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渋谷公会堂、一時閉鎖へカウントダウンーー市川哲史が綴る、名物ホールの歴史と裏話

2015年09月25日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 耀け!!日本歌謡祭。ソナーポケット。モンゴル800。仲井戸麗市。LOUDNESS。木村カエラ。愛乙女★DOLL。前川清&クール・ファイブ。JUN SKY WALKER(S)。BONNIE PINK。南こうせつ。赤西仁。岡村孝子。氷川きよし。高中正義。そして沢田研二。


 この無節操な謎のラインナップ、勘のいい人ならピンと来るだろうか。


 建て替えを理由に10月4日をもって一時閉館する渋谷公会堂の、ラスト一ヶ月間の主な公演だ。最期が沢田研二3デイズ(!)というのがまた、しびれる。


 1964年の元祖東京五輪関係のインフラとして、在日米軍施設<ワシントンハイツ>の跡地に国立代々木競技場・NHK放送センター・渋谷区役所と一緒に建設されただけに、最初は東京五輪の重量挙げ会場だった。そして翌65年2月からコンサートホールとして長年、我々に親しまれてきた。


 そういう意味では築50年超の物件なのだが実は10年前に一度改修されており、「いま建て替えんでも」と思う声は多い。ところが渋公に隣接する区庁舎の老朽化がマジで尋常ではないため、ほぼ巻き添えで建て替えられる羽目になった気がする。不憫だ。


 そもそも2006年10月から5年間、ネーミングライツの関係で突然《渋谷C.C.Lemmonホール》を名乗らされたのも、理不尽だった。♪ザテレビジョ~ンかよ。つくづく不憫である。


 それでも、公園通りを挟んで対面にあるライブハウス《エッグマン》に出演するバンドマンたちは、一日でも早く渋公のステージに立つ自分の姿を夢見たものだ。安全地帯もCCBもレベッカもXも、マンスリーのプリンセスプリンセスもリンドバーグも福山雅治も、例外ではない。


 オールスタンディング超満員で350名のエッグマンに対し、渋公は2084席。しかしこのキャパの差以上に、横断歩道を渡ればすぐそこなのに、両者ははてしなく遠かった。


 アーティストの実力やランクを測る数字も、もっぱらライブの観客動員力に重きが置かれていたバンドブーム期。ゆえにバンドたちの設定目標も「アルバムをミリオン売る!」とか「シングルでオリコン1位を獲る!」なんて無謀な妄想ではなく、ひたすらライブ会場のグレードアップに尽きた。その泣く子も黙る《ロックバンド双六》がおなじみ、<ライブハウス→(日本青年館→)渋谷公会堂→日本武道館>だった時代だ。


 のちに数々のV系バンドから崇められ、特にBUCK-TICK櫻井敦司が<暗黒デカダンスの師>となつくISSAY率いる、まだ若いのに「伝説のカルト・バンド(苦笑)」だったデル・ジベット。業界からもマニアからも評価は高いのだけれど、アルバム・セールスは平均5千枚で主戦場のライブハウスはそこそこ満員――そんな彼らが3枚目のアルバムをリリースしたところで、たまたまキャンセルが出て貸料が値引きされたかなんかで急遽、渋公初ライブが決定する。大丈夫大丈夫、私は余裕で潜在的マニアの底力を信じた。


 だがしかし。


 開演時刻ぎりぎりで1階席に入るなり我が目を疑った。埋まっているのは1階席のわずか半分強、たぶん1000人そこそこの惨状だったのだ。


 そういえば80年代日本のパンク/ニューウェイヴ・シーンを牽引したルースターズの解散ライブも、渋公だった。ブランキージェットシティの登場まで日本最強の轟音ストイシシズムを聴かせていたのに、『ロッキング・オンJAPAN』誌上でも盛りに盛り上げた解散ムーヴメントなのに、せっかくオリジナル・シンガーの<カリスマ@月の裏側>大江慎也が一夜限りで出戻ったのに、ファイナルなのに蓋を開けたら1500人強……。


 渋谷公会堂をナメてはいけない。


 青二才すぎて恥ずかしいが、「作品の良し悪しと集客力は別」という極めて基本的なことを、私は渋公に教えてもらった気がした。そして、「ポップ・ミュージックには良い意味でも悪い意味でもプラスαが必要なのだ」とも。


 私は渋谷公会堂が好きだった。


 実は音響的にも優れていて、1階後方の傾斜も絶妙で観やすい優秀なホールだ。ステージ上のミュージシャンと観客の絶妙な近距離感が、成長過程の国産ロックを育んだとも言える。でもって座席もNHKホール並みに座り心地がよかったりするから、徹夜明けの身にはほとんど悪魔の囁きのようなものだ。


