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近年の「フランス映画」で異彩放つフランソワ・オゾン 『彼は秘密の女ともだち』の哲学的含意とは?

2015年08月24日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『彼は秘密の女ともだち』公式サイト

 2012年に公開されるや爆発的なヒットを記録し、累計興行収入が16億円を突破するなど、2001年に公開された『アメリ』を抜いて、日本で最もヒットした「フランス映画」となった『最強のふたり』。この映画を筆頭に、2010年の『オーケストラ!』、2013年の『タイピスト!』――あるいは、アカデミー賞5部門受賞した2012年の『アーティスト』など、「感動」を謳い文句としたフランス産エンターテインメント映画が、近年ここ日本でも人気を集めている。ゴダール、トリュフォーといった「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時代より、良くも悪くも「難解」、あるいは「哲学的」と形容されていた、日本における「フランス映画」のイメージ。それが近年、変化しつつあるように思うのだ。身体の不自由な大富豪と移民の介護人の友情を描いた『最強のふたり』のように、プロットの面白さが口コミで広がり、単館系でヒットを飛ばすようなエンターテイメント作品として、今や女性客を中心に広く認知されつつある「フランス映画」。その多くが、毎年3月に開催されている「フランス映画祭」で「観客賞」を受賞している映画であることは、決して偶然ではないだろう。


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 そんな変化しつつある日本における「フランス映画」の状況にあって、ひとり特異な存在感を放っているフランス人監督がいる。現在、『彼は秘密の女ともだち』が公開中のフランソワ・オゾンである。フランス、パリ出身の47歳――もはや、中堅からベテランの領域に差し掛かろうとしているオゾン。先ほどの挙げた映画の多くが、役者や監督の名前ではなく、作品そのものの面白さによって支持されているように思えるのに対し、オゾンは現在数少ない「名前」で客を呼べるフランス人監督として認知されていると言っても過言ではないだろう。もちろん、ゴダールやカラックスなど、常に新作を待たれているフランス人監督は他にも数多くいる。しかし、『ホームドラマ』(1998年)で初めて日本に紹介されて以降、コンスタントに作品を撮り続け、近年は『しあわせの雨傘』(2010年)、『危険なプロット』(2012年)、『17歳』(2013年)、そして今回の『彼は秘密の女ともだち』(2014年)まで、ほぼ毎年のように新作が日本で公開されているフランス人監督は、今やオゾンひとりしかいないのだ。


 オゾンの名が、日本で広く知られるようになったのは、2002年に公開された『8人の女たち』の頃からだろう。屋敷の主人の死をきっかけに、妻や娘、愛人、メイドなど、彼の周囲にいる8人の女たちの関係性が浮き彫りになってゆくサスペンスでありながら、ミュージカル仕立てでもあるというこの映画。カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・ユペール、エマニュエル・ベアールなど、フランスを代表する女優たちの競演も話題となった本作は、その華やかなルックと軽妙なタッチ、そしてブラックなユーモアによって、日本の観客にも広く受け入れられたのだった。もともと戯曲を映画化したものだったとはいえ、2004年と2011年の2回にわたって、日本人キャストで同作が舞台化されているのは、まさしく異例のことである。その後、2004年に公開された『スイミング・プール』で、「若さ/老い」など女性の美醜やアイデンティティの問題を鋭くえぐり出してみせたオゾンは、再びドヌーヴとタッグを組んだ『しあわせの雨傘』で、もはや完全に日本での人気を不動のものとしたと言えるだろう。


 彼の作品の多くで中心的なテーマとなっているのは、「セクシュアリティ」の問題である。自らもゲイであることを公言し、劇中にも多くのゲイが登場することでも知られているオゾン。彼はステレオタイプな「女性/男性」の描き方に異を唱え、その内実に潜む深層的な「女らしさ/男らしさ」の問題やセクシュアリティの在り方を、その透徹したまなざしで描き出してみせるのだ。美少年の登場によって、自らの男性性に揺らぎを覚える大学教授をコミカルに描いた『危険なプロット』は、その典型と言えるだろう。そして、今回の『彼は秘密の女ともだち』である。


 幼い頃からの親友を亡くし、悲しみに暮れるも、その墓前で彼女が残した幼き娘と夫を見守り続けることを約束する主人公クレール(アナイス・ドゥムースティエ)。しかし、ある日クレールは、亡き親友の夫ダヴィッド(ロマン・デュリス)が、女性の服を着て子どもをあやす姿を目撃してしまう。「この子には、まだ母親が必要なんだ」。苦し紛れの言いわけをしながらも、やがて「実は女性になりたい」という自身の率直な願望をクレールに告白するダヴィッド。戸惑いながらも、そんな彼を受け入れ、まるで「女ともだち」であるかのようにショッピングを楽しむクレール。もちろん、自分の夫には、ことの次第を告げることなく。しかし、そんな「秘密」の逢瀬を重ねるうちに、やがてふたりは惹かれ合い......。


 ここで注意したいのは、この映画が「女性」と「ゲイ」の「友情」を描いた、ありがちな物語ではないということだ。ダヴィッドは必ずしも男性を性的対象としては見ていない(実際、彼には亡き妻とのあいだに幼き娘がいる)。彼は、「異性の服を着たい」という、いわゆる「クロスドレッサー(異性装者)」なのだ(オゾン曰く、異性装者の80%は異性愛者であり、そこに世間の誤解があるという)。「女性のように美しくありたい」――ただそう願うダヴィッドとのつきあいのなかで、自らも「女らしさ」に目覚め、ダヴィッドとともに美しくなってゆくクレール。ふたりはやがて、お互いを特別な存在として――誰にも言えない「秘密」を共有する特別な存在として、互いに意識し合うようになる。これは「恋」なのか? あるいは「友情」なのか? そして、真の「女らしさ/男らしさ」とは、いったい何なのか? 


 オゾン自身は本作について、次のように語っている。「我々の欲望は他の人の欲望に対する答えであることが多い。他人の欲望を糧にして自分が何者であるかを発見するんだ」。そこで思い起こされるのは、「人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である」とする、フランスの精神学者・哲学者ラカンの有名な言葉である。「女らしく/男らしく」あろうとすることは、果たして誰の誰に対する欲望なのか? 衣装からロケーションに至るまで、美学的に整えられたカラフルな世界のなかで、大胆な人間模様を描き出し、それによって我々の心の奥底に潜むセクシュアリティの問題や、その根源にある「欲望」をあぶり出してみせるオゾン。エンターテイメントとしての完成度と、フランス映画ならではの哲学的な問い掛けを見事両立させる稀有な監督として、近年その精度をますます高めているように思えるオゾンの映画を、断じて見逃してはならない。(麦倉正樹)