1976年から1996年までF1コンストラクターとして活躍したリジェの創設者で、自身もドライバーとしてF1に参戦した経歴を持つ、ギ・リジェが亡くなった。85歳だった。
フランスのビシー出身で、若い頃はラグビー選手としてフランスB代表にも選ばれた異色の経歴を持つリジェは、その後に転身した建設業でも名を馳せ、同国の高速道路網の建設にも深く携わった。
その彼がモータースポーツの世界で頭角を現し始めたのが1960年代。59年と60年に2輪の国内タイトルを獲得すると、F1のジュニアカテゴリーを経て、1964年にはポルシェ904でル・マン24時間にも参戦した。
F1に進出したのは彼が35歳だった1966年。クーパー・マセラッティでこの年のモナコGPにデビューしたリジェは翌67年にかけて12戦に出走し、ノルドシェライフェで行われた67年のドイツGPを8位でフィニッシュ(ブラバム・レプコ)。彼の前でF2マシンが2台ゴールしていたため、記録上は6位となり、生涯唯一となるF1チャンピオンシップポイント(1)を獲得した。
しかし、68年に親友のジョー・シュレッサーがフランスGPで事故死したのを機に、ドライバーを引退。その後は彼の名を冠したマシン「JS1」とともにスポーツカーのチーム運営に乗り出した。
1974年、リジェはマトラ・スポーツの資産を買い取り、2年後の1976年にチームオーナーとしてF1復帰を果たすと、フランス人ドライバーのジャック・ラフィットを擁したこの年のイタリアGPで早くもポールポジションを獲得、翌77年のスウェーデンGPではF1初優勝を達成した。
パール・ブルーとホワイトのカラーリングに彩られたリジェのJSシリーズは、その後もルノー、メガトロン、ジャッド、フォード、ランボルギーニ、無限ホンダとさまざまなエンジンを積みながら、21年におよぶF1活動で9回のポールポジションと9勝を記録。ラフィットのチームメイトにディディエ・ピローニを据えた1980年にはコンストラクターズ選手権で2位という好成績も収めている。
ただ、早くからフランス政府の強力な支援を受け、同国のタバコ会社「Gitanes(ジタン)」や大手石油企業の「Elf(エルフ」)」などからスポンサードされていたリジェだったが、80年代の後半は勢いに陰りが見え始め、ついには1992年にオーナーのリジェがチームを売却。その後、96年に雨のモナコでフランス人ドライバーのオリビエ・パニスが完走7台という荒れたレースを15年ぶりに制したが、チームはこの年を最後にアラン・プロストのもとに渡り、プロスト・グランプリと名称も変更。だが、4度のF1チャンピオンが率いたチームも2001年のプロスト・エイサーAP04を最後に完全に消滅することとなった。
それでもリジェの名は、一貫してフランス人ドライバーを採用(93年を除く)するというオール・フランス・チームを標榜したギ・リジェのポリシーとともに多くの人々の記憶に刻まれており、現在マクラーレン・ホンダのレーシングディレクターを務めるフランス人のエリック・ブーリエも、「ギ・リジェ他界のニュースは私にとってこれ以上ない悲しみだ」とコメント、敬意を表しているほか、F1のボス、バーニー・エクレストンも「彼とはF1を通して非常に親しくしていたので、(亡くなったことに)ものすごく動揺している」というコメントをF1公式サイトに寄せている。