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映画の“アトラクション化”はどう展開してきたか? 渡邉大輔が映画史から分析

2015年09月07日 12:31  リアルサウンド

リアルサウンド

Chuck Zlotnick / Universal Pictures and Amblin Entertainment

 今年の夏は邦画、洋画とも比較的、話題作、ヒット作が目白押しでした。とくに洋画では、初夏からお盆休みにかけて『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』、そして、さきごろ日本国内興行収入60億円に迫り、今年度公開映画第1位に躍りでた『ジュラシック・ワールド』……と、続々とメジャータイトルのハリウッド大作が公開され、軒並み大ヒットを飛ばしています。


 これらの大ヒット作では、ご存知のように、最新のVFX(視覚効果技術)を駆使して宇宙空間や太古の恐竜など、わたしたち観客の視覚的な驚きや好奇心を存分に刺激する映像表現の奔流を全面に押しだしています(なお、邦画ではこの傾向は、近年流行りのマンガ原作の実写映画で顕著に見られます。この点は近刊の『ユリイカ』誌10月号で論じました)。とりわけ重要なのは、ここ数年、それに加えて3D上映をはじめ、IMAX(高精細上映)シアター、4DX(体感型)シアターなど、ゼロ年代末からのデジタル(DCP)上映の浸透に伴って、映画館そのものがこうした傾向を強力に促進していることでしょう。


 また、最近では似たような作品は、なにもハリウッド大作に限らなくなっています。たとえば、昨年話題になった『リヴァイアサン』(12年)のように、それは「アート系」のドキュメンタリー映画などの趣向にも見られるようになっています。いまや、ある意味で映画は「観る」、もっといえば語られる物語を「読解する」ものではなく、いわば「体感」するものになりつつある。そして、こうした体感型=体験型の映像鑑賞はおそらく、Google Glassのようなウェアラブルデバイスや、ブレイン・マシン・インターフェースが日常化する2010年代後半ころにはさらに進行していることでしょう。


■映画のアトラクション化とは


 こうした一連の動向をさして、「映画のアトラクション化」ということが、最近、またいわれはじめているようです。この場合のアトラクションとは、おそらくディズニーランドなどのテーマパークにある「スター・ツアーズ」のような「ライド型アトラクション」、ないしは遊園地のキャラクターショーのような「イベント型アトラクション」のことを想定しているのだろうと思います。アッと驚くような恐竜のスペクタクル映像が画面から飛びだしてくるのを、ガタガタと動く観客席でドキドキしながら楽しんだり、ライブ中継されたアイドルのコンサートをペンライトを振りながら歓声をあげて鑑賞する昨今の映画館は、さしずめテーマパークや遊園地のアトラクションと同じものになっている、というわけです。


 このコラムでは、この現代映画の「アトラクション化」が示す問題について、映画の歴史をおさらいしながら整理しつつ、わたしなりに気になる問題を指摘してみたいと思います。


■映画のアトラクション化の背景


 そもそも映画産業や映画論の世界で、映画の「アトラクション化」ということが問題になりはじめたのは、じつはかなり前、70年代後半から80年代にさかのぼります。


 まず、この時期は、世界中どこでも映画の変革期でした。かいつまんでいうと、長らくハリウッドをささえてきた撮影所システムが機能不全を起こして新たな産業モデルの構築が急務となる一方、かたやテクノロジーの進歩や表現コードの変化で、それまでは不可能だったさまざまな映像表現が実現できるようになりました。そこで台頭してきたのが、いうまでもなく『スター・ウォーズ』(77年)のルーカスや、『E.T.』(82年)のスピルバーグといった新世代の映画監督たちです。


 かれらは特殊視覚効果技術を縦横に用いて、古典的なハリウッド映画のように、映像編集によって物語を語るだけでなく、(ここがやはり重要なポイントですが)「驚異の映像体験の全面化」によって観客をスクリーンに引きこんでいった。また、ケーブル・テレビやテーマパークといった新たな映像メディアや消費文化と、いまふうにいえば積極的に「メディアミックス」することによってマネタイズしてゆくという産業構造を確立していきます。まず、「映画のアトラクション化」の問題は、基本的にはこの変化に由来しています。


 そして他方で面白いことに、これとほぼ同じ時期、今度は映画の学術的な研究の世界でも、「映画のアトラクション化」ということがさかんに問題になるのです。たとえば、その代表的な例がトム・ガニングというアメリカの映画研究者が86年に書いた、その名も「アトラクションの映画」という論文です(日本では『アンチ・スペクタクル』という論文集で翻訳が読めます)。


 ガニングがこの論文で扱っているのは、じつは一般に「初期映画」と呼ばれる、1900年代半ばくらいまでに作られていた草創期の映画です。そのころの映画は、当然まだいまのような物語はついておらず、「写真が動く」ということ自体が珍しい見世物の一種でした(実際、明治末期の日本では「映画」は同じ見世物として「レントゲン撮影」と一緒に興行されていました)。したがって、初期映画の映像は、そもそも物語以前の、観客の視覚的好奇心やショック効果――「活動写真SUGEEEE!」的な感情――に直接訴えかけることを目的に作られており、その要素をガニングは「アトラクション性」と名づけたのですね。スクリーンの奥から疾走する汽車がこちらに飛びだしてくると勘違いし、席を立って逃げだしたという有名なエピソードを知っているひともいるでしょう。


 さらにここで、ガニングや、のちのミリアム・ハンセンなどの研究者が指摘したことで重要なのは、そうした初期映画が示すアトラクション性とは、その後の近代に作られた古典的な物語映画を飛び越えて、まさにルーカス/スピルバーグ的な現代ハリウッド映画の映像表現にも重なるという点です。したがって、「映画のアトラクション化」を考えるにあたっては、第一に、それがもともと現代映画において典型的な特徴であり、第二に、にもかかわらず(もしくはだからこそ)、映画の草創期にすでに見られた特徴だったことを理解することが重要なのです。


■アトラクション的な映画の行く末は?


