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大人の悲哀ヒーロー映画『アントマン』が描く、小さな世界の壮大な人間ドラマ

2015年09月30日 07:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)Marvel 2015

 体をミクロサイズに縮小し、アリの群れをコントロールする、ちょっとかわいいヒーロー、アントマン。アメコミヒーローの中でも異彩を放つ存在だ。スパイダーマンやアイアンマン、超人ハルクなど、同じマーベル・コミック原作の派手なヒーロー達の中ではマイナーに感じられるが、今回実写映画化された『アントマン』は、むしろ、そんなアメコミヒーロー映画に馴染みがなく敬遠するような観客でも、とっつきやすく楽しめる、間口の広い作品に仕上がっている。また本作は、アメコミヒーローを扱ったコメディー調の作品でありながら、大人が共感できるような、人間の生き方を描いた、じんわりと深みのある映画にもなっているのだ。そんな新感覚のヒ-ロー作品『アントマン』について、魅力を探っていきたい。


参考:マーベル・シネマティック・ユニバースにおける『アントマン』の新しさとは?


■大人の視線でヒーローを描く


 ヒーローが活躍するアメコミを実写化したハリウッド大作は近年ブームを迎え、その存在は日本でもかなり広く浸透してきていると思われる。だが、その波になんとなく乗れないという大人の観客も多くいるはずだ。かっこ良いのかダサいのか、よく分からないコスチュームのキャラクター達が、人間離れしたアクションを展開したり、正義について深刻に思い悩む姿を、真剣に鑑賞するのには抵抗があるという声も聞く。


 『アントマン』が、それらアメコミ映画が持つ、広い観客に向けての弱点を乗り越えていると思えるのは、この作品がヒーローのかっこよさを正面から賛美するようなものになっていないという点だ。むしろ、アメコミヒーローの滑稽さを客観的に笑えるように、コメディーとしての側面を強調するつくりになっている。


 アントマン目線では、必死に戦闘を繰り広げているのに、一歩引いて人間サイズの視点で眺めると、ただ積み木が転がるような小さな出来事でしかないというシーンは、まさにヒーローごっこに夢中な子供と、それを眺めている大人、それぞれにおける世界の見え方を象徴している。つまり『アントマン』は、アメコミ映画自体を客観的に見つめる批評性を獲得しているのだ。このような冷めた視線があるからこそ、コミック・ヒーローが活躍する映画に抵抗のある観客も、無理なく作品世界に没入することができるし、また、そんなヒーローが、ヒーローらしくかっこよくアクションを決めたときには、余計にかっこよく見えるということにもなる。


 そして、そのようなコメディー的な感覚というのは、「アントマン」という原作が持つ、ミクロになってアリと一緒に戦うという、もともと持っていたユーモラスな特性が可能にした表現ともいえるだろう。


■監督の交代による作品への影響


 マーベルコミックで、数々のヒーローを生み出してきた原作者スタン・リーが60年代に書いたエピソード、"The Man in the Ant Hill"(アリの巣の男)が、アントマンの原型だ。それは、物体を縮小する薬品を開発した男、ヘンリー・ピムが、自らの体を縮小させ、アリの巣に入って恐ろしい思いをするという体験を描いた物語だった。このキャラクターを、後にヒーローとしてシリーズ化させたのだ。


 70年代の終わりには、新しく二代目アントマン、スコット・ラングがコミックに登場した。彼は盗みを働き、道を踏み外してしまう電気技師であり、娘の病気を治すため、初代アントマンであるヘンリー・ピムからスーツを盗み出し、自身が縮小して活躍する。このことからピムはスコットを、新しいアントマンとして認めるのである。


 映画版『アントマン』は、これらエピソードを参考に、二代目であるスコット・ラングを主役として、初代アントマンであるピムによって、ヒーローへと育てられるという脚本になっている。この設定を考えたのは、『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』のエドガー・ライト監督と、共同で『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』の脚本も手がけた、ジョー・コーニッシュのコンビである。というのも、本作はもともとエドガー・ライトが監督するはずだったのである。だが、スタジオとの意見の相違から、長期間にわたって準備した『アントマン』から、彼は離脱することになる。


 彼の代わりに抜擢されたのが、ペイトン・リード監督だ。『チアーズ!』、『恋は邪魔者』、『イエスマン』など、恋愛コメディー映画を得意とする、職人的で堅実な作風で知られており、本作でも、アントマンとヒロインとの微妙な距離の変化を繊細に描くなど、その手腕を発揮している。ペイトン・リードは、エドガー・ライトのように、強烈なブラック・ユーモアや、どんどん悪ノリをエスカレートさせていく監督ではない。激烈に面白いギャグを連打するようなことはせず、あくまで物語の展開に沿った、無理のないユーモアで観客を楽しませようとする。会話劇を中心とする彼の演出には地味な印象があるが、人間の心理描写にかけては、エドガー・ライト監督を上回るといっていいだろう。


