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レベッカが“国産ロック”にもたらしたもの 市川哲史が再結成ライブから振り返る

2015年08月30日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)には、シャケ&NOKKO二人の伝説の詳細が掲載されている。

・くじけないリスナーにエールを!


 8月12・13日のレベッカ20年ぶりの再結成ライヴ《Yesterday,Today,Maybe Tomorrow》@横浜アリーナは、両日ともに予想通りの大盛況だった。


 ヴィジュアル的にはNOKKOの若干<山田信子(51歳)化>が見え隠れしたものの、それは自然の摂理だ。それでもライヴ定番曲「76th STAR」ではダンサー2人を従えダンスを披露するなど、元祖<負けず嫌い女子>の底意地は健在だったのだから、積極的に赦せ。


 また土橋安騎夫・高橋教之・小田原豊とそもそも達者なメンバー揃いなこともあり、計3万人分の思春期でアリーナが溢れかえる絶対条件は揃っていた。そして「フレンズ」やら「RASPBERRY DREAM」やら「LONLEY BUTTERFLY」やら「MOON」やらを、一緒に唄いながら涙ぐむ<20年後のパパとママ>の姿が、会場のあちこちで見受けられた。


 11月の追加公演@さいたまスーパーアリーナもきっと、同様の光景だらけとなるのだろう。


 1984年デビュー。1991年解散。


 85年10月発表の4thシングル「フレンズ」オリコン3位の大ヒットを機に、バンドブーム黎明期に天井知らずの人気を博し、以降日本のロックで初のミリオンセールス――130万枚を記録したアルバム『REBECCAIV~Maybe Tomorrow~』を筆頭に、出すアルバム全てが80万枚以上を売り上げた。


 また、<ライヴハウス→ホール→武道館→ドーム>というロックバンドの定番出世双六を実践確立したのも、アマチュア高校生を中心にコピー・バンドが続出するというその後の空前のバンドブームの導火線に着火したのも、レベッカだ。


 要は90年代以降における日本のロックの隆盛を、BOφWYとともに全ての面で先導した「歴史的」なバンドなのだから、再結成は当然の大盛況だったわけだ。


 とまあウィキ的に書けばこんな感じになるのだろうが、私個人にとってレベッカとは音楽評論家人生の大きな転機となったバンドだったりする。実は。


 大学浪人時代のたしか1980年か、『ロッキングオン』誌への投稿から音楽評論を書き始めたと思う。死滅する脳細胞(失笑)。当時はYMOやプラスティックスなど、テクノ/ニューウェイヴ系のお洒落連動型ロックが日本でも芽生えてはいたものの、やっぱ基本というか世の趨勢は洋楽ロック。私のフィールドも当然洋楽で、リスナーもメディアもレーべルもそしてミュージシャン自身も、自覚のあるなしにかかわらず<洋楽コンプレックス>を抱えていた時代だったはずだ。


 たぶん1985年、私は名古屋で大学を卒業するとそのまま、市内の某広告代理店に就職した。教員採用の一次試験に合格してあとは二次の面接だけだったのに、受験し忘れやむなく代理店にコピーライターとして緊急入社したのだ。ところがそこは「金を稼ぐ苦労を知らずに制作ができるか!」と大時代的な熱血会社で、いきなり一年間の営業職を強いられる羽目になった。しかも新聞の求人広告を飛び込みで獲るという、1ヶ月で靴を履きつぶす不毛な武者修行だ。げろげろ。のちにプロの編集者になって初めてその不条理が活きるのだが、当時は営業に行くフリして流行り始めた漫画喫茶やらアパートで惰眠を貪る日々だった。


 ところが4月だったか5月だったか、名古屋の名所・テレビ塔の展望台で夜開催される日本の紅一点バンドとかの新曲発表イベントだかFMの公開録音だかに出席するよう、私は誰かにオファーされたらしい。わはは。それがレベッカだった。


 まったく興味も食指も動かぬまま超消極的な私に映ったレベッカは、正直とんでもなかった。NOKKOの超音波ヴォーカルと弾けんばかりの女子力には感心したものの、その新曲がよろしくない。なにせ3rdシングル「ラブイズCash」――イントロもメロもサウンドもノリもどこを聴いても、当時大流行マドンナの「マテリアル・ガール」に瓜二つだったのだから。


 よりにもよって全世界で2100万枚売った大ベストセラー・アルバム『ライク・ア・ヴァージン』からの全米2位シングルを、マリリン・モンロー主演『紳士はブロンドがお好き』の名場面を彷彿させるヴィデオクリップと共に日本でも大ヒットした楽曲を、あのナイル・ロジャース(g)+バーナード・エドワーズ(b)+トニー・トンプソン(ds)による<絵に描いたような流行最先端トラック>を、たった11ヶ月後に堂々とまんまやるとは。


 相変わらずの<洋楽コンプレックス>の裏返しっぷりに、「やっぱりな」と一気に興味を失った。と同時に、ヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を日本語詞にしただけのシーナ&ザ・ロケッツ1981年曲「レモンティー」(←そもそもの初犯は1975年のサンハウス)も想い出して、ある意味納得もした。負だけども。


