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シンプリー・レッドのギタリスト鈴木賢司が語る、在英27年のキャリアと音楽シーンの変化

2015年09月06日 18:41  リアルサウンド

リアルサウンド

鈴木賢司

 全世界でのアルバム・セールス合計は6000万枚以上。「ホールディング・バック・ザ・イヤーズ」(‘86年)、「二人の絆」(‘89年)で全米NO.1を獲得し、全英トップ40入りしたシングルは40曲以上ーー輝かしい実績を持つスーパー・バンド、シンプリー・レッドが再結成を果たし、約8年ぶりとなるニュー・アルバム『ビッグ・ラヴ』をリリースした。このバンドの特徴である“ブルー・アイド・ソウル”のテイストがストレートに反映されたシングル「シャイン・オン」を含む本作は、この秋からスタートする大規模なワールドツアーとともにすでに世界中で大きな反響を集めている。


 今回、‘98年からシンプリー・レッドのギタリストをつとめる鈴木賢司のインタビューが実現。アルバム『ビッグ・ラヴ』の制作エピソード、バンドの中心であるミック・ハックネルとの関わりについて語ってもらった。


 また、彼のギタリストとしてのキャリアにもフォーカス。10代の頃から“天才ギター少年”と呼ばれ、‘83年にアルバム『Kenji Suzuki』でデビュー。‘88年、共演したジャック・ブルースの強い勧めにより活動の場をロンドンに移した鈴木。以降、約30年に渡ってイギリスで活躍してきた彼の言葉は、多様化、グローバル化が進む現在のシーン、そして、これから先の音楽の在り方に対する刺激的なヒントに満ちている。(森朋之)


・「シンプリー・レッドのギタリストと言えば、どこでも通じる」


ーーまずはシンプリー・レッドの新作『ビッグ・ラヴ』について聞かせてください。シンプリー・レッドは2010年に解散しましたが、鈴木さんはミック・ハックネルのソロ・プロジェクトにも引き続き参加していて。このタイミングでシンプリー・レッドが活動を再開したのは、どうしてなんですか?


鈴木賢司(以下、鈴木):ミックのデビュー30周年ということで、「お祝いとしてシンプリー・レッドのツアーをやろう」という話が最初にあったんです。それに合わせてオリジナル・アルバムを作ることになり、後期のバンド・メンバーが集まったんですよね。ミックは『アメリカン・ソウル』というソロ作品を2012年にリリースしたのですが、それは古いR&Bのカバーが中心だったんです。今回は久しぶりのオリジナル作品なので、やっぱり気分は違いましたね。リスナーのみなさんが思っているシンプリー・レッドの(イメージに近い)演奏を心がけていたので。


ーー確かに『ビッグ・ラヴ』はシンプリー・レッドの王道とも言える作品だと思います。ドラマティックでスウィートなメロディを軸にしたブルー・アイド・ソウルがたっぷり楽しめて。


鈴木:ミックスしたものを聴いたときは、僕のギターのバランスがわりと大きくて、ちょっとビックリしましたけどね。『アメリカン・ソウル』のときはミックがフェイセズのツアーに参加した後だったこともあって、ギターにこだわっていたんですが、今回もギターサウンドが強調されていて。もちろん、使い方は違いますけどね。シンプリー・レッドのギターは、土臭くなりすぎないようにしているので。


ーーロック、ソウル、ファンクなど幅広いサウンドが取り入れられているのも、シンプリー・レッドらしいですね。


鈴木:ミック自身、すごく音楽の趣味が幅広いんですよ。モーツァルトからパンク・ロック、モーターヘッドまで、本当にいろいろな音楽を聴いているので。ツアー中、バスのなかでミックがDJをしてくれるんですけど、そのときも次から次にいろんな曲が出てくるんです。しかもシチュエーションによって変えるんですよね。たとえばオーストリアあたり、ドナウ川の脇を走っているときはクラシック・ミュージック。移動が長くてメンバーが疲れているときはニール・ヤング、ローリング・ストーンズなどのカントリー・テイストのロック。夜中、お酒を飲みながらみんなで話しているときは、キング・ダビー、リー・ペリーといったダブ。そういうことを気にしながらDJしてくれるんですよね。


ーー素敵ですね! ちなみにツアー中の移動はバスが多いんですか?


