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ジャニーズとAKB48グループの比較から見える、男女アイドル「成熟」の違いとは?

2015年10月05日 12:51  リアルサウンド

リアルサウンド

太田省一『中居正広という生き方』(青弓社)

 今年8月にリアルサウンドに掲載された、『中居正広という生き方』の著者・太田省一氏のインタビューの中で、ひとつのキーワードになったのが「アイドルが続く」ということ、そしてそれに関連しての「成熟」だった(参考:SMAP・中居正広はなぜテレビ界で「前例のないアイドル」となったか? 話題の研究本著者が解説)。太田氏は「『アイドルが続く』ということには、好きになってくれるファンの側の成熟もあるんだろうと思います」と語り、思春期と切り離せないものだったアイドルについて、その条件を超えた存在としてSMAPを考察した。「成熟」という観点とジャニーズとの相性が良いのは、ジャニーズの場合、現役のジャニーズのメンバーたち自身がその立場を保持しながら年齢を重ねているため、アイドル自身と受け手両者の「成熟」について歩調を合わせて考えやすいためだ。


そしてまた、男性アイドルと女性アイドルが比較されるとき、とかく論点になりやすいのもこの、「成熟」についてである。すなわち、男性アイドルは歳を重ねて「アイドル」であることを維持するのに成功しつつあるが、女性アイドルはあくまで若年期に限定される、といった見立てによる議論だ。年齢にまつわるこのような見立ては、ごくおおまかに言うならばおそらくは正しい。実際に、「男性アイドル」は40代以降も「アイドルである」道を拓こうとしているし、「女性アイドル」にまだそうした道は確立されていない。一方で、その見立てをもとに議論を一般化するには、もう少しその前提条件を細かく見る必要がある。今回は、そのいくつかの前提について考えてみたい。


 こうした比較において「男性アイドル」というとき、それは多くの場合「≒ジャニーズ」になる。いうまでもなくドラマや映画、舞台、広告などあらゆるジャンルで巨大なブランドを確立している、それ自体芸能界全体にとって例外的な事務所がジャニーズであるし、ジャニーズのデビュー組になることは、そうした大事務所の中で確立された道程を、現実の未来としてイメージできるということでもある。アイドルにとっての「卒業」は、俳優などの芸能ジャンルに本格進出するための、ある種の決意表明のようなものでもある。しかしジャニーズのデビュー組についていえば、歌やダンスを中心としたジャンルとしての「アイドル」を、俳優等への本格進出と相容れないものにする必要がない。ジャニーズのデビュー組であることは、「芸能人」としてのある種の特異な選別を受けた身であることも意味する。ジャンルを問わずきわめて例外的なポジションにあるジャニーズを「男性アイドル」一般の事例とすることが、少なくとも「女性アイドル」との比較においてどの程度適切でどこに限界があるのかは省みられていい。とりわけ、仮にAKB48グループを女性アイドルの代表と考えるにせよ、「AKB48グループ以外」という選択肢が無数にある女性アイドルと、「ジャニーズ以外」の継続的な事例に乏しい男性アイドルとが比較されるならばなおさらだろう。


 ただし、そうした前提の上で、女性アイドルがそれ自体、上述した「成熟」以降のストーリーを描きにくいことは確かだ。それはアイドルが基本的に「過程」の存在であること、そしてその「過程」の段階こそが大きなコンテンツになっていることによる。特にAKB48に顕著なのは、基本的にはソロでそれぞれの道を見つけるためのステップとして位置づけられていた組織が、おそらくは当初の想定を超えて膨張し、ステップとしての場そのものが巨大コンテンツになったということだ。


