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菊地成孔が『ロマンス』に見た、エンタメと作家性の狭間ーー意外なエンディングが示すものとは?

2015年09月29日 19:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015 東映ビデオ

■連載タイトルに関して


 この連載は“アルファヴェットを使わない国々の映画批評”ということで、邦画から『ロマンス』(8月29日公開/タナダユキ監督)をさっき観てきました。


第1回(前編)はこちら:菊地成孔が読み解く、カンヌ監督賞受賞作『黒衣の刺客』の“アンチポップ”な魅力


 と、いきなり物凄—く長い余談なのですが、先日、読者の方から「アルフェ<ヴェ>ット」ではなく「アルファ<ベ>ット」では?という投書があったそうで、最近はどのメディアもこうしたお声に敏感なので、ワタシに無断で「アルファベット」と改訂したのですが、ワタシのリクエストにより、約10時間後に「アルファヴェット」に戻させて頂きました。


 言うまでもありませんが、読者の方のご指摘のが正しい訳ですし、また、ワタシは実質上ほぼ中卒に等しい学歴ですが、さすがにalphabetのスペルは知っております。しかしながら連載タイトルは「アルフェヴェットを使わない国々の」に戻させて戴きます。本当は「アルファヴェート」ぐらいにしたいのです。「プライヴェート」と似てるし、ゴダールの「アルファヴィル」という映画が好きなので。


 と、ワタシはこの件を独自に「BとVだけかよ問題(以下「BVD問題」)」と呼んでおりまして、詳しくは拙著「時事ネタ嫌い(文庫版)」のP214にある「結構良いですよ。メガネ外して観れば」というエッセイをお読み頂けると有り難いのですが、これは読者の皆様の記憶にも新しいであろう、ジャームス・キャメロンの「AVATOR」を、配給会社が「アヴァター」ではなく「アバター」として公開した件をとっかかりに「カタカナ表記のVとBにだけ神経質になる人々は生真面目でであり、悪人ではないが、考えの足りない人々である」という筆者の考えを述べております。


 この「BVD問題」は歴史的に根深く、古来の我が国にはVとBに関して、カタカナ表記の使い分けがありませんでした。全部「バビブベボ」、つまり「は行」だけだった訳です。


 「フェスティヴァル」は「フェスティバル」、「ヴァイブレーション」は「バイブレーション」、「ヴォイス」は「ボイス」、「ムーヴィー」は「ムービー」、「ヴァレンタインデー」は「バレンタインデー」「ライヴ」は「ライブ」、「ヴォーカル」は「ボーカル」「ヴォランティア」は「ボランティア」「ヴァラエティ」は「バラエティ」といった具合で、現在でも、一種の名残のようにして使用されています。


 ところが、90年代当たりから「ヴ」という表記が一般化し(やや厳密に言うと「小っ恥ずかしくなくなり」)、「Bはブ、Vはヴ」という表記が「正しい表記」となりました。


 ここに、「Vをブとするのは昔の名残だからまあ許すけれども、Bを「ヴ」とするのは絶対にまかりならん」という、一種の、限定的な厳格主義者達が誕生します。


 彼等は「ベッド」を「ヴェッド」、「ラベル」を「ラヴェル」、「バイブル」を「ヴァイブル」、「ロボット」を「ロヴォット」等とする誤記に対しては羞恥的だと嘲笑し、怒り、訂正します。


 彼等は勿論正しいです。しかし、あくまでワタシの個人的な考えでは、彼等の方が数段恥ずかしく、みみっちいし、ぎりぎりでバカなのでは?とさえ思っております。


 何故なら、英語のカタカナ表記で問題にすべきはBとVだけである筈が無く、LとR、THとS等々、、、、というより、そもそも外国語をカタカナで書いている段階で(英語以外でも)、それは実写がアニメーションになっているのと同じようなもので、BとVだけ目くじらを立てるのは、おおらかな巨視観や、根本的で徹底的な思考をしないまま、単に制定25年目ほどの現行法に関して恥ずかしさに敏感になっているだけのせせこましい行為だからです。