 氷室京介がライブ中のMCで突然BOΦWY解散を表明した1987年12月24日は、会場に入れなかったファンたちが起こした暴動で正面玄関のガラスが割れる騒ぎが起きた。しかし某音専誌の編集長はこの<伝説の1224渋公ギグ>の際中、睡魔の誘惑に負けたばかりかその様子をプロダクション関係者が目撃。結果、翌日には会社間の厳重抗議行動事案にまで発展してしまった。渋公のなんと罪作りなことよ。


 当時は終演後、しがらみで中打ち(上げ)に顔を出して帰るのがライブの常というか、ほとんど義務づけられていた。その会場が渋公の場合は意外に広いリハーサル室で、隅っこに隠れて煙草を喫うのが私の憩いだった気がする。


 まあそれこそ多種多様なアーティストの中打ちを目撃してきたが、大抵の場合「節目」「目標」の渋公ライブを終えた達成感で高揚した、本人と関係者一同の笑顔が想い出される。そりゃそうだろう。


 たとえば1989年3月16日。メジャーデビュー直前のX初の渋公ライブ終演後の中打ちで、「今日は本当に……どうもありはとぉございまひた」と挨拶でひたすら泣き崩れる<半分ウニ頭>YOSHIKIもいい感じだが、「普通」を絵に描いたとしか思えない中年親父の「挨拶」という名の総括が異彩を放った。なぜただのおっさんがXの将来を語るのか、と。なお、正体はTOSHIの父であった。おいおい。


 ちなみにこの様子を、当時私が企画構成してたテレ朝日曜正午(失笑)のロック番組『HITS(←誰か憶えてる?)』で流したところ、司会の泉谷(しげる)さんがすっかり気に入ってしまい、その後執拗に「角まで立てたロッカーがめそめそ泣くな!」とギャグにし続けた。全然面白くないのに。


 ふと気づいたことがある。


 かつて東京のコンサート会場といえば、ホールだった。


 日本青年館(1360人)、新宿厚生年金会館(2062人)、渋谷公会堂(2084人)、中野サンプラザ(2222人)、そしてNHKホール(3601人)。


 特に70年代80年代はサンプラも厚年も青年館も、もっぱら外タレの来日公演のイメージが強い。そりゃそうだ、その頃の国産ロックはライブハウスで精一杯だったのだから。


 やがてバンドブームを経て日本のロックの天下となるわけだが、いつしか数百人規模のライブハウスと数千人以上の武道館やアリーナやメガ規模のドームに、ライブのハコが二極化していく。いや正確に言うとこの20年の間で、座席指定のホール形式から自由なオール・スタンディング形式へと、ライブのスタイル自体が移行した観があるのだ。


 だから90年代中盤以降は同じ2000人前後でもホールではなく、スタンディング形式が可能な大型ライブハウス的なハコが続々と造られていった。1993年Zepp Tokyo(2709人)→1996年赤坂BLITZ(1944人)→2000年SHIBUYA AX(1700人/2014年閉館)→2008年TOKYO DOME CITY HALL(最大3120人)――カタカナ表記でいいじゃん。


 並行して、新宿厚年が2010年3月、青年館が2015年3月に今回の渋公に先んじて既に閉館してしまった。正式発表はないものの、2020年東京五輪に伴う再開発で中野サンプラザも閉館が噂されている。


 ホール文化の終焉、なのだろうか。


 日本人はホールが好きだ。というか<エンタテインメントをホールで愉しむ>的な日本独自の文化習慣は、TVの刷り込みによるものの気がする。昭和の時代に少年少女の心を掴んで離さなかったバラエティー番組の数々。そのほとんどが都内ホールから中継される、公開放送だった。中野サンプラザは『カックラキン大放送』、青年館は『8時だヨ!全員集合』、渋公に至っては『全員集合』以外にも『NTV紅白歌のベストテン』『トップテン』と、まさにお茶の間におけるエンタの窓口のようなものだろう。


 そういえばhideが、幼児の頃『全員集合』の公開生放送を観に行ったことをいつも自慢してたな。くそ。


 屁理屈かもしれないが、そんな幼少から刷り込まれた<ホールの風景>がバンド双六を潜在的に下支えしたであろうことは、想像に難くない。いまやBABYMETALのライブでサークルモッシュが当たり前になるなど、ライブは<能動的なエンタ>の代表格として認知されているだけに、ホール・ライブにアーティストもリスナーも関係者も皆懸命だったあの頃もまた、愉しく想い出されるのである。


 そういえば中野サンプラザは、AKB48やももいろクローバーZが初ホール・コンサートを実現させ、モーニング娘。がホームグラウンド的に常用していることから、いまや全アイドル憧れのコンサート会場、なのだそうだ。そうか、サンプラザが<アイドル版渋谷公会堂>になってるのかと思うと、ちょっと嬉しくなった。(市川哲史)