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真部脩一が考える、“相対性理論”以降のポップミュージック「やり残したことがあると感じている」

2015年09月07日 19:51  リアルサウンド

リアルサウンド

真部脩一。(写真=神藤剛)

 かつては相対性理論でベーシスト兼コンポーザーを務め、現在は10人組のブルータル・オーケストラVampilliaのメンバーとしても活躍するポップマエストロ=真部脩一が、ついに“ポップス”へと舵を切り始めた。今回リアルサウンドでは、全メディア初となる真部への単独インタビュー取材が実現。あらためて真部のキャリアを振り返りつつ、彼がポップ・シーンで“やり残したこと”、相対性理論のコンセプトとその後の展開、さらには今後始めようとしている真部自身の新プロジェクトの内容など、示唆に富んだ発言を聞くことができた。(リアルサウンド編集部)


・「既存のゲーム内でどう自分の誇大妄想を実現させようか、というワクワクが原動力」


――初の単独取材ということで、まずはキャリアについての質問をさせてください。そもそも真部さんが音楽を始めたきっかけとは?


真部脩一(以下:真部):幼少期の話をすると、父が音楽好きで家に楽器があるような家庭だったので、4歳から小学生の半ばぐらいまでピアノを習っていたんです。ピアノを辞めてからは全くのリスナーで、プレイヤーとして楽器を触ることはほとんどありませんでした。でも、19歳~20歳のときに、自分の映像好きが高じて、学校で出会った「進行方向別通行区分」というバンドのビデオ撮影をすることになって。その流れでギターとして参加するようになりました。


 そして、相対性理論というバンドを結成するにあたって楽器をベースに持ち替え、自主制作の音源『シフォン主義』を下北沢のハイラインレコーズに置いてもらって。思い出づくりのつもりだったのですが、たまたまお店を訪れたレコード会社の方から連絡をいただいて、プロとして活動するようになりました。


――リスナーとしてはどんな音楽を聴いていたのでしょうか。


真部:もともとはポップミュージックに興味があったわけではありませんでした。父はジャズ好きでしたが、僕は中学受験があって、あまり音楽を聴かせてもらえなかったんですよね。だから、家にあるレコードをこっそり盗み聴くだけでした。中学は山奥にある全寮制の進学校に決まって、そこで軍隊のような生活を送っていたのですが、月に一度の外出日で山を降りたときに、思い立って近くの商店街に一軒だけあるCD屋さんに入って。そこで「ロックが聴きたいんですけど、何がいいですか?」と尋ねたんです(笑)。そこで店主さんが持ってきたのがデュラン・デュランの『ウェディング・アルバム』と、クイーンの『グレイテスト・ヒッツ』だった。一時期は、この2枚ばかり聴いていました。


――ちなみに、どちらが好きだったんですか?


真部:デュラン・デュランですね。クイーンはアホな中学生には正直よくわからなかった(笑)。


――真部さんは作編曲やプロデュースのほかに、斬新なレトリックを駆使する作詞家としても活躍してきました。この原点にあるものは?


真部:言葉に関しては、昔から技巧的なものがすごく好きでしたね。広告のコピーや映画のセリフの翻訳、古典演劇、漢詩など、レトリックのあるもの全般を好んで見ていました。


――書き手としてはどういう意識で歌詞と向き合っていますか。


真部:僕はもともと、音楽を通して個人的なメッセージを発信したり、共感を求めたりすることにあまり興味がなかったので、単純に “自分が聴きたい音楽を作りたい”という衝動と、“こういうものがあったらいいな”という欲求に基づいて制作しています。そういう意味で、自分にとっては、自分語りを特に必要とせずに言葉を乗せられるポップスが一番いい土壌でしたね。商品化、つまり市場を前提としていることも自分の興味を刺激しました。


 衝動と欲求で作ったものが均一にパッケージされ、実際に市場に出て、お金が動くというのは大きな感動ですし、売り上げの序列が生まれるのもおもしろい。そういった一連を目の当たりにして、制作するにあたり、既存のゲーム内でどう自分の誇大妄想を実現させようか、というワクワクが原動力になっています。


――現在の音楽産業が、真部さんの言う“既存のゲーム”なのだとすると、そのなかでどんなプレイをしようと考えていますか。


真部:既存のゲームを否定する、または縛りを設ける、ということではなく、あらかじめある制約の上にもうひとつ階層をつくりたいというか、チェス盤でチェッカーをやるような……同じフィールドを使って、全く違うコマやルールでゲームをしてみたいんです。言葉で説明できる枠組みの中に、言葉で説明できないパワーであったり、エネルギーみたいなものが投入されて変わっていく、という事象にとても惹かれますね。だから、そういう作品を生み出すチャンスがあればと思っています。


・「複製される中で劣化されない要素のほうに興味がある」


――真部さんがこれまで作ってきたものは、結果として既存のゲームを変えるきっかけになってきたと思います。ご自身ではどう分析しますか?