 極論的に、ですが、「外国語のカタカナ表記」は、発音記号ごりごりの厳格にやるか、好きなようにこっちのセンスでいじくりまわしてしまうか(中国語はそれの極点的言語でしょう)二者択一しかなく、ワタシは後者の立場です。


 「アルファヴェット」に敏感になる人は一生「パソコン」と言ってはなりません。何故なら「パースナゥ・カンピューラ」が近似値的に最適格なので「パスカン」というべきだし、「ツィッター」という名称の撲滅運動に出ないといけない。あれは「トウィター」です。


 「トンネル工事」は「タノウ工事」、黒人のジャズミュージシャンの多くは「POP」を「パ」と発音します(「ユープレイパッ?マダファカ」と言われた事があるので「パ?ワティズパ?」と聞いたら「パッ・イズ・パッ!ノーウェイ!!」と言われました)。「フジロックフェスティバル」にはVとBだけでなく、RとLも誤用されており、正しくは「フゥジィ・ゥロック・フェスティヴァウ」である筈です。「バレンタインデー」なんて単語は、世界中で日本のカタカナ表記にしかない(それは、ワタシにとっては素晴らしく豊かな事です)。ぎりぎりまで追いつめても「ヴァレンタインズ・デイ」まででしょう。このイズムの終着駅が「英語は英語でしか表記しない」という、逆の厳格主義であることは言うまでもありません。


 ワタシは前述の自著で「アヴァターってPC検索すると<ひょっとして「アバター」?>って出て来て、ちょっと恥ずかしいぞ」と書きました。繰り返しますが、カタカナで書く限り(アルヴェベットで書いたり、英会話の際は、ワタシとて厳格にやっています)、書き手の文責で、好きなようにして良いとワタシは考えます。


 ヒップホップのミュージシャンなんか、80年代から「NIGHT」と「NITE」、「THE」を「DA」と、スペルをスラング化して来ましたし、今、楽曲名等で使われる「YOU」は数的に「U」のが上位にあると思われます。ワタシはネット上で「ナルタソ」と表記されていた時期があったと聞いていますが、これを「正しくはナルタ<ン>では?」とガチで訂正したらどうなるのでしょうか?想像もつきません。


 「BVD問題」はこうして、歴史的な理由によって、独自に問題化していますが、やがては「LRM(LとRも)問題」を引き起こすでしょうし、「AやIの発音が不規則変化するのはどうしたらいいの問題」も引き起こすでしょうが、前述の通り、究極の行く先はもう決定しています。


■という訳で、改めまして連載のタイトルは


 「アルファヴェット」にさせて戴きます。読者の方からのご意見に対し、誠実であらんとするあまり、ついつい長々と書きましたが、要するに書き手が自分の文責でやっているのだからそんで良いのです。カタカナで表記してる限り、それは英語ではなく、日本語なのですから。「菊地成孔の<今月のノンノン・アールファヴェイ・チネマちゃん>」というタイトルだったら、バカか?だとかクソサムい、とかは思われるでしょうが、さすがに「アールファヴェイではなくアルフェベットでは?」という訂正は来ないでしょう(来たら凄い。感動します)。


 と、この件に関し、反論、御意見、等々がございます方々はリアルサウンドではなく直接ワタシにメールください。今回は投書者が紳士的であったという報告、並びにマス向けである意味も含め紳士的に対応させて戴きましたが、誰にも見えないタイマンだったら容赦も手加減もしません(笑)。


