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清竜人25が示す、アイドルの演劇的特性 「虚構」の臨界点を探るグループのスタンスを読む

2015年09月12日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

清竜人25公式HP

 前回の稿では、乃木坂46の舞台『じょしらく』の考察から派生して、アイドルというジャンルの表現がそもそもとても演劇的なものであることを示した(参考:乃木坂46、ももクロ、AKB48……演劇企画が示す「アイドルというジャンル」の特性)。アイドルの形式的な本分である歌やダンスによるパフォーマンスは、アイドルたちの実人生をそのまま映すものではなく、あるフィクショナルな世界を上演するためのものである。ここでいう演劇性とはそうした意味だ。この点に関して、本連載の第二回で触れたアメリカCNNのTV番組『Talk Asia』(2012年1月)での秋元康のインタビューは示唆的なものになっている。インタビュアーが、AKB48の「制服が邪魔をする」などを例示して、過激な歌詞をメンバーに歌わせることについて問いかけた際、秋元は次のような回答をしている。


 彼女たちは別に日記を読んでるわけではないですから。「演じる」ことですから。たとえば他にも「軽蔑していた愛情」という曲があります。これは、なぜ中学生の子供たちが自殺をするんだろうということを取り上げた詞です。(中略)MVも非常にショッキングなものです。つまり、屋上に行って本当に飛び降りようとするようなものを映像に入れています。彼女たちが今抱えている問題を、作詞家としてそこでテーマとして挙げなければ、誰もが触れられないもので終わってしまう。


 秋元はこの時のインタビューで、メディアの報道や自身の想像に基づいて「彼女たちの世代は今こういうことをやっているんだ、あるいはそこにいじめがあるのか、自殺があるのか、あるいは援助交際があるのか。そういうことをテーマにする」と述べ、それらを「彼女たちの実物大、リアルなもの」と表現している。同時に、それはあくまで「演じる」ものであり、AKB48メンバー本人たちのリアルではないという認識も示している。メンバーたちの生きる同時代性をモチーフとしてすくい上げ作品化しているが、それらはあくまで作品であり彼女たちはそれを虚構として「演じている」ということになるだろう。実のところ、「過激」な表現をめぐるこの番組内での応答は、インタビュアーと秋元双方の間に現状認識や倫理についての前提が共有できていないようにも見え、ややコミュニケーション不調気味に感じられるものだった。ただ、本稿で注目したいのはそのこと自体ではない。上記のやりとりに継いで秋元は、歌と演劇を対比した次のような発言をしている。


 もともと、レビューというよりもお芝居をやろうと思っていたんです。少女たちの演劇集団を作ろうと思っていた。だから、もしも歌詞が音楽に乗っていなくて、台詞で舞台演劇、だったらたぶんそこまで(※引用者注:過激であるとは)思わないと思うんです。表現として、音楽の方がもっと皆さんに伝わるなと思ったので音楽にしているだけで。


 ここでレビューというのは、宝塚歌劇団の公演に代表されるショーを指す。AKB48が宝塚歌劇団をその着想のひとつにしていることは、秋元自身がAKB48発足間もない頃から各所で語っていることだが、先の引用も合わせ秋元はアイドルの歌やダンスによる表現を演劇的なものとして捉えている。舞台演劇だったならば同じ言葉を語らせたとしてもそこまで問題視されないが、歌に乗せるとフィクションを歌っていたとしても敏感な反応を呼び起こしてしまう。それはアイドルというジャンルに限らず音楽という、舞台演劇よりも世に浸透しやすい芸能がはらんでいる性質に関しての、作詞家としての彼の問題提起のようにも受け取れる。ただし、ともかくも前回の稿との関わりで述べるならば彼の言葉は、アイドルという表現があるフィクションの世界を演劇的に上演するものだという認識がなかなか共有されにくいことを示してもいる。


 アイドルというジャンルの表現が持つ、虚構の上演することの快楽。それは、あくまでアイドル当人という人格が最大のアイコンとなる以上なかなか認識されにくいし、本連載過去回でも触れてきたように、アイドル当人の実生活と地続きのパーソナリティがますます享受されざるをえない今日、その傾向はますます顕著になるだろう。ただし今日、秋元が示唆したような虚構の上演としての「アイドル」を、きわめて明快なかたちで体現するパフォーマンスもまた登場している。ここでは清竜人によるアイドルユニット、清竜人25を、虚構の上演としてのアイドルを考える補助線として見てみたい。


