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宮台真司『ドローン・オブ・ウォー』評:テクノロジー使用がもたらす人倫破壊に対する、強力なる人倫の擁護

2015年10月01日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

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■言語による錯覚が非人道性の根源


 前編では、ヒトが言葉(正確には概念言語)を使うようになったせいで、ミソもクソも一緒にできるので、例えば全てを敵のせいにしたりできるようになって、「互いのメンツが立つ手打ち」で収めることをせず、ジョノサイド(全面殺戮)を伴う戦争をするようになったのだ、という話をいたしました。そうした観点から見れば、クリント・イーストウッドの硫黄島二部作、『父親たちの星条旗』(2006年)と『硫黄島からの手紙』(同年)の素晴らしさが際立つように思います。(前編:宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの


 この二部作は必ず両方を見なければなりません。そうすれば、アメリカの兵隊にも、日本の兵隊にも、同型のリアリティ──例えば「敵味方図式」──があり、どちらにも完全な共感可能性をもたらす映画を作れるという当たり前のことが、今さらながら分かります。実際、イーストウッドの基本的構えは「近いものしか信じない」。だから「国家のため」という“言葉”を信じません。むろんここでいう国家とは、20世紀に人口が膨れあがった、「顔が見える範囲を大幅に超えた」国民国家のことです。


 僕たちが概念言語を手にしたのは四万年余り前。概念言語を使うようになるまで、ヒトは、近しきもののためにしか戦えませんでした。ところが概念言語を手にした結果、顔が見えない広大な範囲の人々を、「国民はみんな仲間だから守らなきゃいけない」という具合に動員できるようになりました。ちなみにイーストウッドは保守ではなく右翼。「社会の複雑性は理性を超える」という主知主義ではなく、「言葉には騙されないぞ、近接性に由来する情念以外は信じないぞ」という主意主義です。だから「国家のため」を絶対に信じません。


 この二部作は一見すると戦争映画ですが、国家規模の「敵味方図式」を用いた動員はデタラメで、「国家の英雄」などという発想も所詮は妄想に過ぎないと、切って捨てます。イーストウッドは、「故郷で待つ家族を守るためにこそ戦う」という発想も、結局は国家による非自明的な刷り込みで、デタラメだとします。彼によれば、戦場で働く持続可能な強い動機づけは、近接的な──つまり近くにいる──仲間たちを守る、仲間たちを見捨てないぞ、というものだけだ、と断言します。


■技術による近接性破壊と非人道性


 それを念頭に、アンドリュー・ニコル監督の『ドローン・オブ・ウォー』(10月1日公開)を論じます。実は同監督『ガタカ』(1997年)僕にとって生涯ベスト1と言える作品で、十回以上は観ています。『ドローン・オブ・ウォー』で使われる諸モチーフは100%『ガタカ』と同じです。先に言っておくと、ベスト1の『ガタカ』を100点とすると、『ドローン・オブ・ウォー』は60点ほどでしょうか。とはいえ、『ガタカ』で描かれた重要なモチーフを改めて痛切に思い出すことができます。


 それは何か。冒頭で取り上げたイーストウッド監督の「概念言語がもたらす錯覚こそ、非人道性の根源」という構えとシンクロします。ニコル監督は『ガタカ』と『ドローン・オブ・ウォー』など複数の作品を通じて「テクノロジーによる近接性の破壊こそ、非人道性の根源」という構えを反復します。『ガタカ』が描くのは、遺伝子認証システムが反人道的に機能する近未来で、そこでは生まれながらにして全方面で優れた“適格者”と欠陥のある“非適格者”が遺伝子解析を通じて仕分けられ、公然と社会的差別が行われます。


 そんな社会で、劣等な遺伝子を持つ主人公が、極めて優等な遺伝子を持つ別人になりすまし、クソな地球を逃れて宇宙に出ようとします。主人公を『ドローン・オブ・ウォー』と同じイーサン・ホークが演じ、完全無欠の遺伝子を持つ男をジュード・ロウが演じるという配役の妙。最後の最後、宇宙ロケット搭乗のセキュリティーゲイトで、係官が主人公の偽装に気づきながらも見逃します。係官はさり気なく主人公の本名を呼んで送り出すのですが、これが日本語字幕ではフォローされておらず、字幕作成者の能力を疑わせます。