 さぞやお疲れでしょう。お茶でも飲んでから本文をどうぞ。


■という訳で、今回は大島優子さん主演の「ロマンス」です。


 実は、邦画は中国映画より観ないレベルで、ワタシの日本映画に対するリテラシーは邦画関係者の前で大きな声では言えませんが、ひっじょうに低いです。また、同様にアイドルカルチャーへのリテラシーもかなり低く、主演の大島優子さんはもちろん存じ上げていますが(この国に住んでいて、旺盛にテレビを観、コンビニで買い物をする限り、彼女達の情報は嫌でもーーぜんぜん嫌ではありませんがーー入って来ます。それがパという事ですよね)彼女がほとんど二人芝居のようなこの映画に大変な気合いで臨んでいるのか、あるいはAKB48在籍中にこなしていた(であろう)テレビドラマやコントやCMに於けるお芝居と同じようなスタンスで臨んでいるのか、つまり、大島さんのモティヴェイシャン(motivation)やカンディシャン(conditionあーメンドくせえ・笑)がどういう感じなのか知らないまま鑑賞させて頂きました。


 この映画の監督と脚本は、『百万円と苦虫女』(2008年)のタナダユキさんです。同作は観たのですが、一時期ブームになり、何故か現在は賃貸しているように見える、<日本の女性監督が撮るちょっと奇妙な映画>は、個人的に観終わった後がどうにもこうにもスカッとした気持ちにならないので、特に悪感情もないとはいえ、基本的に敬遠していたのですが、結論から言うと、今回の映画は『百万円と苦虫女』よりずっと娯楽作品で、いわゆる前衛的な側面、作家主義的なメッセージは少なく、「マンガ原作のテレビドラマの映画化」と言っても通じるかのようです。


 とはいえ単純なハリウッドエンディング的なハッピーエンドに終わらず、最後は女性監督ならではの作家性をさっと見せられて終わる。ざっとまとめてしまうとそういう作品でした。


 大島さんの演技はというと、ドラマ『ヤメゴク』のアクションシーン(これも、テレビをつけっぱなしで仕事をしていたら偶然見て、「この鬼太郎みたいな髪型のアクション女優さん誰よ?ええ?大島優子なの、すげー!!」と思ったのです)でもそうだったように、小柄な身体にがっちり体幹が鍛えられている基礎体力の素晴らしさを感じました。


 ただ、それを見せるのはワンシーンだけです。万引き犯と思しき男(主人公)が全力疾走で逃げる、それをスカートが破けながらも物凄い勢いで追いかけて、結局捕まえる、という長いシーンは、ワンシーンだけとはいえ、大島さん以外の女優さんではなかなかできないんじゃないかと思いました。そのつかみのシーンが本当に素晴らしくて、映画に引き込まれていったし、これからどうなるんだ、という期待が最後まで持続して、気持よく鑑賞することに誘導されたと言えるでしょう。バスターキートンがどうのこうのと老人みたいな事は言いませんが、体が動いてこその役者だな、と。


 とはいえ、全力疾走の感動はここだけで鞘に納め、大島さんは「演技派」というに相応しい、実質上の2人芝居に徹して行きます。


 けれど、映画用の演技力とテレビのバラエティやドラマ用の演技力があるとすれば、ワタシが見たところ、大島さんは「映画用」へのシンクロ75%というところ。お相手――乗客として同じロマンスカーに乗り合わせ、ひょんなことから大島さんと一夜の旅に出る桜庭を演じた大倉孝二さんーーの演技が「映画用」としてとても素晴らしかったことで、相対的に目立ってしまった側面もあると思うのですが、それでもまだテレビドラマやコントのニュアンスが折に触れて出てしまいます。


 例えば、大島さんに対して前田敦子さんは、すでに映画の演技をしているように思います。『イニシエーションラブ』(5月23日公開/堤幸彦監督)でも、“AKB48のあっちゃんが映画に“という感じではなく、映画用100%インストールされている、もしくはもともとそうだったのかも知れませんが(これもTVでトレーラーと舞台挨拶を拝見しただけですが)。


 対して大島さんは子役時代から(この知識もTVで以下同文)ずっとテレビ用の演技をされていたでしょうから、致し方ないのでしょうけれども、少々残念だったところを挙げると、劇中<鉢子の家族が一番幸せだった頃の箱根旅行が何度もフラッシュバックして、瞬時にものすごく辛い気持ちになる>のですが、そこでの哀しみの演技が機械的な印象を受けてしまい、グッとくることができなかった。本来なら、そういう演技は女優としての見せどころ。<口が悪く、何もかもあんまり上手く行っていない、特に可愛い訳でもない(という設定)OL>であることを表現する演技にリアリティがあっただけに残念でした。「不機嫌そうであること」は、大島さんのボキャブラリーとしてすっかりコントロール可能に思えます。


