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オックスフォードの轟音牧童・ライドが再結成 市川哲史が彼らのキャリアを振り返る

2015年09月20日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 ついに<オックスフォードの轟音牧童>ライドまで再結成してしまったか。


 今年の《FUJI ROCK FESTIVAL》参戦を見逃しそこそこ(苦笑)悔やんでたら、11月に単独来日公演ときたもんだ。なんか最近、邦洋問わず誰かが再結成する度に、いつしか脳味噌から抜け落ちてた記憶が蘇ってきて困る。死期が近いのだろうか。


 ライドとは英国の<アカデミックだけど立派な田舎町>オックスフォード出身の轟音ギター・バンドで、デビューは1990年初頭。可憐な花だけがフィーチュアされたナイーヴな赤色ジャケと黄色ジャケも印象的な、2枚の英盤4曲入りEP――通称『赤ライド』『黄ライド』は、口コミだけで日本全国の輸入盤店で品切れるほど話題を独占する。もちろん本国のインディーズ・チャートでも、赤1位・黄2位と大ブレイクした。


 特に「チェルシー・ガール」と「ライク・ア・デイドリーム」の代表曲2曲に象徴されるように、フィードバック・ノイズとエフェクターとディストーションに彩られた、メランコリックですらある轟音ギターの洪水の中で、ひときわセンチメンタルなメロが唄われるのだ。これぞ<無垢な思春期ロック>の決定版とばかりに、私も瞬殺された。


 一応、音楽評論家っぽいことを書くと80年代後期の英国シーンは、米国産アシッドハウスに端を発するレイヴ・カルチャー全盛で、そんなクラブ・ミュージックとロックの融合が局地的に起きたマンチェスターから、ストーン・ローゼズやハッピー・マンデイズが登場した。その一方でマイ・ブラディ・ヴァレンタインやザ・ハウス・オブ・ラヴが、「これでもか」のフィードバック・ノイズで「懐かしくて新しい」サイケデリアを現出させる。


 そしてその両者が渾然一体となった<轟音ギター・サイケデリア>が、ブラーやオアシスなどのブリット・ポップが出現する90年代中期まで英国を席巻したのである。のちに《シューゲイザー(←下を向いてひたすらギターを鳴らしてる連中、の意)》なるジャンル名で括られるが、そんなの関係ねえ(←死語)。


 ちなみに米国の90年代は、早々からニルヴァーナによるグランジ一色だったけども。


 とにかく、80年代末以降の<マンチェ→轟音ギターサイケ(笑)→ブリット・ポップ&グランジ>的潮流は、国籍問わず特に若い世代に熱烈歓迎されていた。


 なにしろ80年代は、<MTVの日常化>と<ダンスフロア仕様の恒常化>によりレコード/CDが世界中で馬鹿みたいに売れた。つまりポップ・ミュージックがエンタテインメント・ビジネスとして過去最高に機能した10年間ではあったが、ロック的に面白かったかと訊かれれば「何も生まれなかった10年」と誰もが応えるしかなかった。それだけにこの全世界的なギター・サイケ現象は、待ちに待った<ロックの復権>または<初期衝動への回帰>としてやたら盛り上がったのである。


 さて日本、だ。


 海外同様、80年代の洋楽市場はやはりチャート物中心で好景気だったものの、レベッカやBOΦWYに端を発したいわゆる《バンドブーム》が勃発した中盤以降は、全国の少年少女が「国産」でロックに目醒めるのが日常化するに至り、洋楽景気は一気に終息した。


 それは音専誌などのメディアも含め、日本における<ロック>が洋楽から邦楽にシフトし始めた瞬間でもある。私がロッキング・オン社に在籍していた頃(~1993年)は、まさにその渦中だったのだ。


 邦楽誌『ロッキング・オン・ジャパン』の部数や広告収入が好調に伸びている現状はもちろん、望ましい。とはいえその一方で、洋楽誌『ロッキング・オン』が市場同様に冷え込んでは、会社的に非常によろしくない。そこで当時のRO編集長・増井修が開発した力技が、<ロッキング・オン・レコード会社・招聘イベンター三位一体国境越えの青田刈り大作戦!!>である。


