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「AKB48の仕事もソロ活動もオートクチュールの世界」井上ヨシマサが振り返る、30年間の作家人生

2015年08月23日 15:20  リアルサウンド

リアルサウンド

井上ヨシマサ

 作詞・作曲・編曲家として数多くのヒット曲をシーンに送り出し、近年ではAKB48グループの楽曲を手掛けていることでもお馴染みの井上ヨシマサが、作曲家デビュー30周年記念アルバム『それぞれの夢~井上ヨシマサ30周年記念アルバム~』を7月29日にリリースした。アルバムには、ソロ歌手としてのオリジナル曲に加え、「真夏のSounds good !」や「泣きながら微笑んで」といったAKB48曲のセルフカバーをはじめ、脈々と歌い継がれてきたレオパレス21のCMソング「それぞれの夢」の最新バージョンも収録されている。今回リアルサウンドでは、彼が2年前に設立した『444Studio』を訪問。作家人生を歩むことになった音楽遍歴や、AKB48立ち上げ時の裏話、8月21日に発売した自叙伝エッセイ『神曲ができるまで』などについて、大いに語ってもらった。


・「最初は、事務所の人やアーティストの喜ぶ顔が見たくてヒット曲を書いた」


――ヨシマサさんの輝かしいキャリアは、中学生バンドながらYMOと共演まで果たしたコスミック・インベンションからスタートしますが、それ以前の、音楽的な原点はどこにあるのでしょうか。


井上ヨシマサ(以下、井上):僕の原点は、いやいや習わされたクラシックピアノですね。そこで基礎を覚えたのですが、小学生のころにサミー・デイビスJr.「ダイナマイト」のスキャットを聴いて、衝撃が走りました。この音楽はなにかと父親に聞いたら、「これはジャズだよ」と教えられ、そこから掘っていくうち、オスカー・ピーターソンなどのピアニストに辿り着きました。「いつか自分も弾けるようになりたい」と思い、小学校のブラスバンドに加入したんです。、そのときはスタンダードのジャズが中心で、グレン・ミラーなど、分かりやすいメロディーのものばかりでした。僕が今でもシンプルでかつ心の響くメロディーを追い求めるのは、「スタンダード」と呼ばれる名曲達の影響が強いと思ってます。ジャズの歴史を辿っていくうちに、白人のジャズと黒人のジャズSOULの違いみたいのものを微妙に分かるようになり、僕は次第にブラックミュージック側に興味を持つようになりました。でも、そこからアース・ウィンド・アンド・ファイアーのようなダンスミュージックの要素を持ったジャズにもハマって。


――そこからバンド結成まではどのような遍歴を?


井上:いつの間にかダンスミュージックにものめり込み、デヴィッド・フォスターが、白人のミュージシャンを使ってアース・ウィンド・アンド・ファイアーのアルバムを作った話を聞いて、「このスティーブ・ルカサーというのは誰なんだろう?」と疑問に思い、調べていくうちにTOTOのアルバムに辿りつき「スタジオミュージシャンとして活躍している人間がアルバムを作ることもあるのか」と知りました。そのころから、“表舞台に立つ人と裏方”という概念が僕の中からなくなっていて、見に行ったコンサートでも、サポートミュージシャンの太っちょなサックスがすばらしいソロを吹いていたり、頭ツルツルの人のクラリネットが上手かったりして。容姿と関係なく素晴らしい音楽というのは存在していると改めて感じて、やっぱり音楽家になりたいと思ったころに、ブラスバンドが解散し、コスミック・インベンションが結成されました。すると、突然表舞台に出るようになって、ビジュアルも重視される世界になってしまった。


――ポップス・歌謡曲の世界は音楽的な要素より芸能的な要素の方が強い印象だったのですね。


井上:そうですね。もちろんバンドはみんな演奏が上手かったのですが、最終的に一番容姿の良い子が真ん中に来て、僕は端で弾くようになりました。小学校のブラスバンド時代、自分のパートが貰えない生徒が涙ぐましい努力の末、やっとポジションを掴む。そんな日常を過ごして来た自分にとって、理解が出来ないことが起きていました。「僕が思っていた音楽の世界とは違う」と思うようになりました。そのうえで、僕のやるべきことはもっといい音楽を作り続けることだと考えて、優秀なプロデューサーである田村充義さんに話を通してもらって、バンドのアルバムに数曲自作の曲を入れて頂いたのが、僕の作曲人生の始まりです。バンドとしては歌ものにどんどんなっていったので、そことは切り離して曲のクオリティをどんどんあげていきました。


――自分の納得する曲を納得いく形で出したかった?