 それと、本作にはサービスショット、「仕方なく入ったラブホテルで一人風呂に入り、泣く」シーンがあります。もっとも、今時はかなり売れている女優さんでもお風呂のシーンくらいは撮りますが、アイドルさん達は水着や下着で踊っている映像も山ほど見せられるので、専業の女優さんが、ちょっと肩や背中を出しただけでサーヴィスになるのに対して、アイドル上がりの方はサーヴィス潰しというか、肌だしインフレみたいな事になってしまうのだな。と思いました。とはいえシーンとしてはやはり印象的で、大島さんがお風呂で落ち着く事で、逆に複合的な悲しさが押し寄せてしまい、泣きだす姿は新鮮に感じました。他にも複数パターンある<泣く芝居>もどれもとてもお上手でした。「泣かずに哀しみを表現」は単に、スキルとして難しいのでしょう。


 「キャンディーズ以降」などというと、歳がバレますが( 52ですが)、アイドルは持ち歌を歌ってニコニコしていればそれで良い。という仕事ではなくなりました。SMAPのようなスターでもコントができなくちゃいけないし、お芝居も達者でなければいけないというミッションが課せられるから、AKB48グループのみなさん等は、おそらくどなたも達者にこなされると思うんですが、「映画女優へ転身への壁」は確実に実存します。


 ただ、宮沢りえさんがあれだけの演技力を持った大女優になるなんて誰も思っていなかったように、大島さんもその途上にあるのかもしれません。舞台を経験し、蜷川幸雄シャクティパット(←古い上に悪い例えになってしまいましたが、本来シャクティパットは悪い言葉ではありません)を受ければ鉄板でしょう。とはいえ、100%適応を是とするか、演技のアンサンブルが多少壊れても、70%ぐらいでいるアンバランスと稚拙さを愛でるか、古くは山口百恵さんの時代から(余りに古すぎるので止めます)。


 さて、パンフレットも買わず、本作に対する前知識はほとんどなかったのですが、大島さん演じる主人公=北條鉢子が小田急ロマンスカーの乗務員(お菓子や弁当等の車内売り子)であることは知っていて、小田急電鉄とのタイアップ企画である事も目にしていました。つまり、“エンタメPR映画”的な面があって、しかも主演が他ならぬ大島優子さんだから、作品として大いに売れなければいけない、というミッションが、いくらかは化せられている。であれば、これはもうハリウッドエンディングな大ハッピーエンドじゃなきゃいけない。


 つまり観客を「小田急線に乗って熱海にデートに行きたい!」という気分にさせなければタイアップ(実際にどれ位のタイアップ度なのかはわかりませんが)がオープンであるエンタメ映画としてのミッションはミッシングと判断されてしまうでしょう。


 しかし本作はちょっと違う。ラスト、一夜だけの奇妙なデートを終え、翌朝、小田急線の改札で別れた2人のうち、桜庭は、交番の「今日の怪我人/死亡」の掲示板が書き換えられるのをじーっと見てから暗い顔で映画から消え去り、一方の鉢子は、心境の変化(内的成長)はあったものの、現実の生活に変化はなく、いつもと同じようにロマンスカーのアテンダントをしているシーンで終わります。一瞬ハッピーエンドか?と思わせるミスリードがあるのだが、、、と、以下さすがに大オチのネタバレは自粛しますが、とにかく「親子関係について、問題が解決しはじめた」以外のギフトは鉢子にはありません。