 ステップとして位置づけられていたもの自体がコンテンツになるとはつまり、以下のようなことだ。通常であればステージに立つ人物は、歌やダンスなどのそれぞれのスキルをもって、プロフェッショナルとしてより少数に選別される。しかし、ここではその選別以前の集合状態そのものがエンターテインメントとして成り立っているということになる。結果、その集合状態特有のダイナミズムの面白さが強調され、その場で自身を活かすための自己プロデュース的な種々のスキルを発揮できるようにもなる。それは既存の意味での「スキル」によってあらかじめ選別されるようなあり方では測れなかったセンスをすくい上げる、もしくはそうしたセンスを育むために時間をかけることを許容する場ということでもあるはずだ。あるいはHKT48の指原莉乃のような存在は、そうした場からスタートしてこそ現在のような比類ないアイドルになり得たのかもしれない。


 とはいえ、組織としてそうした多人数を抱え、まだスキルや適性など方向性も未分化、発展途上の存在であればこそ、アイドルは個々のパーソナリティにこそ注目が集まりやすい。個々人が集団の中でどのように己を際立たせるかが、おのずと肝要になってくる。そうした個性発揮の場を多数用意するのがAKB48グループだが、そのAKBが組織全体で統一的にその群像劇を見せる場として用意しているのが、いわゆる選抜総選挙だろう。外面的には「1位」を決めて一直線に序列を見せるようなこのイベントは、実質的には各人が自身の布置を起点にして自己をファンに向けて位置づけるものでもある。もちろん、芸能である以上、平素から「選別」は人の目につかないところでいくらも行なわれ、その選別に堪えた者のみが人前に立つことになる。AKB48グループが行なっていることは、通常の選別であればふるいにかけられ「いなかった」ことにされる人までも含めて「芸能」の末端に自身を位置づける場を与えるものでもある。だからこそ、先述したような通常の「スキル」では測れなかった人々をフックアップする機会にもなるのだろう。


 ただしまた、人目につかないところで選別されることと、ある種のセレクションにファンが直接に関与し、それそのものが巨大コンテンツになることとは性質が明確に異なるし、そうした消費に対しての倫理的な是非も大きくなる。ファン自身がそうした性質に無頓着でいられないからこそ、そうしたコンテンツのあり方をどう考えるのかということが、ここ数年ほどのAKB48をめぐる議論の争点のひとつだったはずだ。特に近年、総選挙というイベントにファンやメンバーもしくは社会が慣れ、「応援するための回路」として定着したことで、「劇薬」としての問題性が見えづらくなる一方、その投票行動の意味がさまざまな水準で問われるようになった。今年の選抜総選挙にみえた、AKB48グループのメンバーたち自身のそれぞれのスタンスからもそれはうかがえる。「総選挙」が当たり前になっていることの意味は、それ固有のトピックとして継続的に問われるべきことなのだろう(参考:AKB48『選抜総選挙』は“変化の季節”を迎えた? 各メンバーの参加スタンスから考える)。


 とはいえ、冒頭の「成熟」の話に立ち戻るならば、限定的な基準であらかじめ少数選抜されず、自由度の高い場としてアイドルがあることは、若年の人々ばかりではなく、年数を重ねたメンバーが20代半ば以降に特有のポジションを持つこともまた許容する。たとえばジャニーズのデビュー組/ジャニーズJr.ほどその区分が明確でなく、年少者とベテランメンバーがゆるやかにつながっているため認識しにくいが、AKB48はアイドルグループとしては比較的に主要メンバーの年齢層が高く、また年長者の幅も広い。そうした広さがあるからこそ、たとえばいつでもグループを抜けられる、あるいはいつまでもグループにいられるような特異な存在として小嶋陽菜のようなメンバーも存在しやすくなる。もしくは小嶋のようなあり方はごく少数であるにせよ、SKE48の松村香織の台頭のような現象を見るとき、「過程である」ことを基盤にした余剰の広さは、女性アイドルの年齢層を知らず知らず上に押し上げうるひとつの可能性のように思える。それはジャニーズのような、ある種ストレートさをもった「順調」なキャリアアップの道筋とは大きく違う。しかし、まだジャニーズのような土壌を持たない、現在の環境を前提にせざるを得ないのであれば、彼女たちが描くような軌跡は女性アイドルと「成熟」との関わりにとってひとつの活路となるものかもしれない。(香月孝史)