井上:そうです。ビジュアルではなく音楽で人を振り向かせたかった(笑)。自分のアルバムを作ろうと思って田村さんに曲を持って行っては、プロが作る楽曲について「僕の曲の方がいいような気がするんですけど」と生意気なことを言ったりしていましたが、同時に親からは「高校もバンドも辞めて、家にお金も入れないでバイトして…何をやっているんだ」と叱られていました。そんな中、必死で自分の理想とする曲を手探りで作り初めました。但し自分の理想とする作品で直ぐに生活が出来る様になる程世の中甘くない。音楽で収入も得なくてはならない…。いきなり「生活のための音楽」と「やりたい音楽」の狭間に立たされた気持ちでした。


――そこから一気に自分のモードが変わっていったのでしょうか。


井上:徐々に、という感じですね。特に田村さんに対しては、「アーティストたるもの…」と言っていた手前、「仕事頂けませんか?」とは、なかなか言い出せなくて。そこでバックバンドのアルバイトを始めたり、クラブの箱バンにも参加しつつ、田村さんに「演奏の仕事とか、作家仕事があれば紹介してください…」と言うようになりました。


――その苦節を味わい、1985年には小泉今日子さんの「Someday」でプロの作曲家としてデビューしました。


井上:ある日、田村さんに「小泉の曲を書いてみる?」と言われたんです。態度こそ生意気でしたが、バンド時代から曲自体は評価して貰えていたので、とても嬉しかった。作曲家としてキョンキョンに合わせるのか、井上ヨシマサ感を出すのかというジャッジもしてもらいつつ、自分の書きたい曲が出来ました。一方で、お金欲しさに自分の夢を半分捨てたという見方もできるのかもしれないけど。


――立て続けに荻野目洋子さんの「スターダスト・ドリーム」も手掛けていたことも、そう映る要因だったのでしょうか。


井上:そうなんです。周りから「作曲家としても何曲かやっているんだね。でも、あなたのアルバムの方が良いですよね」と言われたかったのに、結果的に人に書く曲の発注に追われ、自分のアルバム制作などしている時間的余裕も金銭的余裕も無くなっていきました。これはAKB48の楽曲を作っているときも同じ感覚なのですが、自分も表舞台にバンドとして出て、インディーズでも歌手をやっていたぶん、歌い手の気持ちが分かったというのが大きいのかもしれません。若いくせに耳年増で、色々気を遣っていましたから(笑)。


――その目線を持ちつつ、音楽的に大事にしていたことは?


井上:ジャズのアドリブ感を大事にしていて、なるべく一筆で作曲していたし、多いときは1日に3曲も書いていました。ありがたいことに依頼を頂く件数も多くなってきたので、「あとちょっと待ってくれたら書き上がるので!」と、玄関先でクライアントに待ってもらったこともありました(笑)。アレンジも自分でやれるようクライアントには頼んでました。僕にとってアレンジは作曲の一部だと思ってますから。25歳で作家として賞を獲れたのですが、ここで「ああ、もうヤバいな」と思ってしまった。


――作家とアーティストとしてのバランスですか。


井上:そう。「作家“も”やってました」と言いたいがために始めたのに、意外に忙しいし、難しい。当時は事務所の人にクレジットカードを渡されて「ヨシマサは現金渡すとまともな買い物しないから、買い物はこれでやってくれ」なんて言われたりして。もちろんカードの支払いは自分の口座からでしたよ(笑)。だんだん自分のアルバムをつくることもなくなっていって、あんなに苦労して買った機材も少しずつ手に入るようになりました。周りからは良く見えていたのかもしれないけど、何だか自分の音楽における人生がめちゃくちゃになった気がしていました。


