トップへ

宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの

2015年09月28日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会

 7月25日公開の『野火』(塚本晋也監督)、8月8日公開の『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)、そして10月1日に公開される『ドローン・オブ・ウォー』(アンドリュー・ニコル監督)と、最近で戦争を扱った良作が多いので、これらをまとめて取り上げたいと思います。合わせて、『野火』に重なる『シン・レッド・ライン』(1999年/テレンス・マリック監督)、『いちばん長い日』と重なる『終戦のエンペラー』(2013年/ピーター・ウェーバー監督)なども見ていきたい。


参考:宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼


■『野火』と『シン・レッド・ライン』の共通モチーフ


 戦争に関する映画がいわゆる“戦争映画”になる場合と、そうならない場合があります。戦争映画になるケースは、わかりやすく言うと、多かれ少なかれ「敵/味方」という構図があって、味方に英雄が存在するというヒーローものになります。これは実はプロパガンダ映画に近い構図です。僕が小さいときにハマっていたテレビシリーズ『コンバット』が戦争映画的な作品の典型です。ところが最近、そういった戦争映画的なものとは、異なる作品が増えています。


 例えばテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999年)。日本軍がほぼ全滅した、オーストラリアに隣接するガダルカナル島が舞台です。戦争映画というより「戦場におかれた人間が何を体験するのか」にフォーカスしています。基本構造は単純で“時間”がモチーフです。戦争で藻掻き苦しむ「ヒトの時間」とは別に、「ワニの時間」があり、「鳥の時間」があり――と他の生き物の時間が描かれ、同じヒトでも「原住民の時間」が全く別に流れて、それらがパラレルワールドのように交わらないことが描かれます。


 そのことで、「同じ時空を共有するはずなのに、なぜ文明的人間の時空というレイヤーでだけ馬鹿げた悲惨が生じているか」という具合に、理不尽さの体験を観客に突きつけます。こうした時間構造から映し出される理不尽さの体験には、敵も味方も関係ありませんから、米兵の体験と同じく日本兵の体験も描かれます。ジム・カヴィーゼル演じる主人公が所属する部隊のリーダーがキリスト教徒で、「神よ、私が皆を裏切らないように、どうか私を見ていて下さい」と神に祈るシーンがあることも見逃せないポイントです。


 塚本晋也監督『野火』(2015年)も似ています。映画は「兵隊に流れる時間」と別に、それと交わらない「現地人に流れる時間」「ジャングルに流れる時間」を描き、別世界に流れる時間に意識を飛ばすことで苦境を耐えるという主人公の実存を示します。こうして観客は「そもそも人間社会(を流れる時間)を生きる必然性があるか」と問われます。社会を生きるからこそ人間の時間に属して戦争に駆り出され、英雄のゲームや悲惨のゲーム──戦争映画的なもの──に巻き込まれる。ならば、社会を生きるのを諦めればいいではないか、と。


 『シン・レッド・ライン』は、社会をベタに生きるのを免れるべく、「宗教性の次元を生きよ」と推奨します。『野火』は、大岡昇平の原作に即して、「狂ってしまえばよい」と推奨します。だからこそ『野火』においては、普通であれば戦場における悪役として描かれるはずの、リリー・フランキーが演じた横暴で狂暴な兵隊・安田などが、悪役ではなく「所詮は主人公の同類」として描かれています。戦場においては英雄も悪役もない、それは非戦場が夢想する虚構だ──。クリント・イーストウッドの映画にも共通するモチーフです。


■末端もデタラメ、頂点もデタラメ


 一方、原田眞人監督『日本のいちばん長い日』(2015年)は、『シン・レッド・ライン』と『野火』が、否定的にせよ肯定的にせよ、せいぜいが軍曹くらいまでの「末端」の、戦場におけるデタラメぶりを描くのに対し、本作は参謀本部や御前会議のような「最上層部」の、「末端」に勝るとも劣らないデタラメぶりを描きます。そこが昨年公開されたピーター・ウェーバー『終戦のエンペラー』(2014年)と重なります。『野火』と『日本のいちばん長い日』は、対照的に見えて、共通して戦争(という人間の時間)の茶番を描きます。