鈴木:そうですね。お客さんの移動に巻き込まれないように、ステージが終わったらすぐにバスに乗って出発することもあります。車内にはケータリングが用意されていて、ワインで乾杯して、ミックのDJで音楽を聴いて。寝台、リビング、シャワーも付いているんですよ。バスのなかで寝ることもあるし、ホテルに到着してから昼過ぎまで寝て、次の会場に入ることもあるし。ヨーロッパは地続きで違う国に行けるし、歴史的にもエンターテインメントに対する体制がしっかり整っているんですよね。ヨーロッパでの移動は大型の2階建てバスなんですが、バンドだけではなく、スポーツのチームだったり、劇団が使うこともあって。


ーーなるほど。シンプリー・レッドの制作はどのように進められるんですか?


鈴木:アレンジに関しては、バンドやプロデューサーが中心になってやる感じですね。ミックは歌詞とメロディ。彼の楽曲はいつも“なぜ、これを歌うのか”という理由がハッキリしているし、当然、声の音域、声質も理解しているので、常に長く歌い続けられる曲を書いてくるんです。僕らに聴かせるときはシンプルなギターのコードと歌だけなんですが、そこからコードを変えたり、アレンジを加えたりしながら、最終的な形にまで持っていきます。


ーーすごくバンドらしい作り方ですね。「ザ・ゴースト・オブ・ラヴ」ではワウ・ギターが活かされていますが、あのアレンジも鈴木さんのアイデアなんですか?


鈴木:それに関してはおもしろい話があるんですよ。去年の夏、ツアーのポスターをロンドンで撮影したんですが、「ザ・ゴースト・オブ・ラヴ」のラフテイクを聴きながら、トランペットのケビン(・ロビンソン)がワウ・ギターのフレーズを口で歌っていて。そのときからミックが「いいアイデアだな」って言ってたんですが、僕がフジロックのために一旦日本に行ってからロンドンに戻ると、ミックからすぐに連絡があって「例のワウ・ギターをオーバーダブしたい」って言われたんですよね。


ーーライブ映えしそうな曲も多いですよね。


鈴木:新しいアルバムからも数曲は演奏する予定ですが、さきほど言ったように、今回はミック・ハックネルのデビュー30周年が目的なので、シンプリー・レッドのクラシック・ヒットが中心になるでしょうね。すごく盛り上がると思いますよ。


ーーヨーロッパにおけるシンプリー・レッドの人気ぶりは、日本にはなかなか伝わってこないですからね。


鈴木:そうですね。日本はどうしてもアメリカ経由のものが多いと思うので。シンプリー・レッドはずっとアリーナ、スタジアムで演奏してきたし、ヨーロッパだけではなく、南米でも人気があるんですよ。ローリング・ストーンズがリオデジャネイロで100万人のコンサート(2006年)をやりましたが、次の年はミックがオファーを受けていたらしいんです。結局ミックはやりませんでしたが、ブラジリアのフェスティバルに出演したときは60万人集まって。60万の人を一度に見ながら演奏するのも、めったに出来ない経験ですよね。


ーーすごい知名度ですね。


鈴木:空港のイミグレーションでも、「シンプリー・レッドのギタリスト」と言えば、どこでも通じるんです。そのネームバリューの大きさには驚かされるし、そういうグループに迎え入れてもらったことは感謝してますね。