 ワタシはエンタメがものすごく好きなんです。特に韓ドラのラブコメがムチャクチャ好きなんですよね。すんげえ良く出来ている上に全部大ハッピーエンドだからです。


 奇しくもこの映画の中で、映画プロデューサーを名乗る桜庭が「今はリアリズムばかりで若い人は夢を見られないじゃないですか。映画には夢が詰まっているんだ」と言うシーンがあります。鉢子のように親が離婚して母親がすさんだ生活をするようになった家庭なんていくらでもあるでしょうし、桜庭のように何かにお金をかけてそれを焦げ付かせ、女房子供に逃げられたような人もいっぱいいるでしょう。こういう“特別な悩み”ではなく“一般的な悩み”を持った人がハッピーエンドを迎えることで、もっとたくさんの人が観終わったあとに安心できる作品になったはずなのに、タナダ監督はそれをしなかったという印象がありました。


 「おとぎ話のようなデートを描いているのに、ラストになっていきなりリアリズムになられてもなあ。それとも、これ全部リアリズムのつもりなんだろうか、だったら前半あり得ねえよな」という気はしましたが、これはワタシの個人的なバイアスが掛かっているだけで、これが女性監督であり、今時珍しくオリジナル脚本まで書いたタナダ監督のリアリティというか、作家性なのかもしれません。


 ですので、あくまで個人としての意見(映画批評なんて全部そうですが・笑)になりますが、観終わった後に「本当に良かったな」という気持ちになりたかった。2人がつきあいだす……というところまで行くと、さすがにおとぎ話トゥーマッチすぎますが、<お互い元気になって、数ヶ月後ぐらいに、鉢子がロマンスカーの車内業務をはじめると、何と桜庭が乗っている。「シリアスに改札で別れても、結局、ロマンスカーに乗れば会えるだろ」ぐらいの感じで再会できた、めでたしめでたし>程度のエンディングにしてもバチはあたんないでしょ。と思ってしまいました。あのダークでリアルなトーンのエンディングは、アーティスティックな監督が撮ったからこそ生まれたものでしょう。ちょっとした“爪あと”を残すのだとしても、エンディングじゃなくて映画の真ん中あたりで残した方が洒脱だし、観客に優しい気がしました。


 ただ、今時めずらしいオリジナルの脚本で映画を撮り、キャストも一流どころを揃え、ローバジェットながらタイアップもあるラブコメをウエルメイドする……という、結構な職人仕事を求められた局面で、こういうエンディングにしたことは、前編で取り上げた『デューン』と同様に、タナダユキ監督にとって、逆の意味での勲章になるのかもしれない。


 総じてよくできた映画で、井口奈己さん、西川美和さん、横浜聡子さんなど、「日本の女性監督が撮った少し奇妙な映画」より、ワタシにとってはしっくり来る感じがありました。エンタメなんだから当たり前なんだけど、主人公が“なんだかわからない変な人”じゃなく、相手のおっさんも、ちょっと胡散臭いだけで普通の人です。


 大変失礼な物言いだとは思うんですが、キテレツなキャラクターが出てくる強烈だったり不思議だったりする、女性監督の映画は、前述の通り、見た後に「女性は大変だな」という感情を持ってしまいます。ヒップホップのようなマッチョな世界でも、女性ラッパーや女性DJがかなり台頭していますし、ガテン系の力仕事や、格闘技等でも女性が進出しており、とはいえだからフェミニズムの問題系が総てなくなりつつある、とても良い世の中だ、とは決して言いませんが、女性監督が撮る映画は観ていてものすごく苦しそうな感じがします(失礼ながら「1~2作で力尽きた感」もあったりして)。女流作家さんもそうですね。まあ、作家さんは男女問わず苦しそうですけど。


 今回の『ロマンス』も予算的には非常に小さいものだそうで、欧米でも「小さな映画」は増えています。そしてそのほとんどがハートウォーミング志向なんですよね。小さい予算で問題意識を訴えるか、小さい予算でハートウォーミングなおとぎ話をこしらえるか、マーケットがどちらを求めているか、作家側がどれほどの思い入れを持つか、これから日本映画界、というか、日本という国が問われる所だと思います。


