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『テッド2』お下劣ギャグと人権問題の意外な関係とは? 過激な表現の意図を読む

2015年09月06日 09:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C) Universal Pic tures.

 外見はかわいいクマのぬいぐるみ、中身は大麻を吸いまくり下ネタを連発する中年おやじというキャラクター、テッドが劇場に帰って来た。とくに日本で『テッド2』は、前作を超える出足で観客を集め、人気の健在ぶりを証明している。アメリカン・コメディー映画は当たらないと言われ、ヒット作であっても劇場公開されることが少ない日本で「テッド」が予想外の成功を収めるのは、ゆるキャラなどマスコット文化が根付く土壌のおかげだろうか。本作でも、困り顔の切ない表情や、燕尾服を着てフレッド・アステア風のダンスを踊ったりと、前作より強調されたキュートさは、観客の心をつかむ。そして同時に、お下劣ギャグや危険なネタも前作以上にパワーアップしている。


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 それにしても、なぜこんなにも下品かつ危険なジョークに満ちているのか疑問に思う観客も多いだろう。 今回はその背景や、意外と深い作品のテーマを追求することで、『テッド2』の魅力をより明らかにしていきたい。


■どうしてここまでお下劣なのか


 テッドを創造し、自らテッドの声、そしてモーション・キャプチャーで動きまで演じるのが、多才なセス・マクファーレン監督だ。もともとオタクなアニメーション作家であり、その面白い性格から、コメディアンや俳優としても活躍し、アカデミー賞の司会に抜擢された際は、まさにテッドと同じような調子で差別的なネタや、芸能人のタブーを笑いものにする過激なギャグを連発したため、一部から批難を浴びてもいる。


 そんな彼が制作し脚本を書いたTVアニメーション「ファミリー・ガイ」が、『テッド』の過激ギャグの原点だ。同じくフォックス放送で長年放送されているブラックなファミリー・コメディー、「ザ・シンプソンズ」と同じ路線だが、その下らなさと過激さ、下品さは、「ザ・シンプソンズ」や「サウスパーク」以上である。この作品のキャラクター達の多くも、マクファーレン自身が声で演じている。


 「ファミリー・ガイ」は、 例えば、家族みんながリビングで延々と嘔吐し続けるだけの様子を、数分間流し続ける場面があったり、乗用車のバンパーにつないだロープで飼い犬を引きずり回し、犬が血だるまになり重い障害を負うなど、過激というよりは異常性を感じさせるほど、TVで放送するにはひど過ぎる描写にあふれている。下ネタ、人種差別ネタ、大麻の吸引、偉人をバカにする、理由のない暴力、子供を殴る、突然の死など、現在の日本では考えられないような要素がエンターテインメントとして扱われている。これは、セス・マクファーレン監督の持ち味なのだ。これらの要素は幾分マイルドになって、「テッド」シリーズにも受け継がれている。だから、これから『テッド2』を誰かと鑑賞しようと考えている人は、本音や下ネタを言い合えるような相手と一緒に劇場に行く方が、より楽しめるだろう。そして、このような過激なギャグの楽しさに一度目覚めてしまうと、日本の多くの作品の穏当さに物足りなさを感じるようになる人も多いはずだ。


 アメリカでも拒否反応があり批判もされる、このようなマクファーレンの過激ギャグについて、全てを擁護するようなことはしたくないが、それでもあっぱれだと思うのは、彼はある意味で、差別なく全てのものをバカにして、笑いの対象にしているという点だ。『テッド2』でいろんな人物がギャグとして扱われているように、あらゆる政治的信条も、人種も、貧富の違いも、病気や障害を持った人も、老若男女も動物も、彼のギャグの対象になることからは逃れられない。この、全方位を敵にまわす姿勢を保つことが、コメディアンとして、クリエイターとしての彼の信念なのだ。その意味で、彼のギャグは逆説的にバランスが取れているといえるし、より過激に、より下らないシーンが増えた『テッド2』は、前作よりマクファーレンの個性が発揮されているといえるだろう。


■テッドとともに生きるということ


 『テッド2』でも、人間の親友ジョン(マーク・ウォールバーグ)との関係はもちろん健在だ。前作では、少年時代のジョンと、命を持ったぬいぐるみテッドの出会いが描かれた。その姿は、まるで「くまのプーさん」とクリストファー・ロビンの姿を思い出させる。クリストファー・ロビンは、小学校に行く年齢になってプーさんと別れる決意をするが、ジョンはその後、35歳を超えても、まだテッドと別れようとしない。