・「日本にいたときとはまったく違うモノの見方、音楽の感じ方が出来るようになってきた」


ーー鈴木賢司さんご自身のキャリアについても聞かせてください。10代の頃から天才ギター少年として注目を集め、’83年、19歳でレコードデビュー。華々しいスタートだったわけですが、87年にジャック・ブルースと共演したことをきっかけに渡英。これだけでもすごい人生ですよね。


鈴木:レコードを出す前は「TVジョッキー」(‘71年~‘82年にかけて放送されたバラエティ番組)なんかに出て学生服姿でギターを弾いたんですが、もしかしたらその頃がいちばん有名だったかもしれないですね(笑)。それからレコードを出して、ジャック・ブルースに勧められてイギリスに行くことになって。でも、当時のイギリスの音楽シーンは僕の想像とはぜんぜん違ってたんですよ。ちょうどダンス・ミュージックが出始めていて、楽器を弾く人はぜんぜんいなかったんです。


ーー80年代後半のハウス・ミュージック、アシッド・ジャズのムーヴメントですね。


鈴木:ええ。いわゆる「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の時期で、アメリカからエクスタシーというドラッグが大量に流れてきて。仕事もない、お金もない若者が空きビルに侵入して、DJとスモーク・マシーンでパーティをやってたりするんですよね。そこで必要されるのは情緒のある音楽ではなく、ダンス・ミュージック。テクノ、レイヴの先がけだったわけですが、そのシーンを目の当たりにしてしまったんです。僕としてはソロ・ギタリストとしてブルース、ロックをやろうと思ってイギリスに渡ったんですが、そういう音楽をやっていたのは僕よりも2世代くらい上の人たちで、「すでに完成された音楽」という扱い。アメリカのLAなどにはいつの時代もロックが存在していますが、イギリスはぜんぜんそうじゃなかったんですよね。その頃は「イギリスに来るタイミングを間違えたかもしれない。もうギターは必要ないんじゃないか」とまで思いました。日本はまだバンドブームだったから、「日本で活動していたほうが良かったかな」とか。


ーーいきなり出鼻を挫かれた、と。


鈴木:ただ、僕はやっぱりギタリストですからね。いままでとは違うギターの使い方は出来ないだろうかと考えていたときに、クラブで偶然、Bomb The Baseのティム・シムノンと会ったんです。彼はエレクトロのオリジネイターみたいな存在だと思うんですが、「自分の楽曲にギターを使いたい」と言っていて。そこから、ダンス・ミュージックにギターを合わせるということを始めるんです。まだストーン・ローゼズが登場する前なんですけど、DJのターンテーブルとギターで、ロンドンのクラブでギグをやってたんですよね。そこによく来ていたのが、ジーザス・ジョーンズのメンバー。彼らの1stアルバム(『リキダイザー』/‘90年)にはスペシャル・サンクスとしてBomb The Baseの名前が入っているくらいなので。そういえばこの前、布袋寅泰さんのライブでジーザス・ジョーンズのシンガー(マイク・エドワーズ)に偶然会ったのですが、そのときも「(Bomb The Baseに)すごく影響を受けた」って言ってましたね。


ーーBomb The Bassの活動はその後、どう展開したのですか?


鈴木:ちょうど湾岸戦争(‘90~‘91年)があったんですよ。その影響で“Bomb”という言葉が使えなくなって、結局、ティム・シムノンの名義でリリースすることになったんです。そのアルバムの曲がヒットして「TOP OF THE POPS」(イギリスBBCで放送されていた生放送の音楽番組)で演奏したんですが、ちょっとツイてなかったかなって思いますね、いまになってみると。MASSIVE ATTACKも“ATTACK”が使えず、MASSIVEという名前で活動してた時期もあるんですよ。


ーーなるほど…。ただ、イギリスのシーンに生まれた新しい潮流をリアルに体験したわけですよね。


鈴木:そうですね。日本とはまったく違うシチュエーションに巻き込まれて、そこにどっぷり浸かって。
そのときに浄化されたところもあると思うんですよ。日本にいたときとはまったく違うモノの見方、音楽の感じ方が出来るようになってきたというか。そこには気候、食べ物、文化も含まれると思いますが、その時期を通過したことによって、イギリスのシーンに適応出来たんじゃないかな、と。いまではそう思ってますね。


