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乃木坂46、ももクロ、AKB48……演劇企画が示す「アイドルというジャンル」の特性

2015年08月27日 18:51  リアルサウンド

リアルサウンド

『じょしらく』公式HP

 2015年は女性アイドルグループの演劇企画が目を引く年だ。ももいろクローバーZ主演の『幕が上がる』は映画版とあわせて大きな話題を呼び、AKB48グループでは『マジすか学園』シリーズの舞台化やSKE48主演版『AKB49』、HKT48の『指原莉乃座長公演』が開催、また私立恵比寿中学の『エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート』や乃木坂46『じょしらく』など、人気グループによる演劇公演が立て続けに上演されている。ハロー!プロジェクトの「演劇女子部」もコンスタントに上演を重ねているが、ハロー!プロジェクトが「演劇女子部」以前にも「劇団ゲキハロ」等で長年演劇上演を重ねてきたように、アイドルグループにとって演劇は馴染み深い企画でもある。


 一方で「アイドルが演劇をすること」は、ある難しさを常にともなっている。


 アイドル演劇は、必然的に「スターシステム」としての性質を持つことになる。ここでいうスターシステムとは、高い有名性や人気を持った役者の存在を大前提にした演劇を指す。戯曲や演出などに第一の重点が置かれるタイプの作品と対照的に、特定の人気キャストの魅力に企画全体の多くを負っているような演劇をさしあたりイメージすればよいだろう。歌舞伎や宝塚歌劇は日本のスターシステム演劇の代表的なものであるし、いわゆる商業演劇という言葉で言い表されるタイプの公演も、多くの場合スターシステムが基本になっている。キャストの人気がすべてに先行するこのスターシステムは、しばしば「芸術」の対極にあるものとして扱われてきた。もちろん、スターを一番の呼び物にすることと、戯曲や演出の出来は相容れないものではないし、「スター」に高い技術を期待することも可能だ。スターシステムであることが、演劇としてのクオリティを判断する理由にはならない。


 しかしそれでも、アイドル演劇のスターシステムには困難がつきまとう。それは、アイドルグループが主体となって上演されるこれらの演劇ジャンルには、主要キャストに技術的な成熟を求めにくいということである。アイドル演劇のキャストになるメンバーたちは、形式的には歌とダンスを中心とした音楽活動を本分としているため、基本的なスキルアップは歌・ダンスの分野に求められる。それゆえに、彼女たちにとって演劇は、ほとんどの場合専門外のチャレンジとして位置づけられ、専業の俳優に近いレベルの熟練に到達することは期待するのが難しい。


 もちろん、そうした段階にある人々だからこそ、まだ萌芽状態の演技への適性を垣間見せるような瞬間も少なくないし、そうした瞬間を発見する楽しさはこのジャンル特有のものかもしれない。また、アイドルというジャンルがスキルにも増して当人のパーソナリティに訴求力を負っていることを考えれば、演技力の裏付けを持たず自身の適性を探っている「過程」の存在であるアイドルたちが、チャレンジとしての演劇にいかに対峙していくのかということ自体がひとつのアトラクションになる。劇中人物の人格と、それを演じる演者自身の人格とを二重に重ね合わせて見ることはスターシステムの演劇の基本的なあり方だが、アイドル演劇の場合、演者自身のパーソナリティを見るという楽しみ方の比重が他にもまして大きくなる。そして、この性質が今日のアイドルシーンと絡みあうとき、さらにアイドルが「演じる」ことの意味は立体的になる。今回は今年上演されたアイドル演劇のうち、6月に行なわれた乃木坂46『じょしらく』の公演をとりあげて、アイドルという固有のジャンルが演劇と交わることで生まれる、独特の虚実のあわいにクローズアップする。


 舞台『じょしらく』は、キャストが「アイドル」であることが、特に強く意識された構成の作品である。乃木坂46のメンバーが演じる劇中人物の落語家たちは冒頭、「歌番組にアイドルグループSUGARSPOTとして出演している自分たち」を寄席の楽屋のテレビで目の当たりにして驚き、いま見たものが間違いであること、自分たちがアイドルではなくあくまで落語家であることを確認しようとする。この作品は漫画原作に忠実な「差しさわりの無い会話」によるエピソードが上演時間の多くを占めるが、それらは彼女たちが「自分たちは落語家でありアイドルではない」ことを確認するための作業として位置づけられる。