 『日本のいちばん長い日』は、1967年に一度映画化され、1980年にテレビドラマ化(TBS系『歴史の涙』)もされました。本作はそれらと少し違います。過去の作品は無条件降伏を阻止しようとする将校らが皇居を占拠した宮城反逆事件をメインに描いたサスペンスですが、本作は天皇の御振る舞いを綿密に描くことで、陛下のあまりのマトモさに比べて、参謀本部や御前会議に陣取る首相以下各大臣のデタラメぶりが浮き彫りになるという仕掛けになっています。


 デタラメな指導陣ですが、阿南惟幾陸相と鈴木貫太郎首相だけが肯定的に描かれます。阿南は陸軍の尊厳護持と陛下への尊崇との間で板挟みになった境界的存在。鈴木貫太郎首相もクソ連中を宥め賺して陛下の御意向に沿うべく苦心した境界的存在。共通します。実は境界的存在を擁護するのが原田監督流。鈴木首相を演じた山崎努の凄い演技を見ると、史実的な「耳の遠さ」も詐病かと疑うほど(笑)。いずれにせよ、余程のタヌキか強烈な矜持を持つ者でなければ、指導者層の余りのクソぶりゆえに自分を保てないことが描かれます。


■天皇戦争責任論を一掃した作品群


 『終戦のエンペラー』と『いちばん長い日』は噛み合います。『終戦のエンペラー』は天皇の戦争責任が3点で成り立たないとします。第一に、12月8日開戦3カ月前に明治天皇の御製短歌を引用し御前会議で開戦反対意思を表明されたこと。第二に、陛下が意志を表明されたから総玉砕を回避できたこと。第三に、終戦後のマッカーサー拝謁が周囲の反対を排けて独断でなされたこと。マッカーサー回顧録には陛下が他の者に罪はないから私を処刑せよと述べたとあり、これでアメリカの天皇処刑論が一掃されて国体が護持されました。


 しかし、第二の終戦の詔勅については、敗戦を決断できるぐらいなら、開戦を回避できただろうとして、やはり天皇の責任を問う議論があります。これについて原田監督の『いちばん長い日』は、陛下による終戦の決断が、天皇単独で出来うるものでは到底なく、鈴木貫太郎首相や阿南陸軍大臣らの「タヌキの大芝居」を通じてようやく可能になったことを、原作に即してちゃんと描いています。というわけで、この二つの映画を見れば、天皇の戦争責任論が完全に粉砕されているのが分かるでしょう。


 『終戦のエンペラー』と同じく今回の『いちばん長い日』もまた、天皇主義者の僕としては納得の行く描き方をしていて、満足です。『終戦のエンペラー』もソクーロフ監督『太陽』(2005年)も日本映画ではありませんから、日本映画としては殆ど初めてじゃないでしょうか。これまで大東亜戦争における陛下の役割とは何だったのかについて、日本の映画は明確に描いて来なかったのです。昨年『終戦のエンペラー』を見たときも、僕はどうして日本がこれを描けないのかと憤慨していました。その意味で良かったです。


■一方的な感情移入を排する原田流


 ちなみに僕は、原田眞人監督と『バウンス ko GALS』(1997年)のプロモーションでお会いし、一時期交流していたことがあります。彼の作品はたいてい見ていますか、原田監督の資質が最もよく表れているのが『狗神 INUGAMI』(2001年)という作品でしょうか。これを観たとき、この監督は本当にすごいと思いました。そして、『一番長い日』では、彼が『狗神』で見せた演出方法を完全に踏襲しているのです。一口で言えば“一方的な感情移入”を排除しようとするのです。


