような色気が漂ってくるという、アブノーマルな作品世界である。出演者はそれぞれ、この絶えず狂気と隣り合うような役を、鬼気迫る表情で、生き生きと演じているように見える。襲撃のシーンでは、組事務所の長テーブルの上を走り必要のないスライディングするという、過剰なアクションが展開する。


 石井隆は、70年代の劇画ブームのなかで、劇画作家として成年向け雑誌に作品を発表していた。その細密な画風と表現力、叙情的演出は、まさに映画的な画面を誌面に表現しており、映像作品を手がけたいという強い欲望を感じさせる。連載作品「天使のはらわた」は、日活ロマンポルノとして映画化され、自身もロマンポルノ作品の脚本を手がけ、やがて念願であった映画監督として、映像作品の演出に乗り出すことになる。劇画作品同様、映画監督としても、エロティックな題材で男女の愛憎を描き、とくに『死んでもいい』や『ヌードの夜』は、独特の美学と才気みなぎった傑作であり、評価も高い。彼の才能を育てたのは、劇画とロマンポルノという、当時の日本で最も刺激的で先鋭的なフィールドであった。


 監督作の多くに出演し、盟友ともいえる俳優・竹中直人は、主演した『ヌードの夜』撮影中、石井監督に、ニューヨークでクエンティン・タランティーノという監督の『レザボア・ドッグス』という、男だけのドラマを描いた映画を観た話をしたという。そういう映画を撮ってみたらどうかという彼の提案によって、『レザボア・ドッグス』を観ないうちに監督によって書かれた『GONIN』の、男の色気と暴力に満ちたシナリオは、なんと松竹が配給し、メジャー作品として制作されることが決まったのだ。


 『GONIN』の最も驚くべき点は、豪華なキャストが集められ、監督にとっても初めての大きな作品であったにも関わらず、そのような一般的には理解しづらいアブノーマルな作家性を、そのまま最大限発揮し、狂気に満ちた暴力表現を前面に押し出すことができたというところである。広い観客に向けて穏当な表現に甘んじることをせず、また安易に「売れる」ような要素を散りばめなかったことが、『GONIN』の存在価値を高めている。いまでも『GONIN』が一部で人気を集め、高く評価されているのは、これがある意味で、唯一無二といえる奇形的作品であるからだろう。


 バブル崩壊とともに映画会社の意気も消沈し、意欲的な企画が減少していく状況のなかで、邦画の作り手達は、映画を商品として成り立たせつつ、その枠の中で自分の味を少しでも出せればいいという考えにシフトしていき、スケールの大きな大監督のような存在は消えていった。石井隆監督自身も、この作品の後の企画では、その現実の中で多くの監督と同じように商業性とのバランスを取ってきた部分がある。そのような状況下で、石井監督は『GONIN』の続編を何度も企画していたという。本作『GONIN サーガ』は、19年後、やっとその執念を実らせた苦心の作なのである。そしてそれは、驚くべき映画となった。


■『GONIN サーガ』が描いたものとは


 五人のうちの生き残りが、家族や仲間を殺された仇を討つため、暴力団とヒットマンに復讐するべく、再び組事務所を襲撃するという、前作の回想シーンから『GONIN サーガ』は始まる。『GONIN』では、根津甚八が演じた、落ちぶれた元刑事・氷頭(ひず)が、大越組の組長を射殺することに成功するものの、その戦いの中で絶命したはずだった。しかし本作で、氷頭は植物状態で19年間生き続けていた事実が発覚する。そして新たな戦いとともに、彼は病院のベッドで目を覚ます。『GONIN サーガ』は、この氷頭という登場人物を利用して、19年前に止まってしまった『GONIN』の時間に立ち戻り、もう一度その時間を進ませるのである。