 一見、ヒーロー映画とは縁が薄そうなペイトン・リード監督が抜擢された理由のひとつは、彼が過去にマーベル・コミックを原作とする『ファンタスティック・フォー』の実写企画を降板した経験があるからであろう。ペイトン・リードは、エドガー・ライトの残した脚本など、その多くを本作に活かしていると語っている。監督の交代が決定してからの制作期間の短さなどの理由も、もちろん大きいはずだが、ここではそれよりも、リード自身が愛情を注いだ準備が無駄になってしまったという過去の経験が、ライトの仕事を引き継ぐ姿勢に表れているように感じられる。


■アメリカの喪失と人間ドラマの深み


 『アントマン』の主人公、スコット・ラングは、窃盗の前科により、妻と別れ、娘の養育権を失い、再就職にも失敗する。そして、娘の誕生パーティーに出席しようとして元妻の新しい夫に追い返されるという、どん底の境遇に陥る。彼は、娘の養育費を払い信用を取り戻すために、また犯罪に手を染めてしまう。この描写からは、経済力の有無や社会的影響力が重視されるアメリカ社会や、犯罪者の烙印を押された市民が浮かび上がりにくい現実の過酷さを感じさせられ、娘の病気を理由にしていた原作の設定よりも、より身につまされるものになっているといえるだろう。


 ペイトン・リード監督の映画は、どれも、小市民が幸せになるために、自分の生き方を模索していくという作品になっている。なかでも、ジェニファー・アニストン主演の、倦怠カップルのケンカを描いた恋愛映画『ハニーVS.ダーリン 2年目の駆け引き』は、リード監督作の中で、最も人間の心理の過酷さに踏み入る作品である。真の意味での愛情とはなにか、そして、他人のために自分を変化させることを、ギャグを交えながらも深刻に描き、その過酷な喪失感は、観客の心を締め付ける。アメコミ映画のなかに、ジャンル的な価値を超えて、例えば深い文学性を獲得する作品があるように、恋愛映画にも、そのような深みのある作品がある。ペイトン・リードは職人的でありながら、そのような部分に挑戦している作家ともいえる。


 アメリカの作家、F・スコット・フィッツジェラルドは、好景気に沸く社会の狂騒の時代を小説で描いた。これが彼の代表作であり、アメリカ文学を代表する小説ともいわれる、「グレート・ギャツビー」だ。それは、若者として第一次大戦という時代を生きることによって、得るはずだった幸せを逃した空っぽの男が、奪われた青春を取り戻そうともがく物語である。このような世代の喪失感を描いた文学は、「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」と呼ばれた。そのフィッツジェラルドによる短編、「バビロン再訪」は、それより三十数年後に書かれた作品である。狂騒の時代に、かつて放蕩の限りを尽くし、自分の行動によって妻を失くし、また娘の養育権を失った男が、大恐慌後のパリで、親戚に育てられている娘と会い、信頼と養育権を取り戻そうとする。もう若くない主人公は、「娘と一緒に暮らすこと以外には、たいして良いことはない」と考える。あれこれと未来を夢見る余裕はなく、ただ娘だけが彼の希望なのだ。その姿は、自分の失われた青春の穴埋めをしようとする「グレート・ギャツビー」の喪失とも、『アントマン』の主人公、スコット・ラングの喪失とも重なっていくだろう。そして現代を描く『アントマン』のそれは、貧富の格差によって生じる、アメリカ社会が持つ喪失感そのものでもあろう。


 愛情をこめてスコットが「ピーナッツちゃん」と呼ぶ娘は、「バビロン再訪」同様に、全てを失くした彼にとっての、ただひとつの心の拠り所である。そして、ここで描かれる娘とは、人間の追い求める幸せの象徴であり、人間の生きる意味そのものなのだ。だからこそ、アントマンになったスコットは、娘のために命を捨てて、超ミクロの「量子の世界」に飛び込んでいく。


 この量子の世界を描くというアイディアは、エドガー・ライトの脚本に、ペイトン・リードが新たに追加したものであるという。ミクロのサイズになることができるアントマンが、際限なく縮小を続けていくと、その小さな世界の先には、宇宙のような広大な世界が広がっている。世界を救うヒーローでありながら、みじめな男の心理を描く小さな物語は、壮大な宇宙の秘密という、これまでの、どのマーベル・コミック原作映画も描かなかった、巨大なスケールにまで行き着く。


 そして、その孤独な宇宙で彼の心にあるのは、ただ娘への愛情のみなのである。これはまた、人間の心のような小さな世界を描くことには、無限の宇宙を描くことと同じくらい壮大なものだという、これまで人間個人の小さな葛藤を描くことに挑戦してきた、ペイトン・リード監督の信念を表現しているようにも見えるのだ。(小野寺系(k.onodera))