ーー実際、その後は様々なアーティストの作品に参加してますよね。『Seal』(Seal)、『Diva』(Annie Lenox)、『Corinne Bailey Rae』(Corinne Bailey Rae)などジャンルもすごく広くて。


鈴木:もともと僕は音楽的には雑食なんです。ギターを弾く理由も、いろんなジャンルのなかで自分のフィルターでろ過した表現をしたいということなんです。最初はブルース・ロックが中心でしたが、ヘヴィメタルなども聴いていたし、イギリスに行く前にニューヨークでヒップホップ・カルチャーも経験していて。イギリスに行ってからも、ブラック・ミュージックを聴き始めたり、貪欲に好きなものを取り入れてきました。日本にいた頃の僕を知っている人は「何でシンプリー・レッドなんだろう?」といまだに不思議に思っているかもしれないですが、80年代後半にDJカルチャーに触れて、その後もいろいろな音楽を取り入れながら、いまの自分になったんですよね。


ーーシンプリー・レッドには、どんな経緯で加入したんですか?


鈴木:屋敷豪太さんに誘ってもらったのが、直接のきっかけですね。豪太さんは僕の半年後くらいにイギリスに来たのですが、ソウル・Ⅱ・ソウルのシングルを手掛けたり、僕もすごく影響を受けていて。その後、豪太さんはシンプリー・レッドにドラマーとして加入して、アルバム『ブルー』ではCO-PRODUCERとして関わっています。で、あるときに豪太さんから「シンプリー・レッドのミックが、アリーナやスタジアムなどの大きな舞台をしっかり使えるロック・ギタリストを探している」という話があって。実際に参加したのは‘98年からですね。


ーーシンプリー・レッドは‘80年代から世界的ヒットを出し続けていますが、賢司さんはどんな印象を持っていたんですか?


鈴木:日本を離れる前に、当時開局したばかりのFMヨコハマで番組を持たせていただいていて、そこでシンプリー・レッドの初期のヒット曲もかけていたんです。日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと言われていて、ホール&オーツ、カルチャー・クラブと並んで知名度があって。ミックはシルキーな声で、楽曲も洗練されていますが、じつは“セックス・ピストルズの最初のコンサートを見た30人のうちのひとり”というバックグラウンドもあるんですよね。そういうことも僕が長い間ギタリストとして(シンプリー・レッドに)収まっている理由だと思います。


ーーなるほど。


鈴木:さきほども「ミック自身が歌う理由がわかっている」と言いましたが、彼の根本には“自分たちは支配されている”という考えがあるのだと思います。本来はその土地に根差した生活、文化があるべきなのに、いまは資本主義のルールが第一になってしまっているし、そのことにみんなも気付いてほしいと。ミックは幼いころに貧しい生活をしていたようで、「どうしてこうなっているんだろう?」という疑問がつねに表現の根本にあるんですよね。


ーーレヴェル・ミュージックとしての側面がある、と。


鈴木:そうですね。彼の音楽の要素にパンク、レゲエ、ファンク、ブルースが入っているのも、そういうことだと思います。


「“売れてる”とか“売れてない”ということにはそれほど価値があるとは思わない」


ーーイギリスに活動の拠点を移した後、日本のミュージシャンとの交流はどうなっていたんですか?


鈴木:80年代は日本のミュージシャンがけっこうイギリスに行ってたんですよ。プラスティックスの中西俊夫さんだったり、土屋正巳さんだったり。当時はみんなで友達付き合いしてましたけど、みんな日本に帰っちゃいましたね。最近、布袋さんがロンドンに来たので、プライベートで会うこともありますよ。もっとも若い人とはあまり接点がないからわからないですけど。


ーー日本人のミュージシャンがヨーロッパで活動しようと思ったら、やはり大きな壁があるんでしょうか?