――そこから何をきっかけにして抜け出したのでしょうか。


井上:あるとき「Save 4 U」と「I BELIEVE」という曲を書いたのですが、その2曲が自分を救ってくれました。音楽って人が生きていくパワーになるんだなと改めて実感した。それまでは、事務所の人やアーティストの喜ぶ顔が見たくて、ヒットチャートに上るような曲を書いてきたけど、それは自分を喜ばせるためのことではなかった。


――その後はインディーズでの歌手活動に一度重きを置いていったと。


井上:ここでの経験は非常に大きかったと思っています。作品を出すときに、1,000枚CDを刷ることに幾ら掛かるとか、知らない人に会ってプロモーションするのはこんなに面倒なことなのか、とか。今まで作家として受けていた仕事の前後には、こんなに大変なことがあるのかと実感した。「ミュージシャンはお金を稼ぐことに目が眩んじゃいけない」と言いながら、1枚作るのにいくらかかるのかも知らなかったから。一緒にやろうと言っていたやつも逃げてしまったし、借金も背負った。メジャーのプロデューサーやディレクターも、「ヨシマサ君、ちょっと芸術家肌になっちゃったんじゃないの?」と言って離れていった。もちろんそれでもそばに居てくれる人たちはいて、作家仕事が続けられました。インディーズの経験からクライアントとのバランスが自然に取れるようになった。「直されるにしても、ここは直しちゃいけないところだ」という線引きもハッキリ見えるようになったんです。そんなころに秋元康さんと初めて対面し、とんねるずさんの曲を制作しました。最初は自分のスタンスが理解してもらえずギクシャクしましたが、直ぐに誤解は解けました。その後 10年以上経って彼から「AKB48というアイドルグループの曲を書いて下さい」と言われました。発注内容は「一度秋葉原の劇場を観に行って、そこで得た印象からヨシマサ君が感じたままに書いて欲しい」というものでした。僕は彼女達の存在がサブカルチャーやアニメーション文化と合わさって秋葉原発信で世界に通じている感覚を得ていました。彼女たちも当時はチームAとチームKしかなくて、まだインディーズ時代だったこともあり、独特なものが出来るという確信はありました。何より秋元さんは「この曲の目的はこれ」と明示してくれるし、僕も自分の意見も遠慮なく言えたからやりやすかった。秋元さんがインディーズの場で全力投球する姿は感動しました。ただ、やればやる程金銭的な不安はつきまといました。だって僕が書いていたのは劇場曲で、CDを出す予定すらなかったんだから(笑)。と同時に、このグループが毎日進化していく実感を得ていました。


・「秋元さんとは楽曲の直しについてケンカもしました」


――当時のAKB48が持っていたDIYの感じに、ご自身のインディー活動を重ねたりしました?


井上:スタッフもまだ数人で、メンバーも30人ちょっとでしたからね。それに劇場公演を見ていて、この子たちは何かを叫べるような気がしていて。これまでのメジャーなアイドルにはない、等身大の若者たちだからこそできる何かがあったし、秋元さんが書く詞もセンセーショナルなものが多かったから。その頃の僕らにとっては、劇場に来る250人が全てだった。勿論メジャーを意識できるクオリティを目指して作ってはいましたが、その250人が全員納得するまで、次のステップは無い!と秋元さんは考えていたと思います。なので、そこまでが本当に長かった。CDが売れなくなり出した時代だから、業界の人は「何万枚売れるんですか?」というところに躍起になっていたとき、AKB48は「250人のうち何人が本気になって頂けるか?」というのが最大の課題でした。それが達成できてから、200万枚までは時間がかからなかった印象。もちろん、売れ始めてから1位になるまでの苦労も相当でしたが、離陸する際のエネルギーは半端じゃない。僕は過去のインディーズの活動を通じて、1人のアーティストが世に出るのが容易でないことを充分実感出来るようになっていたので、不思議と苦ではなかったし。売れなくても諦めずに続けることの大切さを学びました。僕の曲を信じてくれたスタッフサイドの方々や運営の方々には本当に感謝してます。もう長い付き合いなので、友達のようになってる人も多いです。だからこそメジャーになった時の喜びもみんなで分かち合う事が出来ました。