 「くまのプーさん」が、少年の頭の中の楽しい夢の世界を具現化していたように、テッドも、ジョンの子供時代に見た夢の象徴であるだろう。中年になってもテッドと暮らしているジョンというのは、子供の頃のたわいのない夢をいつまでも持ち続け、成長しないまま、無駄な知識や大麻の味だけ覚えた中年になってしまった男であるといえる。少年時代にお気に入りだった『フラッシュ・ゴードン』を、いまでもテッドと一緒に楽しんで観ていることからも、そのことが分かる。いつまでも子供のままでいたいジョンは、パートナーと結婚し自分の家族を作るという大人の責任から逃げ続け、毎日のようにテッドと一緒に大麻でハイになりながらTV番組を見ているような生活を送っていたが、恋人から「テッドを捨ててほしい」と迫られたことで、やっと彼はテッドと別居し、その期待に応える。だがそれは、「くまのプーさん」のような決定的な別れとは異なり、結局はお互いの家にいりびたり、大麻でハイになる。ここが、マクファーレンの考え方が強く反映されている部分だ。


 確かに、完全に子供の頃の気持ちそのままで世の中に適合することは無理だ。だが、子供の頃の夢や想像力を全部捨て去っても良いのだろうか。たまに会って、コメディアンをひやかしたり、ジョギング中の男性に屋上からリンゴをぶつけて喜ぶテッドとジョンの関係のように、半分成長して社会と関わりを持ち、半分成長しないで子供のような感性も大事にし続けるという生き方もあり得るのではないか。それは、子供っぽいいたずら心でバカなアニメや映画を作り続けるセス・マクファーレン監督自身が体現する生き方でもある。大人になっても、半分は子供のままバカをやって、楽しく人生を過ごすこと。それがテッドとともに生きるという意味である。


■テッドは「人間」か、「所有物」か。


 さて、続編である『テッド2』では、さらに新たなテーマを設定している。それが、テッドの人権問題である。ぬいぐるみでありながら、仕事の同僚であるスーパー・マーケットの看板娘と結婚したテッドは、倦怠期を迎え、養子を見つけようと画策する。しかし役所では、テッドは「人間」でなく「所有物」であると結論づけられ、養子を迎えることを拒否されてしまう。ジョンとテッドは、弁護士見習いである若い大麻好きの女性(アマンダ・セイフライド)を仲間に加え、物語は意外にも法廷での闘いに焦点が移っていく。ただ、そこはやはり「テッド」。作戦を練るために法律図書館に行ったところまではいいものの、三人はそこでやはり大麻を吸いまくりハイな状態で青春ミュージカル映画『ブレックファスト・クラブ』風のダンスを踊ったりするだけだ。全く勝てる気がしない。


 劇中でちらっと名前が出るが、この法廷劇は、約150年前にアメリカで実際に起きた、「ドレッド・スコット判決」を基にしている。言うまでもないが、アメリカ白人の商売人達は、かつて南部を中心に、アフリカから連れてきた黒人を強制的に働かせ、利益を得ていた歴史がある。ドレッド・スコットは南部の黒人奴隷であったが、奴隷制のない州に行った際、自分が奴隷であることは違法であると裁判所に訴えた。だが裁判所は、黒人は「人間」ではなく「所有物」なので、そもそも裁判所に提訴する権利自体がないと判決を出した。しかし、アメリカ国民の間でこの判決は問題となり、それがきっかけで、人権派であったリンカーンが台頭し、奴隷制を廃止する展開になったのだ。つまり、この裁判は奴隷解放を生む歴史の転換点になったのである。


 劇中の裁判では、「テッドに魂があるか」ということが重要な点として争われる。奴隷解放前のアメリカでは、大学教授などの南部の知識人が、「黒人は魂を持たない」という考えを広めていた。アメリカ人の多くが信仰するキリスト教では、「異なる人種も、男も女も、奴隷も自由な人も、全ての人は神の下で皆平等である」とされている。しかし、黒人は家畜と同じく魂を持たないので、奴隷ビジネスをしても問題ないというのだ。もちろん、現在ではそのような判決も理論も間違いとされているが、性別や人種などに対する差別や偏見は、いまも世界中に根強く残っている。セス・マクファーレンはそのような考えを許さない。全てのものをバカにして笑うために、全てが平等でなくてはならないのだ。テッドやジョンを含め、劇中のおバカなキャラクター達は、ビジネスのため差別意識を振りまくような大人の「知識人」などよりも、はるかに知的で公平に描かれている。そう考えると、「テッド」のキャラクター達が、より愛おしく感じられないだろうか。


 テッドは果たして、人間と認められるのか。裁判の行方は映画を観てもらうとして、『テッド2』のようなお下劣な映画で、真面目に人権問題をテーマになどしなくてもいいじゃないかと思われる人もいるかもしれない。だが、このような作品をクリエイターが作り続け、我々観客が楽しむことができるのも、劇中でその重要性が強調されている基本的人権において、言論の自由や表現の自由が保障されているおかげなのだ。上からの規制や周囲の圧力によって、日々その問題に直面しているのは、「テッド」のような作品に携わるクリエイターなのである。我々観客もそれに応え、お下劣ギャグを楽しむ人権を行使する自由にひたりながら、『テッド2』に大笑いしたい。(小野寺系(k.onodera))