 『狗神』は狗神筋が存在する高知の山深い尾峰の村での悲劇を描きます。オカルト映画としては異色で、オカルト映画に見えて、実際オカルト現象は一切映し出されません。村では「壺の中に狗神が見えれば狗神筋」だとされ、「狗神が見える」と称する人たちが登場します。しかし、映像に登場する壺の中はただ真っ暗。「狗神が見える」と称する人たちの体験に相応する現実があるのかどうかには触れません。怪異を体験したと称する人が描かれても、怪異現象自体は決して描かれないのです。


 これはスタンリー・キューブリック監督の名作『シャイニング』(1980年)に通じる描き方です。『シャイニング』でも、主人公を含めた登場人物たちが経験する怪異な体験について、それに相応する現実があるかどうかはやはり描かれません。ラストシーンで主人公のジャック・ニコルソンが「All work and no Play makes Jack a dull boy」という文章を原稿用紙にただ打ち込み続けているという描写がありますが、それも悪魔憑きによるものなのかどうかについては描かれません。


 カール・グスタフ・ユングは、「神秘体験の存在は、神秘現象の存在を意味しない」という有名な言葉を残しました。神秘体験は催眠誘導などで簡単に引き起こせるので、そのことを知らないと、オウム信者がそうだったように「似非グル」に心酔しがちです。ことほどさように「体験と現実との間に必ずしもリンクがない」という発想は近代的です。そうした発想を原田監督はお持ちです。そうした彼の感性が『いちばん長い日』でも発揮されています。宮城反逆事件を起こした将校たちの描かれ方が典型です。


■宮城反逆事件の将校らの描かれ方


 普通ならば「過激派」的な悪役イメージを配当されがちですが、原田監督の『いちばん長い日』は違う。ある種の観客には十分に共感できる描き方をしています。これは倫理的に正しい。国民の多くは二・二六事件の青年将校が好きで、『実録・阿部定』(1975年)や『愛のコリーダ』(1976年)など映画で何度も描かれています。宮城反逆事件の青年将校と二・二六の青年将校との間に、あるいは多くの国民が大好きな赤穂浪士との間に、さしたる違いはない。みな純粋無垢な反逆者です。そのことが何を意味するのでしょうか。


 かつては丸山眞男、最近は宗教学者の島薗進氏が仰るように、天皇制ファシズムを主導したのが統制派つまり軍エリートだったという説は間違いで、むしろ庶民の共感を背景としたノンエリート層の皇道派が主導的でした。天皇を支配の道具とみなしつつ国民には天皇を天孫と崇めさせる天皇機関説的なエリート層を大衆から見ると、イケ好かないインテリどもの天皇利用だと感じられたのです。そうした庶民の憤激を背景に、蓑田胸喜・国士舘専門学校教授のような連中が、東京帝国大学のリベラルな教授たちを追放していきます。


 東京裁判で、戦争責任は専らA級戦犯にあるとする「手打ち」になり、天皇と国民から戦争責任が免じられました。国民が悪くなかったという話は元々はネタなのに、やがてベタになりました。でも、庶民もヤバイ。というか、庶民がヤバイ。現に二・二六事件の青年将校を応援したがるメンタリティが、陸軍内部の反逆である宮城事件に直結する。原田監督はそれを意識するから、否定的にも肯定的にも描きません。狗神がいるのかいないのか言及しないのと同じように、何が本当に正しいのか言及しない。とても正しい演出です。


 前回『バケモノの子』を論じて、言語と言語以前という二項図式があることを言いました。(参考:宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼)渋谷(人間界)は言語が優位な世界。澁天街(バケモノ界)は言語以前的なものが優位な世界。親子関係はそもそもは言語以前的な感情が中心を占めるべき関係じゃなかったのか──と。最近の映画には、言語と言語以前、理性と感情といった二項図式を使うものが目立ちます。『いちばん長い日』でも、天皇の佇まい、阿南陸軍相の佇まい、畑中少佐の佇まいなどが丹念に描かれます。そのことが僕たちに、ある投げかけをしています