――音楽の制作についても、これまでより寛容になったのでしょうか。


井上:仕事で請け負ったら、スタジオを何回使うからウン百万となるわけですが、インディーズで自宅作業なわけだから、金額は据え置きで何度でもアレンジをやり直す事に(涙)。寛容になったとはいっても、秋元さんとは楽曲の直しについてケンカもしましたよ。みんなが初めて経験する事だらけだったので、誤解も生まれました。 はじめに「公演曲でやる」と言われた曲が、いざ始まるとセットリストに入っていなくて、「ひどいじゃないですか! 僕はギリギリの状態で準備していたのに。このやり方では今後やっていく自信がありません。候補になっていた曲も返して下さい」というようなメールをしました。そうしたら、秋元さんが「残念です。仲間だと思っていたのに」ってメールをくれて。そこで このグループ自体が、今までの仕事とは全く違い、強力なファミリー意識と仲間意識に支えられていることに気付かされたのです。揉め事になりそうな出来事は、僕と秋元さんとの距離を縮める結果となりました。「仲間だと思ってくれているなら…」と戻りました。しかも前より強い何かを感じながら。この逆の事件もあって。「Everyday、カチューシャ」が出来たとき、僕が歌詞について指摘をしたら、秋元さんに「なんでヨシマサがそこまで言うんだ」とキレて電話を切られたんです。一晩、僕は「何故、僕は立場を超えて秋元さんに意見してしまうのだろう? 何故、仕事の枠を超えて熱くなってしまうのだろう?」と考え、そして翌朝、その答えを秋元さんに「以前秋元さんは僕に言ってくれましたよね…仲間だと思っているから…って!」と電話で伝えました。秋元さんは、電話の向こうでニヤリとしていたことでしょう。その言葉を仕返しと受け取る人もいるかと思いますが、運命共同体の私達にはパワーゲームをやっている余裕などありません。本気で良い物を作るために、仲間だと思ってくれている秋元さんに嫌われるのを覚悟で、意見を伝えている事を分かってもらいたかったのです。


――仲間意識があったからこそ、立ち上げからここまで一緒に関わってこれたのですね。


井上:僕の個人活動って、一流のミュージシャンを呼んでライブして、50人くらいしか集まらなくて…という、良く言えばオートクチュールの世界なんですけど(笑)、AKB48にも同じことがいえると思うんです。どこまで規模が大きくなっても、秋元康さん一人の世界のままだから、僕も彼の趣向を理解しつつ作っている。そういう意味では、自分のプロジェクトとAKB48への楽曲提供は、チャンネルが同じで、マスの目を意識せず、まずは自分が良いと思える曲、だれか一人が良いと感じる曲を作ろうというだけなんです。


――AKB48のブレイク後、歌手としての活動時間はさらに確保できなくなったのでは?


井上:でも、AKB48での仕事があったからこそ『Google+』での発信もスタートしたし、僕のファンになってくれるひとも増えましたよ。ライブにも5.60人くらいのお客さんが来るようになったし、作る曲も「あ、これ自分で歌った方が良いかも」と感じるものも出来てきた。切り分けないようにアウトプットをしていたら、いつの間にか両方を同時にこなせるようになってたんですよね。


――ヨシマサさんは、ブレイクした現在も結成当時のままAKB48に接している数少ない人物かもしれませんね。


井上:だって、面白いじゃないですか。ごく普通の、電車へすっぴんにジャージで往復しちゃうような女の子が、次の日大スターになってたような感覚なんだから(笑)。AKB48の活躍を見ていると、色々な情報がカオスな時代に、長く活躍する事の大変さを改めて感じます。情報が多い分、楽曲の持つクオリティの差が分かり辛くなっている気もします。それは音響機器のデジタル化に伴う音楽制作の簡略化によるものが大きいかと思います。何しろ昨日今日作曲を初めた人も、ベテランと言われる人も、同軸に並ぶ事が可能になっているから。そこに音響的な差はどんどん無くなってきているのも事実です。そんな中、僕にとって大事なのは、正直にやっているか、やっていないかという基準だけ。秋元さんも、「俺は嫌いだけど、これ売れそうだから出しておけ」なんて絶対言わなくて、自分が納得していないものは絶対に出さない。