 清竜人25が昨年11月に『Will▼You▼Marry▼Me?』でCDデビューした当初、「夫」である清竜人と6人の「夫人」たちという「一夫多妻」のコンセプトは、「アイドルのタブーを破る」もしくは「革命」といった捉え方でしばしば喧伝された。それらはもちろん、アイドルについてのいわゆる「疑似恋愛」を前提にしたうえで、キャッチーに世に訴えるレトリックではある。けれども、構造を考えるならばそうした見立ては正確なものではない。それは何より、この「一夫多妻」という関係が誰の目にも明らかな虚構だからだ。個々の楽曲の前提として用意されたこの大きな嘘は、ステージで上演される楽曲の世界観があくまでファンタジーであることを常時示すものになる。6人の「夫人」はあくまでその世界内で夫人という役柄を上演し、清竜人もまた同様にヒロイックな虚構の存在としての「夫・清竜人」という役柄を上演している。9月2日にリリースされたアルバム『PROPOSE』のリード曲「ハードボイルドに愛してやるぜ▼」には、ともすれば旧態依然とした男女観を思わせるフレーズが採用されている。それが直接に倫理的な是非を呼び起こしにくいのは、この詞が生身の清竜人の主義主張ではなく、あくまで楽曲内に演劇的に描かれたフィクションの登場人物の繰り出す決まり文句としてあらわれるからだ。アイドルの歌とダンスによるパフォーマンスを演劇性という点からとらえるとき、清竜人25はその性質を非常にわかりやすいかたちで体現しているといえる。一夫多妻という明らかな「嘘」は、その演劇性をこそ楽しむことに貢献している。


 とはいえ一方で、今日のアイドルシーンはメディア環境も手伝って、アイドル当人の“生身”にアクセスし、アイドル自身のパーソナリティが楽しまれることが重要な特徴でもある。フィクションの劇内世界でその楽しさが完結されるような清竜人25のパフォーマンスは、そうしたアイドルシーンのスタンダードからは外れるようにも見える。けれども、他の多くのアイドルと同じく清竜人25の「夫人」たちも個別のSNSアカウントを持ち、そこではこのグループの「設定」から降りた時間のパーソナリティを垣間見せている。そうしたパーソナリティからフィードバックされる夫人たちの個性は、ごく自然にステージ上にいる時間の彼女たちにも重ね合わされている。そもそも「一夫多妻」が明らかな嘘なのであれば、「夫人」たちにナマのパーソナリティを求めることも、いわゆる疑似恋愛的な視線を送ることもいくらでも可能だし、その意味では「アイドルのタブー」(というものがあるとして)を破ったり異端的だったりするわけではない。彼女たちに“生身”を求めることなど、本当はいくらでもできてしまう。それでも、このグループにとって重要なのは、生身そのものではなく、その生身のアイドルたちがつくり上げる演劇的な世界の方だ。あからさまなファンタジーの設定を大前提にし、虚構の世界を虚構の世界として楽しむという機能こそを縁取って強調することに成功したのが清竜人25である。


 同時に、上記したように楽曲とダンスによる虚構内の世界と、それを上演する生身のパーソナリティとが二重写しに受け止められるという、アイドルシーンの基本的な性質は清竜人25にとっても変わることはない。今年5月、第5夫人の清菜月の「妊娠」によるアイドル活動の休止と発表された際、それに対する受け手のリアクションはそれまでファンタジーとして楽しまれてきたような気楽なものとは感触がいささか違った。仮にこれが体裁として完全に舞台演劇であるならば、その「妊娠」まで含めて同一の虚構の水準で安心して受け止められただろう。けれども、妊娠や育児といった生身の人間のライフコースにとって重大かつデリケートな事柄が「設定」として持ち込まれたとき、そこには倫理を問うような緊張感が生じたように思う。それはアイドルというジャンル特有の虚構と生身との関係を浮き彫りにするような事柄に見えたし、また清竜人25がこのジャンルの演劇的な楽しみ方を強調する形で提示してきたからこそ起こりえた事態だった。


 もちろん、このグループが屈託なく持ってしまった批評性と、その批評性について語ろうとする端から野暮になってしまうような憎らしいまでの魅力は、清竜人25のすぐれてユニークな特性だ。しかし、清竜人25はアイドルというジャンルが持っているフィクションとしての楽しみ方を存分に活用し、またその結果アイドルというジャンルにとっての「虚構」がどこまで可能なのか、その臨界点を探るようなグループになっている。清竜人25は異端なのではなく、アイドルというエンターテインメントの演劇的特性を非常にストレートに提示し考えさせる、今日的な存在である。(香月孝史)


※▼はハートマークが正式表記。