 例えば韓国という国は、IMFの監査は入るわ、何せ停戦中だわ、徴兵はあるわ、ソウル市内に米軍はあるわ、貧富はかなり激しいわ、親子の関係は煮えたぎるほど暑苦しいわ、北東アジア圏では日本と文化的に最も接近したと言っても、同じだけ豊かだとは言えない。国民は物凄く手の込んだ、ムチャクチャ良く出来たおとぎ話を切実に求めています。


 日本で「あの法案が通るなんて、なんて酷い国なんだ」と言ったところで、セウォル号事件のようにずっしりするほど気分がどんよりすることは滅多に無い。韓国のドラマを見ると、ハリウッド越えしたかもな、というほど高度な脚本と演技力に支えられた、大変な完成度のテレビドラマですら、絶対に男性主人公のシャワー、もしくは着替えシーンがあるし、女性主人公もしくは準主人公のセクシーな衣装が楽しめるし、いわゆるお楽しみが盛りだくさんで、国民がよろこぶゲスいぎりぎりのサーヴィスがきっちり抑えられています。


 「ハワイ旅行と韓流ドラマは、未経験者である間は全員が愛好家を馬鹿にしている」と言いますが、一度見てみて下さい。更に言うと、日本のドラマと並走するように見比べるととても発見があります。「並走」なんかする暇ねえよ。オレは仕事とコレ一本だけ、という時代だからこそ。


 ワタシはこのサマーシーズン、数本の韓流ドラマと日本の『恋仲』を並走していたんですが、「これこそが日本だ」と強く思いまして、それは自尊心とか自負心とか、つまり勝った負けたではなく、白いTシャツと黒いTシャツみたいな感じで、お互いの事がとても良くわかりました。


 『恋仲』の「空虚さ」は第一回から最終回まで、鋼鉄の意思で一貫していました。画面の中で何も起こっていない。何せ最終回、結婚式を主人公の地元でやるんですが、福士蒼汰さんの親が出てこないんです(笑)。勿論、死んでいるとか、事情が会ってこれない。とかではなく、何の説明も無く、ただ出てこないんです。というか、誰の親も出てこない(厳密には1人だけ出て来ますが)。


 結婚式だか同窓会だか解らないんです(笑)。「夏に花火を見てキスする。キュン死でしょ」という原動力だけで登場人物達は動いており、こんなの他の国では考えられないです。日本が誇るクールジャパンとはまさにコレだと思いました。胸がキュンキュンすればそれでいいのだ。問題は青春時代と恋だけ。という凄まじいまでの空虚さは。なにせ登場人物達は演技すらしない(吉田羊さんを除いて)。演技力という物が高カロリーで燃費が高いからです(彼等に演技力が無いのではありません。「ビストロSMAP」に番宣で出たときなんて、全員すごく達者な訳で、ドラマの画面の中では演技が去勢されているんですね)。古くはロラン・バルトが『表徴の帝国』で指摘した、有名な<日本の空虚>ここにありという感じで、大いにナショナリズムに火がつきました。ご存じない方の為にエクスキューズしますが、バルトはこれを悪事として批判してはいません。それが日本なのだ。という事です。


 日本はこれから貧国に向かい、移民もたくさん受け入れなければならなくなる方向へ進む可能性が若干あります(「戦争をする」可能性よりも遥かに高く思います)。そういう観点からすると、今回採り上げた『ロマンス』の「ハッピーエンディングという虚妄のハイカロリーが、ラストに着火しなかった」という現象は、現在の、過渡期も過渡期である我が国をそのままトレースしているとも言えるのではないでしょうか。ラストまでは「良く出来たおとぎ話」という虚妄のハイカロリーが着火し、すげえしっかり稼働しているからです。


 複合的な意味でのガス欠ですね。ラス前まではもうずっとうっとりしていて、「ああ、オレも大島優子に毒づかれながらデートしてえー。っていうか大島優子とグレイトフルつきあいてー」と思って観ていたんですが。ウソ、見終わってからもずっとそう思っています。これには我ながら腰が抜ける程驚きました。(取材・構成/リアルサウンド編集部)