 基本的には、英米在住のコレポン嬢発信の現地最新インディーズ・バンド事情から有望株をチョイスし、レコード会社には日本盤リリース、イベンターには来日公演を要請して、「衝撃のニューカマー日本デビュー」を三社合同でお膳立てするわけだ。


 誌面的にはまず「ロックの新たな地平に立つニューカマー発見」的な檄文が躍る予告編2Pでスタートし、以降は「CDデビュー決定!」「現地ライヴ評!」「初インタヴュー@現地!」「来日決定!+読者チケプレ!!」と随時煽るのだから、そりゃ盛り上がる。


 当然ロッキング・オンとしては、レコード会社&イベンターから企画広告代だったりを頂戴した。そもそもこうした<世間に周知させる工夫>、いやもっと端的に言えば<売る工夫>が、それまでの洋楽業界には欠落していた。メディアもレーベルも皆、お公家さんだったのだ。


 そういう意味では『ジャパン』で体得した国産ロックの商業的成功とその方法論を、おもいきり洋楽にフィードバックさせただけの話である。しかしこの試みは明らかに洋楽シーンを活性化したし、ストーン・ローゼズを筆頭とするマンチェ以降のUK轟音ロックを日本に根付かせた功績は大きかったはずだ。


 ちょっと想い出すだけでもそのローゼズにインスパイラル・カーペッツ、ペイル・セインツ、ラッシュ、ハピマンなどなど大作戦出身者は後を絶たない。ライドは勿論だし、いつの間にか米国組にも波及したんだった。私はジェリーフィッシュと一緒に渋谷のマニアックな中古盤店を廻ってLP買い漁ったり、スティーヴィー・サラスと「単なる町の中華料理屋」で餃子食って紹興酒呑んだもの。


 見事に日本人バンドと同じ扱いだなぁ。


 RO社在籍中の私の肩書きは<自由人>、『ロッキング・オン』『ジャパン』『Cut』どの編集部所属でもなく、書籍も含めひたすら原稿を量産するのが職務。非常識な取材&原稿の本数は、私に200時間超の残業を毎月強いた。若さって素晴らしい。


 そして年々国産バンド仕事が加速度的に増大する傍ら、私の洋楽仕事は60年代70年代ロックのベテラン・アーティスト群にすっかり特化する。


 販売枚数ベースでCDがレコードを初めて抜いたのは1986年だが、感覚的には1989年にCDシングルがシングルレコードをついに抜き去るに至り、名実共にCDの時代が開幕した。すると洋楽マーケットでは<旧譜のCD再発ブーム>が巻き起こり、名盤も廃盤も希少盤も続々リリースされたばかりか、ひねもす日向ぼっこしてたはずの先達が再結成やら復帰やらで続々と来日してしまう。そりゃお話をうかがうでしょうよもったいない。


 というわけで社内唯一人のロックマニア(失笑)だった私が積極的に、オールマン・ブラザーズ・バンドやフリートウッド・マックから、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、ジャパンにXTCにデュラン・デュランに至るまで、とにかく<古いひとたち>担当となった。するとリリースされるカタログは無尽蔵だし、ブームに便乗して猫も杓子も来日するし、国産バンドは雨後の筍状態だし、とてもとても<新しいひとたち>と付き合う時間などなかったのである。


 こと洋楽に関してはそれほど浮世離れしていた私なのに、夜中に増井修のデスクの彼方から溢れ出る、おそろしくセンシティヴだけど官能的な轟音ギターの渦には一目惚れしてしまった。


「ライドは誰にも渡さぬ」。大河ドラマかよ。


 めでたくライド番を襲名した私はまずロマンティックな檄文を書き少年少女を煽ると、ライヴを日本人メディア初目撃するため90年の初夏、英バーミンガムに飛んだ。会場には赤ライドや黄ライドのジャケ写を意識してか、庭で手折った可憐な花を胸に抱いた英国少女たちの姿が目立つ。どいつもこいつもナイーヴそうで嬉しくなった。


 すると7~8名の日本人留学生が「こっちでも売ってる『ロッキング・オン』を読んで、観に来ました♡」と寄ってきた。ロンドン暮らしなのにわざわざ『ロッキング・オン』経由でUKロックの情報を知るとは、いまなら厚切りジェイソンが黙っていまい。あほか。