■概念言語と言語以前の微妙な関係


 阿南一家のあり方、阿南陸相と陛下との心の通い合い、狡猾な東条英機とピュアな畑中少佐の対比などから、「古い人たちの人間関係や古い人の佇まいは、いいものだな」と感じさせます。オーラが感染するのです。僕たちはこうして言語以前的な感情に動機づけられるのですが、しかし、その感情が概念言語によって水路づけられてしまうので、ミソもクソも一緒になりがちなのです。例えば、阿南陸相と幕僚たちが「ともに陸軍幹部」ということになり、「東条英機と畑中少佐が同じ尊皇主義者」ということになってしまいます。


 イデオロギーつまり概念言語の如何を以てヒトを分ける仕方とは別に、他者を感染させる力をもつ立派な存在かどうかでヒトを分ける仕方もあります。玄洋社の遠山満は、左右のイデオロギーを問わず、コイツは立派だと判断すれば食客にしました。そのように、ヒトの立派さや情念や心意気への感染を良しとする構えが、ただの保守と区別されて、右翼的=主意主義的と見做されてきた歴史があります。映画でも、暴発した若手将校はただのキチガイとしては描かれていません。しかしそこにこそ、これから述べる悲劇があります。


 例えば、僕が誰かの情念や心意気に感染したとして、その誰かが抱くイデオロギーが愚昧であれば、僕は愚昧なイデオロギーに引き回されます。逆に、イデオロギーが愚昧だったにせよ、情念や心意気への感染自体が間違っていたわけではありません。しかし、情念や心意気への感染を、イデオロギーの正しさと取り違えると、悲劇がもたらされます。概念言語と言語以前のものとの間に、こうした微妙な関係があります。だから、かつての京都学派のように、言語以前的なものへの注目を切口に、愚昧な全体主義を呼び出せます。


■概念言語はミソもクソも一緒くた


 京都大学で人類進化論を研究しておられる山極寿一先生は、人間の始まりは言葉でも火でもなく「共同保育」を行うようになったことだとします。猿は四肢が手ですが、ヒトは下肢が足に戻ったので、赤子が母親に常時つかまれず、仰向けに寝かされます。母親は赤子を置いて遠くに出かけられます。赤子は母親を呼ぶために泣きます。母親以外の周囲も駆けつけてあやせます。赤子は笑顔で報償を返します。こうした経緯で母親以外が育児に関わる可能性が開かれ、共同保育につながります。


 ヒトは下肢が足になったので、物を持って遠くに狩猟採集に出かけられます。それに必要な皮下脂肪を蓄えるべく満腹反応が遅れるようになります。遠くで狩猟採集してもその場で食べずに共同保育の場に持ち帰るようになりますが、可能にしたのが共感能力です。つまり「自分が空腹であるように家族や仲間も空腹なはずだ」などと他者に生じている反応を自らに引き起こす力です。こうしたことに加えて、山極先生はヒトが戦争をするようになったのは言葉のせいだとします。


 現存する原初的な部族を見ても分かるように、とりわけ女をめぐる争いが部族間抗争に発展しがちなものの、ジェノサイド(全面殺戮)は起こりません。基本的にメンツの争いなので、互いのメンツが立つよう抗争を収束させるための知恵が蓄積されてきました。ところが、4万年余り前から言葉を使うようになって、ミソもクソも一緒くたに全て敵のせいにできるようになります。それゆえ、言語以前的な感染力──感染する力やさせる力──が、概念言語に水路づけられるようになり、暴走しがちになったのだと。


 ロゴス中心主義的な西欧文明が一部を失った言語以前的なものへの鋭敏ぶりは、断固として擁護されるべきですが、そうであるにせよ、そうした言語以前的なものへの鋭敏ぶりが、概念言語によるデタラメな構築物に向けて動員されてきた歴史もあります。その意味で、言語以前的なものを擁護しつつ否定し、否定しつつ擁護するのが合理的です。原田監督は、英米で大学教育を受けて来られたのもあってか、『日本のいちばん長い日』では、日本的なものを「擁護しつつも距離をとり、距離をとりつつ擁護する」立場をとっておられます。


 そういうことも踏まえ、後編では主に『ドローン・オブ・ウォー』について話しましょう。(取材=神谷弘一)