真部:クライアントや別にリーダーが存在するワークスは置いておくとして、相対性理論に関しては、僕がやろうとしていたこととかけ離れすぎてしまいました。自分がほんとうにやりたかったこと、こうなれば面白いと思っていたことは、3割も実現できていません。


 確かに、客観的に考えると、相対性理論はエポックだったと思いますし――作り手がこういうことを言うのを許してもらえるのだったら――それまでのシーンを変える力はあって、J-POPに新しい波を作ったとは思います。でも、自分としてはずっとやり残したことがあると感じているんですよね。


――“やり残したこと”は、今後の活動で実現していくのでしょうか。


真部:多分、そのうちの半分以上は、当時の相対性理論が持っていたフォーマットじゃないとできないことだった。ただ、残りの半分くらいは「今でもできるな」と思えることだし、面白がってもらえるかなと考えてはいます。


――言葉にするのは難しいと思いますが、初期の相対性理論のエポック性はどのあたりにあったと捉えていますか。


真部:“被批評性の高さ”というか、語られる場が変容していくというイメージがあったかもしれません。


――なるほど。その“被批評性の高さ”ゆえに、相対性理論の作品は後進のバンドにも大きな影響を与えていると思いますが――。


真部:そういうバンドの音楽を聴いて、「似てるね」って言われると「似てるな」と感じるし、「声がまんまじゃん」と言われると「そうだな」と思う。「パターンを研究しているな、この人たちは」と感じることもあります。でも、“フォロワー”という感じはしないんです。それは恐らく、僕とはまったく違う面白さを追求しているからなんじゃないかと。たぶん、そういう人たちが相対性理論を聴いて魅力に思う要素と、自分が魅力だと思っていた要素は、あんまり噛み合わないと思うんですよ。まあでも、それはかつて同じ環境にいた人たちですら共有できていなかったことなので。良し悪しの問題じゃないですし。ただ、「影響」と言われると、少し不思議な感覚はありますね。


――「音楽をマーケットに乗せて届ける」というテーマについては、前回Vampilliaのインタビューで伺いました。その時はリーダーとともに、「パッケージ化できる再現性、これこそがポップスの鍵だ」という発言がありましたね。今のシーンはライブの一回性に重心を置いていると捉えることもできると思いますが、いかがでしょうか。


真部:そもそも音楽って、特に複製を必要としないものだと思うんですよね。昔から純粋な音楽ファンの方で、ライブじゃなきゃ音楽じゃない、という人はたくさんいますし、回り回って、複製による劣化をアイロニックに楽しむようなアートもある。でも僕は、どちらかというと、複製される中で劣化されない要素のほうに興味があるんです。この意見自体はすごく前時代的だと思うんですけど、ドラマツルギーを用いて、一回性の持つ感動を、複製に耐えうる形でパッケージするというのが自分の中の課題なんです。実現できるとしたら、叙情的な要素と、テクニカルな部分のバランスを見極めつつ、楽しめるものにしたいですね。


――その表現の伝え方としては、ライブと録音物のどちらでもあり得ると?


真部:そうですね。ライブで再現するというか、“ライブをきちんと商品化する”というところにつながってくるような気がします。自分がやりたいのは、商品、ショウビズとしてのライブであり、何度繰り返されても必然性が失われない、という感覚が得られるものですね。


・「自分が管理把握できた相対性理論に対するマッピングをもう一度整理したい」


――音楽を商品にするという点では、音楽産業は「大変だ」という見方もあれば、「元気になってきた」という見方もあります。真部さんはどう見ていますか。


真部:単純に過渡期であって、商業音楽やコンテンツ産業は普遍的なものだと感じているし、なくなることはないと思います。新しいビジネスモデルが確立されるまでは宙ぶらりんな状態になりますが、その“宙ぶらりん”が自分にとっては魅力的なので、悪い意味での危機感もありません。状況に合わせてメーカーやクリエイターが変容してゆくことは自然なことですし、個人の裁量で既存のフォーマットを刷新できる可能性も年々高まっていると思うので、希望を持って捉えてはいますね。


――ポップミュージックには、例えばジョセフ・ヒースが指摘するように「カウンターカルチャー幻想」のようなものが常につきまとっています。一方、真部さんはあくまで「商品である」という一貫した意見を持っていますね。


真部:カウンターカルチャー幻想は、あくまで聴衆の抱くものだという認識です、もちろん一人の受け手として、僕の中にもあります。だからこそ、マーケティングや販売戦略の過程でそういった幻想が織り込まれるのであれば、それは隠されていなければならないと思うんです。クリエイターが事件性を演出すること自体、僕は滑稽なことだと思う。何らかの事件性を持ったパッケージが、発信者や共謀するメディアの説明を待たなければその価値が決定しない、というのはつまらないですから。語られる必要のないことは、語らなくてよい、というのが自分にはしっくりきますし、結局のところ、ソフトは記録媒体に過ぎないので、それ以外は魔法として扱いたいんですよ。


――なるほど、これから個人としてのプロジェクトも始動するそうですね。


真部:相対性理論でやり残したことがあるという話をしたのは、それ以降に自分がやっていることが“相対性理論風味”のものというか、単純にライブラリ化された相対性理論をやっていると感じるからなんです。だから、自分が管理把握できた相対性理論に対するマッピングというか、身の置き方、置かれ方みたいなのを、もう一度整理してみたいという思いがあります。


――つまり、今度は真部さん自身がプロデューサーというよりもプレイヤーとしてJ-POPへ介入していくと。


真部:そうですね。今の自分が一介のバンドマンとして何ができるか、というのは非常に楽しみです。なんだかんだで、自分に興味が出てくるお年頃になったんだと思いますよ(笑)。それに、ここ最近男女問わず、魅力のあるボーカルやプレイヤーなど、色々な方々との刺激的な出会いも多いので、その中で縁あって新しい共犯者と、新しい魔法を生み出せるのではないかと考えてワクワクしています。


(取材=神谷弘一)