鈴木:まずはビザの問題ですよね、いまは保守党の政権だから、外国人に対する政策はわりと厳しいので。円安の問題もあります。イギリスの地価、不動産の値段は世界一高いレベルになっているので、ポンドで稼げないと、生活が成り立たないというか。それはミュージシャンやDJだけではなくて、ファッション・デザイナーや俳優も同じですが。


ーー音楽的な技術、センスに関してはどうでしょうか?


鈴木:さっきも少し言いましたが、向こうの人たちと近いモノの見方、考え方が出来るか、それを理解できるかどうかが大事でしょうね。日本はどうしてもアメリカ経由のコマーシャルナイズされたエンターテインメントが中心なので、その感覚でヨーロッパに来ると肩すかしを食らうというか。まさにロンドンに渡ったばかりの頃の僕がそうだったわけですけどね。


ーーでは、日本のシーンについてはどんなふうに感じていますか?


鈴木:27年も日本から離れているので、シーンを語れるほどの知識や情報はないんですけどね。ただ、インターネット以降、どんどん多様化が進んだじゃないですか。いまは“売れてる”とか“売れてない”ということにはそれほど価値があるとは思わないんです。たとえばジャイブ・ミュージックを追求して、海外のフェスに出演することになれば、肌の色は関係なく、どれだけオーセンティックなジャイブを演奏できるか?ということになりますよね。海外のアーティストとつながる機会も増えてると思うし、そういう意味では健康的なんじゃないかなと。コマーシャルなことに徹しようとする人は、そのなかで起こる問題やストレスを抱えながら生きているでしょうけど。


ーー決して悲観はしていない?


鈴木:そうですね。たとえば噂で聞いただけなんですが、ピーター・バラカンさんが50代後半のブルース・ギタリスト(昨年、『濱口祐自フロム・カツウラ』でデビューした濱口祐自)を推したりするのもすごくいいなって思うし。音楽が細分化されているからこそ、そういうミュージシャンが発見されたりすると思うんですよね。


ーー最後にこの後の予定を聞かせてください。シンプリー・レッドは9月にロシアで演奏するそうですね。


鈴木:そうなんです。ソウル経由でウラジオストックに行って、そこで演奏する予定です。その後はロンドンに戻ってツアーのリハに入って、10月、11月、12月はヨーロッパ・ツアー。来年の春にもヨーロッパと南米でツアーをやって、夏はフェスかな。その後も出来ればツアーを続けて、アジアも回りたいですね。そのときはぜひ日本でもやりたいですが、それはまだわかりません。


ーー“Kenji Jammer”としてのソロ活動もあるし、活動の幅は本当に広いですよね。


鈴木:いろんな時代、いろんなところで僕の音楽を聴いて、フォローしてくれるファンがいてくれるのも嬉しいですね。Kenji Jammerとしては「Hula Hula Dance」というハワイアンとダブを融合させたチルアウトな音楽をやってるんですが、そこから僕のことを知った人は、フジロックで派手にギターを弾いてると「あんなに激しく弾くこともあるんですね」って驚いたりするんですよ。シンプリー・レッドもそうですけど、活動を続けることでそれぞれの活動の違った側面を少しずつ認識してもらって、その点を線で結んでもらえるようになって、やっと最近は「なるほどね」と理解してもらえるようになったというか。


ーー“ギタリスト・鈴木賢司”の全体像が浸透してきたと。


鈴木:以前は「これだけ違う活動をやってたらなかなか理解してもらえないだろうな」と思っていた時期もあるんですけどね。30年近く経って、こうやっていろんな真実を語れるのもいいことだと思うし。続けてきて良かったですよ。


(取材・文=森朋之/撮影=下屋敷和文)