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アイドルユニットWinkの”無表情”、生みの親が真相を明かす

2015年08月24日 01:30  週刊女性PRIME

週刊女性PRIME

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新卒で渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に入社して以来、有名アーティストたちのマネージャーをつとめた後、独立。その先見の明により、Winkをはじめとするアーティストたちを発掘、育て、売り出してきたベテランプロデューサー・森裕平。Winkの“無表情”に隠された真実を語る。 -そもそも芸能人のマネジメント人生、キャリアのスタートはどういった感じだったんですか? 私は、かれこれもう44年もこの業界にいます。新卒では、ナベプロ(渡辺プロダクションの通称)に入社しました。若いときはだいたい売れている人のマネジメントにまわるので、最初はアイドルの草分けでもある天地真理さんにつきました。それから、アグネス・チャンさんにもつきました。普通の荷物持ちや運転からはじめ、日用雑貨もいろいろ買いに行ったかな。業界についてのイロハを学ばせてもらった5年間でしたね。 そのあと、馬好きの趣味が高じてイギリスに1年間くらいブラ~っと放浪の旅に出たんです。でもすぐにお金が尽きちゃってね(笑い)。それで日本に戻って今度は、杏里さんのマネジメントに携わるようになりました。あの有名な『オリビアを聴きながら』リリースにも立ち会いましたよ。 そのあと別の事務所に移籍したんですが、結局、36歳の頃、リストラにあいましてね。まだ子どもも小さかったものですから、一念発起して起業したんです。それが1987年のころかな、現在のアップライトミュージックを設立したんです。 -そして、ここからWinkという逸材を見つけたわけですね。 そう、そんなとき、ちょうどナベプロにいたころの同期が出版社『ワニブックス』で社長をやっていたこともあって、たまたまアイドル雑誌を眺めていたんです。すると、雑誌のなかにいるひとりの女の子に目が留まったんですね。それが、鈴木早智子。当時まだフリーだった彼女をまず引き取り、次に、その同期からスターダスト(プロモーション)の社長を紹介してもらって、相田翔子のマネジメント権を譲り受けました。そう、それで、Winkを結成させました。1988年4月のことです。 でも、デビュー当初は鳴かず飛ばずでした。借金ばかりがどんどかさんで。当時4400万円くらい赤字が膨らんでいたかな。一人の男としてこれ以上いったらヤバいというラインですよね。それで、もう諦めかけていた矢先に、火がつきはじめたんですよ。あれは、シングル3作目の『愛が止まらない~Turn It Into Love~』、ドラマの主題歌にもなっていたね。 そこから、全国のレコード販売会社のCD買い付け額がどんどん膨れ上がり、事務所にも取材申し込みの電話がひっきりなしにかかるようになりました。大手プロじゃないところが、こんなに大きくヒットするなんていうことは、それまでなかったですからね、業界は騒然としていました。 -ここで、いわゆる“成功”をおさめたわけですね。そこには、どんな仕掛けがあったんですか? そのときも、色々と成功する秘訣を尋ねられることもありました。でも、Winkを売り出す際に、私が彼女たちに言ったのは、“無表情”でいること。 楽屋裏とかにいると、子役さんとか、タレントさんとかスタッフが所構わず“ありがとうございました~”とか“お疲れ様でした~”なんて言ったりするのをよく耳にしました。でもその挨拶には、まったくココロがないなぁと、業界に身を置くなかで常日頃思っていました。だから、自分がマネジメントするタレントさんには、本当に思ったことだけを表情や言動に出してほしいと感じていて、彼女たちにはそう言い聞かせました。ふたりは、すんなり僕の考えを受け入れてくれましたね。 でもね、そんな成功もつかの間、私生活ではちょうどWinkがレコード大賞をとった1989年末あたり、家内を癌で突然失って、4人の子どものシングルファザーになったんです。このことをきっかけに、私の人生は大きく変わりました。 最初は貯金があったから、お手伝いさんをやとって仕事に励んでいました。でも、家内の死をきっかけに自分を責めるような要素をたくさん感じたんです。夫として、何もできなかったなぁと反省する日々で、仕事ばかりの生活にピリオドを打とうと、業界からリタイアしました。子どもと一緒にお風呂に入る時間こそが人生だなぁ、なんて思って。 《構成・文/岸沙織》