 そしてここでも、前作と同じように、ちあきなおみ「紅い花」が流れる。『GONIN』の劇中で氷頭が言っていたように、「日本人的な情け」を象徴する感傷的な曲だ。当時としても意外な選曲だっただけに、いま劇場で聴くと、より凄まじい異化効果を発揮し、観る者の時間の感覚を二重に狂わせる。そして、その歌詞は、過ぎ去った19年前のことを表しているようにも感じ、より深い感慨を呼び起こす。前作の氷頭は、組員から二発、ヒットマンから五発の銃弾を浴びていたのである。生存はあり得ない。しかし、このあり得なさというのは、『GONIN サーガ』の世界では「あり得る」ということなのだろう。つまり本作は、『GONIN』をもう一度蘇らせたいという強い願望そのものであり、「紅い花」が象徴するロマンティシズムそのものであるはずだ。


 主演の、桐谷健太と東出昌大が演じるのは、前作で氷頭達によって壊滅した大越組の、組長と若頭の息子達だ。彼らは、抗争のとばっちりを受けて殉職していた警察官の息子(柄本佑)と、元アイドルで五誠会に囲われているやさぐれた情婦(土屋アンナ)の誘いに乗って、五誠会の隠し資金を奪う計画を立てる。彼らの襲撃シーンは、前作の襲撃シーンに、意識して類似した描き方がされている。まさに『GONIN』をなぞるように、『GONIN』を再びやり直すように、この異常なシナリオは進んでいく。そして、彼らはまたもやヒットマンに命を狙われる。本作では、打って変わって前作の五人組の一人であった竹中直人が、ビートたけしの役どころであったヒットマンを演じている。


 バブルの崩壊後、不況がより進んだ日本の経済問題は、より深刻化している。裕福な人々が楽しく踊るディスコの床下で糞尿にまみれながらダンスパーティーが終わるのを待つ、親の因果を背負った子供達の姿は、階層化した日本の社会を反映しているのかもしれない。自分達や家族を虫けらのように扱った五誠会を叩き潰すために、彼らはもう一度結束し、襲撃を計画する。そこに参加するのが、別人かと見紛うほど面変わりした根津甚八が演じる氷頭である。妻子を殺された五誠会への仇は、まだ決着していなかったのだ。氷頭に父親を殺されたはずの、桐谷健太が演じる大越組・組長の息子は、歩けなくなってもなお戦おうとする氷頭の姿を見て、涙ながらに叫ぶ。「行くってか! あんたも一緒に行くってか!」


■根津甚八、壮絶な演技の裏には


 根津甚八は、闘病のため2010年から俳優業を引退していた。その間、以前と外見が変わったこともあり、復帰はあきらめていたという。だが今回、『GONIN』の続編を撮る石井監督の誘いに応じ、車椅子を使っての演技ということで、「一度だけの復帰」が実現した。根津は撮影終了後、「再び演じることの楽しさを思い出させてくれた」というメッセージを監督に送っている。


 石井監督作に多数出演している大竹しのぶは、主演した『死んでもいい』が本当に大事な作品であると言う。彼女のインタビューによると、石井監督の役者への演技指導は、具体的に「こうしてください」とは言わず、ヒントになるようなことばを、ボソッとつぶやくだけであったらしい。だから彼女は自分で考えて、「お客さんがどう思うか分からないけど、私にだけ分かる感情を演じた」、そしてそれが「楽しかった」 と言っている。


 もちろん映画は、心を写すことはできない。しかし、演技をする者の心のありようが何の効果も生み出さないわけがない。そして、そのように役者の自主性に任せるという姿勢は、その役者を信頼している証でもあるだろう。それは役者自身の能力が試される挑戦でもあるはずだ。根津甚八にとっては、そう演じることのできる演出をしてくれる唯一の監督だからこそ、再び石井監督の作品に出演する決意をしたのではないか。『GONIN サーガ』は、そのような作り手たちの感情や熱量が、スクリーン上に映っているように「感じる」のである。それを感じることができるというのは、役者が心を持って演じているのと同様に、それを見る者にも心があるからだろう。(小野寺系(k.onodera))