 本邦初インタヴューはたしか、開演前の楽屋だった。四人全員1970年生まれの同級生で、当時は20歳。本国でもまだ取材経験は浅かったのだろう、おどおどして私と目を合わせられないほどの<無垢な少年>っぷりが斬新だった。私を小っちゃい声で「……みすたー?」としか呼べない姿と、ステージ上で黙々とひたすら轟音を放ち続ける姿との落差は、衝撃的ですらあった。


 こらこら、そんなとこでガンジャの吸引法を熱心に質問するんじゃない。しかも初対面の一般人相手に。純朴すぎるぞきみら。


 呆気なく解散してしまう1996年初頭まで、ライドとの付き合いは続いた。1993年春に私もRO社から独立したけれど、その後も最後までアルバムのライナーノーツは執筆した。


 日英問わず何度もインタヴューしたが、彼らは最後まで「普通」のことしか言えなかった。以下は、マーク・ガードナー(g,vo)の発言だ。


「本当に普通の村の子だったから(苦笑)。とにかく内向的で、僕のレコード・コレクションは大切な友だちに他ならなかった。レコードの唄に、僕が当時感じてたことがすべて包括されてたんだよね。スミスとかエコバニとか、育ち盛りだっただけに受けた衝撃も大きかったよ? とにかくリアルだった、キュアーもニュー・オーダーも」


「僕たちにとっての音楽は極端な話、外界をシャットアウトできるバリアーみたいなものなんだ。個人的な負い目や劣等感による報復手段では決してないよ」


 このヘタレならではの美学は、たしかに素敵だ。しかしこの発言の陰に、どれだけの普通の言葉が積み重ねられていることか。


「僕たちは自分たちがやりたい音をやって、結果こういうレベルに達しただけで――自分自身を愉しませてるに過ぎないんだけど、それが単に『他人にも聴かせて愉しませたい』と変わっただけの話でさ(微笑)」


 私がそれまでインタヴューしてきた外タレたちは皆、イカれていた。


 日本人を未だジャップ扱いする尊大過ぎる英国人。自分がいかに赤貧かとうとうと語るポップ親父。午前11時なのに金髪の姉ちゃん連れてベロンベロンで現われ、寝転がって話してたものの開始5分で「気持ち悪ぃから帰る」と、バンドに加入したばかりの若造1人残していなくなった米国南部男。電話の向こうで「今夜はパーティーにお呼ばれしてるの。ばあや! ばあや!」とシャワーを浴びてた自由な米国人お嬢。こんなの序の口だ。


 しかも国産ロックバンドも躍進するにつれて、さまざまなキャラが咲き誇り、言葉による自己主張が個性的な連中も増えてくる。イジればイジるほど面白いし、叩けば埃の出る奴も珍しくない。だって日本語が共通言語だもの。


 そうなのだ。私はライドと出逢ってようやく、洋楽コンプレックスが解消されたのだ。


 彼らのフェティッシュな轟音ギター・サイケは、問答無用で恰好よかった。しかし見栄えはぱっとしない普通の少年で、話す内容も概ね普通。


 商売に走らない。他人を誹謗しない。ロックスターに執着しない。大言壮語しない。眼中にあるのは音楽だけ。万年思春期であるがゆえの純粋培養の音と言ってしまえばそれまでだが、それ以外の<カリスマ性ゼロ>感が衝撃的だったのである。


「なんだ、日本のミュージシャンの方が話面白いじゃん」


「なんだ、ごくごく普通の少年でイカレてなくても恰好いいロックできるんじゃん」


 目からウロコというか洋楽の呪縛からの解放というかライド以降、私はキース・リチャーズだろうが鬼龍院翔だろうが相手を問わず、失礼極まりないインタヴューに邁進できるようになった気がする。本音の交換に国籍も年齢も関係なく、遠慮は無用なのだと。


 それにしても揃って45歳になったライドの四人の、なんと老け込んだことか。


 なまじ20歳の姿を知ってるだけに容姿の老化がより目につくのだろうが、今回20年ぶりに再会したらきっと「あんたに言われたくはない」と失笑されるに違いない。


 ふ。(市川哲史)