 現実世界では「乃木坂46というアイドルである」彼女たちが、劇中では「落語家」であり、その落語家である自分たちが実は「SUGARSPOTというアイドルグループのメンバーである」のかもしれないという、「実の自分」の居場所が不明になるこの構造は、劇内世界の役柄と演者であるアイドルの人格とが強く結びつく、アイドル演劇の性質にとても似つかわしい。さらにこの劇は後半になるとその設定が反転し、実はここまでの展開自体「アイドルグループSUGARSPOTが落語家を演じる舞台を上演していた」という、劇中劇のかたちを露わにする。つまり、このトリッキーな展開によって、劇中の登場人物たちの自己認識は「落語家である自分」から、「落語家である自分を演じていたアイドル」へとずらされるのだ。もちろんこれは、「舞台で落語家役を演じているアイドル」という現実世界の乃木坂46のメンバーの姿を劇中に二重写しに見せるものである。しかし登場人物の中のひとり、蕪羅亭魔梨威のみ設定が反転したことに意識が追いつかずに落語家として振る舞い、その舞台設定に翻弄されるかたちで、自身がアイドルなのか落語家なのか判然としなくなる。


 魔梨威がリアリティの水準を見失ったまま劇は終演に至り、他のメンバーたちが魔梨威に対し「(演劇は終わったから)もう演じなくていいんだよ」と声をかける。これもまた、乃木坂46のメンバーが役から降り現実世界に戻ろうとする位相と、劇中劇を演じていたSUGARSPOTのメンバーたちの演劇が終演したという劇内世界の位相とが重ね合わされたものだ。この「もう演じなくていい」に対して魔梨威は、「あなたたちは演じてないの?」と「アイドル」である彼女たちに問い返す。この魔梨威の台詞は、舞台上に映し出されるすべての位相を貫く。すなわち、落語家たち/その落語家たちを演じるアイドルグループSUGARSPOT/そのSUGARSPOTを演じるアイドルグループ乃木坂46のメンバーたち、というように設定自体がいくつも仮面を被っているこの演劇全体に向けて、「演じてないの?」は投げかけられる。


 この「演じてないの?」という言葉が効果的なのはまた、とかくアイドルが「実は裏では~」といったようにスキャンダラスな詮索を投げかけられやすい存在だからでもある。前回の稿では、オン/オフが侵食しあいパーソナリティが絶えずアウトプットされる今日のアイドルというジャンルを考察した。この環境のもとでは、もはや素朴な表/裏で何かをはかることの有効性は薄くなる。そうした表/裏という発想を俯瞰するように、魔梨威に向けてメンバーから「私たちはアイドルを選んで、演じることに決めた」「私たちは舞台を降りてからの方が大変だよ」といった台詞が返される。劇がほぼ終演に来ているこの段階だからこそ、ここでの「アイドル」があくまで架空の存在であるSUGARSPOTを指すのか、現実世界の乃木坂46彼女たち自身を指すのかが曖昧になる。繰り返される二重写しの視点は、アイドル演劇の特性を観る者に意識させ続ける。


 ここで『じょしらく』が興味深いのは、ともすれば「偽りの姿」といったネガティブなニュアンスが含まれる「演じる」という言葉に、前向きなプライドを込めている点だ。先の魔梨威の問いかけに対して登場人物の防波亭手寅は、「演じるというのは嘘をつくということじゃない」と返す。この「演じる」という言葉に託されるのは、ある虚構の世界をパフォーマンスとして上演することの矜持である。そしてこの「演じる」が劇内世界の役柄のみならず、アイドルである当人たちの振る舞いに重ね合わされることで、そもそもアイドルというジャンルの表現が、それ自体きわめて演劇的であることが照らし出される。


 アイドルの形式的な本分である歌やダンスも、実人生を映すものではなく、あるフィクショナルな世界の上演である。繰り返すように、その虚構の上演をし続けるという立場を選ぶ、彼女たちのパーソナリティまでも発信され続けるのが現在のメディア環境だ。アイドルというジャンルにあっては、現実世界の彼女たちのパーソナリティと二重写しの演劇性こそが楽しまれている。そう考えるとき、アイドルにとって虚/実という発想は何かを偽るものではなく、そのジャンルの表現を豊かで寛容にするためのものであるだろう。


 アイドル演劇の性質を追うことで見えてくるのは、アイドルというジャンルそのものの演劇性であった。次回は今日のアイドルシーンの中で、アイドルの演劇性を批評的に上演してみせているアーティストに着目し、ここでいう演劇性の輪郭をより具体的に探ってみたい。(香月孝史)