・市川哲史が知らなかった世界


 翌86年1月も中旬頃だったか、例によって私のアパートで営業廻りを一緒にサボっていた同僚が、「コレ観せてもらっていい?」と1本のベータビデオ(←死語)を床から拾った。翌々月後に発売予定のレベッカの渋公ライヴビデオのサンプルだ。どこから送付されたかすら思い出せないが、全7曲わずか計41分の映像を食い入るように見つめながら、「フレンズ」やら「GIRLS BRAVO!」やら「ラブイズCASH」やらをNOKKOと一緒にずっと口ずさむ彼の姿に、驚いた。


 80年代前半を「サーフィン・車・女子」の典型的な学生で過ごした<ごくごく一般人>な彼だけに、当然聴いてきた音楽はサザンオールスターズや山下達郎、ナイアガラあたりのオーディナリーな大学生ポップスだ。ところがそんな彼がレベッカを違和感なく当たり前に聴いている。そればかりかもう二度と戻らない絆をせつなさ全開で唄うNOKKOに、心底ぐっときているではないか。


「市川くん、マドンナもいいけどNOKKOもいいんだよ(ハート)」。そうなんだ?


 どうやら私の知らないところで、日本語ロックがじわじわと侵食し始めていた。


 『ロッキングオンジャパン』が創刊されたのが86年9月だから、それまで日本のロックの新譜は洋楽誌である『ロッキングオン』で僅か2P、レヴューされるに過ぎなかった。でレベッカをテレビ塔で目撃した85年春、私はBOφWYの同名3rdアルバムの新譜評を、<矢沢永吉の系譜を継ぐヴォーカルが英国ニューウェイヴ風歌謡を唄うのだから、売れないわけがない。「暴威」より全然いい>と書いた。実際に売れたし、ここから《BOφWY伝説》が始まるわけで、なんだ先見の明あるじゃん俺。


 しかし事務所や布袋らメンバーの逆鱗に触れたらしく、以来私はずーっとBOφWYは出禁なのであった。わははは。


「『私マドンナみたいになりたい(ハート)』っていう――短絡的でしょ、そっくりなこの曲。もう汚点だわ私、一生の。あははは」


「汚点と言っちゃうと当時聴いてくれた人に申し訳ないんだけど、そうねー……バンドとしてはどうなのかなー。一般的に認められてる部分は、ハッキリ言って褒められたもんじゃなかったと思うよ。だってやっぱり、パクリのフレーズ沢山あったしさー」


 あははは。レベッカ解散後、NOKKOは「ラブイズCash」パクリ疑惑をあっけらかんと、こう肯定してくれた。男前だなぁ。


 それでも、あのマドンナもどきの怪曲が彼女にとって実はどれだけ大きい意味を持っていたのか、私は徐々に知ることになる。


 86年春に代理店を退社すると、主にタウン誌『ほっちぽっち』編集長と人気TV番組『5時SATマガジン』放送作家を始めた。偶然にも両者とも台頭しつつある日本のロックに積極的かつ意欲的なメディアだったので、否応なしに邦楽に接する機会が激増していく。


 その過程で私はレッド・ウォーリアーズというバタくさいロックンロール・バンドと出逢い、バンマスの木暮武彦が元レベッカのバンマスであり、しかもNOKKOの元彼氏だったことを知る。


 ここではバンドブーム史上に残るファンタジックな二人のラヴストーリーの詳細に触れないが、彼氏を棄ててバンドを採ったNOKKOの苦渋の選択はかの『金色夜叉』をも凌ぐドラマツルギーが、レベッカの説得力を倍増した。


「パクってようとなんだろうと、そういうのもどうでもよかったんだよね。なんかしんないけど演れさえすればねー。だけどなんて言うのかな……そうした原曲の威力を取り除いてもすごくパワフルなものが、自分でも感じられたのね。だから私は(それまでのロックなレベッカよりも)こっちの方がノレたし」


 ロックバンド命の彼氏に洗脳されてロックな歌姫に徹してきたけれど、究極の二者択一を経て「自分が本当にやりたいこと」を探求する上で、身体を張った助走がたまたま<マドンナもどき>だったのかもしれない。


 そう思うと「ラブイズCash」は、えらく切実なパクリではないか。


 そう思うと「フレンズ」は、心を鬼にして袂を分かった同志への<届かないラブレター>にしか聴こえないではないか。


 やがて『ロッキング・オン・ジャパン』の創刊とともに、私と日本のロックの関係性は加速度的に濃くなっていく。情報量が圧倒的に少なかったからこそ、洋楽ロックは我々リスナーの妄想力をかき立ててくれた。古井戸の見えない底をずーっと覗きこんでるのは、とても愉しい。しかし国産ロックは国産ロックで、方法論自体がまだまだ未成熟で底が透けて見えてたとしても、表現者の心情や心根が直接聴こえてくるのだ。極端な話、いつでも直接問いかけられる。これもまた愉しいことに気がついた。


 日本のロックも悪くないな――そして私は寸暇を惜しんで、日本人ミュージシャンたちととにかく<なにか>を共有するようになった。


 そんな自分の原点を、レベッカがひさしぶりに想い出させてくれたみたいだ。(市川哲史)