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会社を辞める男とスズメになる女の巡り合いーー『バードピープル』が描く“映画的な奇跡”とは

2015年10月03日 14:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)Archipel 35 - France 2 Cinéma - Titre et Structure Production

 アナイス・ドゥムースティエがスズメになって空を駆け巡るシーンで、突然「Space Oddity」が流れる。1969年に発表された、デヴィッド・ボウイ初期の代表曲となるこの曲は、どういうわけか近年あらゆる映画で多用されている。一昨年日本でDVDスルーとなったキケ・マイーヨの『EVA<エヴァ>』(2011年)を皮切りに、同じ時期に劇場公開されたベルナルド・ベルトルッチの『孤独な天使たち』(2012年)ではイタリア語版である『Ragazzo Solo, Ragazza Sola』が使われ、ベン・スティラーの『LIFE!/ライフ』(2013年)、フルーツ・チャンの『ミッドナイト・アフター』(2014年)と続き、わずか3年間に日本に上陸した洋画の中で5本。しかもすべてが違う国で作られているのだから、ただの流行というわけではなさそうだ。


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 宇宙空間に投げ出された宇宙飛行士トム少佐が、地球への思いを馳せるこの歌は、明確に孤独を歌っているのだと、『ミッドナイト・アフター』の中で解説を繰り広げた登場人物が歌い出すシーンがあったことを思い出した。前述したイタリア語版の『Ragazzo Solo, Ragazza Sola』は舞台を街の中に移し、行き場のない少年少女が夜を彷徨う姿が歌われており、『孤独な天使たち』で二人の主人公がこれを聴きながら踊るシーンは、彼らの心情を映し出す重要なシーンとして、涙なしでは観られない名場面になっていた。この流れを鑑みると、必然的に『バードピープル』もまた、〝孤独〟な者たちを描いた映画であるとみて間違いない。


 パスカル・フェランは、常に予想の斜め上を行く。ジャン=ピエール・リモザンやアルノー・デプレシャンの作品で脚本を務めた彼女が、『死者とのちょっとした取引』での監督デビューから20年の間に創り上げた長編劇映画はわずかに4本。快作『a.b.c.の可能性』から『レディ・チャタレー』までは11年のブランクが開き、そこから本作までまた8年の時が流れた。フランソワ・オゾンやセドリック・クラピッシュと同じ、ヌーヴェルヴァーグ後のさらに後の世代に当たる彼女は、同世代の作家たちの中では目立った寡作家であり、『レディ・チャタレー』以後の8年間のフィルモグラフィーは見事に空白であった。


 現代社会の現実や、痛みや苦しみをファンタジーを通して描きたいと考えた彼女がテン年代で最初に手掛けた「バードピープル』は、突然会社を辞める男と突然スズメになる女を描き、そしてその二人が突然出会うという、あらゆる突発性が積み重ねられた、どこかしらヌーヴェルヴァーグの時代を思い出させる大胆不敵な映画である。ファンタジーでありながらも、現代社会の哀しい残酷さを密やかに物語り、フェランが理想としていた映画の形を具現化しているのではなかろうか。


 同じ電車に乗り合わせていても、それぞれが別々の思考と別々の世界を持ち、決して交わることのない他人の空間から映画は幕を開ける。その電車の中でひとり通勤時間を計算しているのがこの物語の主人公のひとり、オドレーであって、彼女はシャルル・ド・ゴール空港そばのホテルで客室係として働いている。一方で、アメリカから会議のためにやってきたゲイリーは、オドレーが働くホテルに滞在する。その何も起こらない、日常の風景がこの映画の「起」として描かれ、「承」に入るとゲイリーの物語が描かれる。ある夜ホテルで寝付けない彼は、突然会社を辞めることを決意する。次の会議のためのドバイ行きをキャンセルして、会社も辞め、家族とも決別することを考え、ホテルの滞在期間を延長するのである。


 そしていつも通り働くオドレーが、突然何かに導かれるように屋上に上がり、忽ちスズメへと姿を変えてホテルの周りを飛び回る「転」を経て、初めて主人公ふたりが邂逅する「結」へと、気持ちの良いくらい真っ直ぐに進行していく。


 主人公二人に共通した意識として存在するのが、自由になりたい=鳥になりたいという感情で、度々窓の外に映画の象徴たるスズメが現れるたびに彼らはそれを見つめるのである。しかしながら、この二人は正反対の人間で、劇中でもそれぞれが正反対の道程を辿るのである。


 タクシーの中でも運転手と会話をし、常に電話やメールなどで誰かと繋がっているゲイリーは、それらをすべて自らの意思で断絶した「絶対的孤独」を選ぶ。一方で、群衆の中のひとりでしかなく、父親との電話でさえも途切れ途切れになってしまうオドレーは、スズメになることで人と関わろうとするが、コミュニケーションを取ること自体が不可能であり、「相対的孤独」に陥るのである。たとえこの二つの孤独が重なり合っても、それはマイナス×マイナス=プラスになることはなく、マイナスのままである。


 それゆえ、正反対の方向へ進んでいく二人が出会い、名前を教え合って握手を交わすラストシーンは、映画における典型的なボーイ・ミーツ・ガールのようで、そうではない。おそらくこの二人はこの後決して再会することはないのである。物語の舞台であるホテルと、空港、そしてオドレーの立場である大学生のバイトというあらゆるテンポラリーが重なり合って紡ぎ出された物語は、いかにも映画的な幸福な偶然であり、たとえ画面から消えた後でも繰り返されることはない、奇跡でしかないのだ。奇跡は一度しか起こらない、というのは、何もイヴ・アレグレのボーイ・ミーツ・ガール映画のタイトルばかりでなく、映画にも現実にも共通していること事実であって、だからこそ、彼らがめぐり逢うラストシーンは、喜びと同時に哀しさをも兼ねて見える。


 日本ではジャン=リュック・ゴダールの3D映画によって始まった2015年。1月にアルノー・デプレシャン、春にはジャック・ドワイヨン、夏にはフランソワ・オゾンと、立て続けに公開し、来月にはオリヴィエ・アサイヤスの新作まで控えている。今年はフランス映画ファンにとっては忘れられない1年になるであろう。(久保田和馬)