■不完全な社会で技術が果たす機能


 『ドローン・オブ・ウォー』も同じモチーフです。実話に基づく本作では、イーサン・ホーク演じるF16戦闘機の英雄的なパイロットが、優秀さゆえにドローンによる遠隔操縦攻撃エリートとして、ドローンを操縦させられます。戦地から遠く離れたラスベガス近くの砂漠のハイテク機器が装備されたトレーラーハウスからの攻撃。ゲーセンのシューティングゲームで心が痛まないのに似て、テクノロジーが僕らから共感可能性を奪います。概念言語が共感可能性を奪うのに似ます。共感可能性が奪われると戦争は暴走します。


 やがて主人公のパイロットは遠隔操縦攻撃を「卑怯」だと思い始めます。「自分が決して脅かされない場所から、相手に致命的打撃を与える攻撃を計画・組織・実行するのは、絶対に間違っている」と。国民国家規模の敵味方図式が、概念言語が可能にした新たな事態であるように、自らが絶対に脅かされない場所からのゲーセン的な攻撃も、テクノロジーが可能にした新たな事態。これらの新たな事態ゆえに、不完全な社会を生きる僕たちは、概念言語とテクノロジーが開く数多の可能性から最も悪いものを選びがちなのです。


 テクノロジーそれ自体が良いか悪いかを話しているのではない。それは横に置いて、不完全な社会で不完全な人間たちが用いるテクノロジーが果たす機能が、畢竟、反人倫的なものになりがちなのだという話をしているのです。そう。もはやお気づきのように、不完全な社会で不完全な人間たちが用いるテクノロジーによって引き起こされるデタラメな人倫破壊に対して、人倫を擁護する強力なスタンスを示す点において、『ドローン・オブ・ウォー』は『ガタカ』と瓜二つなのですね。


 両方の映画は、女性が「導きの糸」を与えてくれるというロマンを描く点も共通します。通念に媚びた娯楽性として機能する面もあるけど、ニコル監督が持つジェンダー観が背景にあるでしょう。つまり、概念言語を頼ったりテクノロジーを頼ったりすることで反人倫的なことが起こっているという事態への違和感を、男よりも女の方が敏感に感じているはずだという了解です。概念言語(象徴的なもの)ならぬ、言語以前的情動(想像的なもの)への敏感さ。確かさならぬ、エロスへの敏感さ。


■言語の考察を経た言語以前の考察


 原田監督『日本のいちばん長い日』とニコル監督『ドローン・オブ・ウォー』という一見似つかない映画に共通して、概念言語と言語以前的情動──象徴界と想像界──の対比が見られました。先に述べたけど、維新以降の日本思想は、絶対神に吊り下げられたロゴスを信頼する垂直的欧米に対し、絶対神の不在ゆえに相互の情動的戯れを重視する水平的日本を賞揚してきました。ところが今、『いちばん長い日』と同じく『ドローン・オブ・ウォー』も、と申し上げた通り、欧米の哲学や思想も言語以前的情動に強い関心を寄せます。


 背後要因が二つあります。第一は、グローバル化がもたらす中間層分解(格差化)が、感情の劣化による民主政治の危機を深刻化させていること。第二は、計算機科学の発展が[計算→言語処理→感情処理]という具合に手順化し易いものからし難いものへとシフトした結果、最後の難関として感情処理が浮上していること。感情処理は、計算や言語処理と違って、「ヒトの感情が現にどう働いているのか」を或る時代・或る地域において観察しなければならず、それには膨大なビッグデータ処理が必要ですが、それが可能になったのです。


 維新以降の日本思想は、いったん欧米的なロゴス(概念言語)中心主義を経由した視線で、情動中心主義的な日本を観察しました。昨今の欧米思想も、いったん欧米的なロゴス中心主義を経由した視線で、言語以前的情動を観察するようになっています。その意味で、アメリカで映画を長期間学んだ経験がある原田眞人監督は、いわばアメリカを経由した視線で日本を観察しておられるので、日本社会の言語ゲームに属する内的視座とは別に、外的視座を同時に駆使できるアドバンテージがあるように思います。


 その意味で、日本という場所は言語以前的情動を観察するのに好都合です。今年7月に亡くなった哲学者・鶴見俊輔氏は、16歳でハーバード大学に飛び級入学、死ぬほど勉強して捕虜収容所で卒論を書き、19歳で卒業します。彼は開戦に際し米当局から身の振り方を問われ、「当然、日本に帰る」と答えます。思えば『硫黄島からの手紙』の主人公・栗林忠道中将も留学組。共に留学して日本を外から観察、そこで行われる言語ゲームの馬鹿馬鹿しさと愛らしさを心に刻んだ。だからこそ敢えてアメリカでなく日本のために戦おうとした。