 さて、以上の点を踏まえて、昨今の動向に対するわたしなりの考えをごく簡単に述べておきたいと思います。


 現在の映画のアトラクション化は、基本的には、いま述べた70~80年代以降の変化から地続きのものだと思います。ですが、やはり21世紀に新しくつけ加わった要素もある。それは、いわゆる「Web2.0」以降の新たな情報メディア環境とのかかわりでしょう。


 繰りかえすように、かつてガニングはアトラクション性という要素で、初期映画と80年代の現代映画の共通項を見いだしました。ただ以前、拙著『イメージの進行形』(人文書院)でも論じたように、このことはインターネット以降の映像環境にもほぼそのまま該当するといえます。


 たとえば、いまでいえば、俗に「6秒動画」とも呼ばれるTwitterの動画アプリ、「Vine」というのがあります。たった6秒の動画がTLを開いていると延々、ループ再生されるものです。だからこそその動画のネタは、だいたい一種の「大喜利」のような、脊髄反射的な笑いやショックを与える内容になっています。こうしたVine動画は、その仕様も含めて、19世紀末にトーマス・エジソンが発明した「キネトスコープ」で撮られた初期映画のシステムや内容そっくりです。あるいは、拙著でも論じたニコニコ動画の「踊ってみた」動画にせよ、またこれも若者に大人気の「ゲーム実況」動画にせよ、形式だけとれば、どれも初期映画によく似たようなコンテンツや興行が人気を博しています。


 いずれにせよ、わたしの見る限り、最近のハリウッド映画の題材は、どこかこうしたSNS上に流通するアトラクション的な動画群と共通するようなものになっているのです。


 どういうことかというと、たとえば、おおぜきれいかやけみおのVine動画でも、あるいはHIKAKINやはじめしゃちょーのようなYouTuberの動画でも、とにかくだれもがパッと見て笑える、驚けるという脊髄反射的で情動的な反応を狙っており、しかもそのネタがどんどんエスカレートしていっている。その結果として、昨今のネット動画のネタは、いわばどんどん「一発ネタ化」、かつ「出オチ化」が極端なものになっているのです。そして、こうした傾向は、一部のアトラクション化した現代映画のスペクタクルや映像表現にも見られるようになっていると思われます。


 わたしが最初にそのことを深く実感したのが、これも公開時に大きな話題を呼び、オスカーも獲得したアルフォンソ・キュアロン監督の『ゼロ・グラビティ』(13年)でした。


 冒頭の圧倒的な長回しをはじめとして、全編が精巧なVFXによる宇宙空間で展開される本作は、わたしたちにデジタルシネマ時代の新たな映像表現の可能性を存分に実感させました。が、一方で強烈に不穏さも感じたのは、いわば本作のきわめてYouTuber的な「出オチ感」でした。「こんなことやっちゃいました。すごいでしょ」という、「コンセプトのアトラクション性」です。要するに、『ゼロ・グラビティ2』は絶対に作れない。そしてそれは、たとえば「いろんな飲み物を炭酸飲料にしてみましょう!」などのはじめしゃちょーのYouTube動画と、あまり変わらないように思うのですね。


 これを「映画的想像力へのアテンション・エコノミーの侵入」と表現してもよいですが、ともあれ、ハリウッド、また大作映画でなくとも、たとえば『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14年)、『リヴァイアサン』、そして、『ザ・トライブ』(14年)……など、いま、こうしたタイプの映画は、世界的にひとつの系譜的な潮流を作りつつあるように見えます。


 また、その一方で、個々のコンテンツのランダムアクセス性や冗長性がすっかり常態化しているデジタル環境を前提に、これとはまったく対照的に、あたかもオンラインゲームのごとく、より多くのひとびとが参入しやすく、あとからいくらでも共有・改変のできるシリーズ化の余白を残した「世界観」や「設定」をゆるくセットアップしておくことのほうに意を用いるハリウッド大作が台頭してきてもいる。こちらは、『アベンジャーズ』(12年)などのマーベル映画や、J・J・エイブラムスの作品などが典型的でしょう。


 おそらく現代のハリウッドのアトラクション化は、この「二極化」したふたつのタイプの映画のあいだで生まれているといえます。ただ、わたし自身は、『ゼロ・グラビティ』のような、前者のアトラクション映画に対して、あまりサステナブルな方向性が見いだせない、というのが率直なところです。


 そして最後につけ加えておけば、このように、一方で現代映画の典型的な徴候として「アトラクション性」ということが問題にされ、また他方で、それがはるか昔の初期映画の時代にすでにあったものだと歴史的な相対化がなされている。しかし、だからこそわたしたちはここで、アトラクション的な要素が希薄であった20世紀の古典的映画がオーソドックスな映画のあり方であり、21世紀の現代映画や19世紀の初期映画はそこからの進化ないし逸脱であったという見取り図そのものも、より広い視野から見直さなければいけないのかもしれません。


 今年のはじめに日本でもヒットしたトマ・ピケティの『21世紀の資本』をはじめ、現在、いたるところで「20世紀≒近代特殊論」が提起されています。わたしたちが長らく自明視してきた近代という時代こそ、長い人類の歴史から見れば、特殊な時代であったという考え方です。映画の世界もまた、アトラクション的でなかった時代の映画がむしろ「例外」であり、いまのような形の映画こそが「本来」の映画の姿なのだという戦略的な認識の転換もありえるでしょう。その意味でも、最近のハリウッド大作は多くのことを示唆してくれます。(渡邉大輔)