 日本を擁護したいなら徹底的に欧米を理解してからにせよと鼓舞したのは岡倉天心。こういう戦略を「攘夷のための開国」と言います。栗林中将も鶴見俊輔氏も原田眞人監督も欧米近代を我が物とした地点から日本を擁護します。その意味で欧米を徹底理解してから日本を擁護せよという天心の規準を、3氏はクリアしています。欧米近代を我が物としつつ日本を擁護する。迷いがないはずがあり得ない。鶴見氏の言い方だと「ここで帰国して日本のために戦わないのは許されぬ」という倫理観なくしては、日本の擁護はあり得ません。


■倫理を描く映画が続々と作られる


 原田監督にも同じ倫理観を感じます。『狗神』でも、「狗神が見える」という人を、「いないに決まっているぜ」と未開人扱いするのでなく、評価を保留します。同じ視線が宮城反逆事件についても注がれます。若手将校たちを暴発的キチガイだと描くのでなく、単純にそう受け取れない演出になっています。ただし、若き将校畑中健二を演じた松坂桃李が「役柄に共感できなかった」と話すように、僕が教えている院生たちの多くも「キチガイにしか見えなかった」と言います。観客の多くもそうかも知れない。


 これは、原田眞人監督の問題と言うよりも、観客の資質の問題でしょう。戦争を描いた映画ではないものの、同じく観客の資質を問いたくなるのが、押井守ファンの間ではスキャンダラスな作品となった『東京無国籍少女』(7月25日公開)です。女子美術高校に通う天才少女が、才能ゆえに陰湿ないじめを受け、現実から隔離された閉ざされた世界でまどろんでいるのですが、これまでの押井作品から明確な転向が見られます。すなわち、そうした繭の中でのまどろみが徹底的に否定されるのです。


 押井は監督・脚本を務めた『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)から一貫して、「現実はクソである以上、夢であろうが仮想現実であろうが、繭の中に閉じ込められて生きていくほうがずっと良い」ということを描き続けてきました。ところが、『スカイクロラ』(2008年)でバーチャルな繭は地獄だと示しつつ脱出路を示さないままだったのが、『東京無国籍少女』ではついに「私は兵だ」という認識こそが繭という地獄からの脱出路になることが示されます。まどろみが否定される理由は、倫理です。


 「まどろむお前はいいが、それで人が救えるのか」という倫理です。日本だけでなく、この数年こうした倫理を前面に押し出す作品が目立ちます。典型がアリ・フォルマン監督の『コングレス/未来学会議』(6月20日公開)。スタニフワフ・レムの原作では夢と現実という区別が消えた未来が描かれていますが、映画では敢えて「それでも現実はある」と踏み留まります。一見保守的に見えますが、かつて戦地での大虐殺に関わりながら記憶を喪失した監督自身をえぐった『戦場でワルツを』の延長上に展開するラディカリズムです。


■メタファーをスルーする観客たち


 2001年9月11日以降の国際情勢を背景にしたものでしょうが、今回は踏み込まないでおきます。「まどろむお前はいいが、それで人が救えるのか」という倫理は、『コングレス』よりも説明不足なものの『東京無国籍少女』にも描かれます。押井監督は本作について全てが解釈可能なメタファーとして作られていると公言しています。なのにメタファーの解読に踏み込んだレビューは僕がウェブで公開している批評(参考:押井守監督『東京無国籍少女』について書きました)を除けばありません。押井監督も手応えがないでしょう。


 説明不足と言いましたが、『東京無国籍少女』は押井監督らしく「わかりやすく作ろう」というモチベーションが皆無ですが(笑)、それでも観た後に納得が訪れます。「平和ボケはもうイヤだ」「夢の繭にまどろむのはやめたい」「オレたちは兵だ」と。当然、安倍晋三の「戦後レジームの脱却」とどこが違うんだということになります。それに対する回答は一見すると映画の中にはありません。本来はそれを観客が考え、観終わった後にディスカッションすべきです。でも99.9%の人はこの映画が戦後批判であることを読解できていません。


 そうしたディスカッションの素材になるような検討を、やはりウェブで公開した批評(参考:押井守監督『東京無国籍少女』について書きました(後編))で行なっているので、参考にして下さい。僕が10年以上前から言っているように、映画上映の前にプレトークをきちんと行い、観客を育てないといけないな、と改めて思いました。そうしないと、せっかくメッセージが満載の映画を作った映画監督がかわいそうです。興行に関係する方々に真剣に考えていただきたいと思っています。(取材=神谷弘一)