――ご自身の曲にするかどうかを判断する基準はどこにあるのでしょう。


井上:「ライブで僕が歌ったら面白い?」かなあ…。説得力も含めて。歌の上手さや聞き易さはこの際度外視ね(笑)。大体自分向けに書く曲って、ライブに向けたものが多いんです。「宴」や「前ノリ」など、今回アルバムに収録されている曲の大半はそう。とくに作品のリリースなどは考えていなくて、『Google+』でも「才能の無駄遣い」なんて色々と言われたのですが、自分でやる曲にはスピード感を大事にしてます。「今思った事を直ぐ曲に!」をモットーとしているから故。でも結果こうしてアルバムをリリースできるようになったのはありがたいですよね。


――アルバムには、新曲「SAFETY RIDE」も入っています。この曲は49歳の決意をそのまま綴ったような歌詞が印象的でした。


井上:49歳にもなると、腰が重くなってくるんですよ。ライブ前も「なんでこんなの企画したんだろう」と思ったり。でも、やっていかないといけないし、何より自分がやることを望んでいるのもわかっていて。時代が進んで、テープやレコード、CDと媒体が変化しても、「音楽」を聴いてもらいたいから、活動を続けていることに気付いた、例え肉体という車体は古くなっても、何歳になっても、走り続けようぜ!という内容の曲です。


――「『音楽』を聴いてもらう」というのは、提供している楽曲でも同じ思いですか。


井上:もちろん。だからこそ曲を作る側が聴いてほしい媒体を決めてちゃいけないと思うし、表と裏なんて作っちゃいけないと考えていて。AKB48の新曲「ハロウィン・ナイト」に関しても、「指原センター」というキーワードのみで作られるのです。超個人的な世界で曲作りは始まります。もちろん、蓋を開けてみればハロウィンナイトというマスな世界まで拡がりを見せましたが、そこはマイノリティと大メジャーの両方を知っている秋元流のなせる技。結果マスの部分だけだが目立っていますが、制作時に一番大事なのは、グループ当初からずっと続いている楽屋オチにも近い、完全なる内輪ネタから始まっていることなんです。僕やスタッフが常々共感しているのも実はそこですから。


・「僕が作る曲に関しては、かならず自分でギターを録って入れている」


――AKB48「真夏のSounds good!」「泣きながら微笑んで」のカバーも印象的ですが、色んな方が歌い継いだ「それぞれの夢」を、新録でセルフカバーしている点も注目ポイントですね。


井上:10年位前にこの曲が出来上がって以来、何十通りものアレンジをしてきました。CMでも御馴染みですよね!。今回、改めてレコーディングするにあたって、2年前に完成した『444Studio』で、普段仕事やライブを共にしていたミュージシャンたちとともに、今自分が出せる制作環境みたいなものをそのまま表現しようと考えました。ストリングスやブラス、生ドラムも入れて、この人たちが今の僕のサウンドを司ってくれている証みたいなものを残したかったといえるのかもしれない。後で振り返ったときに「あの頃、スタジオが完成して、当時よくやってもらっていたミュージシャン、ヨシマサファミリーが演奏してくれた」と言えるようなものを作りたかった。30周年の節目に2枚目のアルバムをリリースして、再スタートを図るためにも必要だったのかも。


――では次の節目にもまたセルフカバーを…(笑)。


井上:するかもね(笑)。何回もスタートを切って、その時々の記録が残ると、改めて振り返った時にもっと楽しそう。


――ヨシマサさんの楽曲における特徴として、「転調の多さ」を挙げる方は多いですが、実際ご自身ではどう思っていますか。


井上:本来は、転調を多く使うタイプの作家ではありませんでした。ただ、AKB48の楽曲を手掛けるに際し、少女たちの歌を盛り上げるため、いかにしてインパクトを付けるかということを考えたとき、転調を多く入れて冒険しようと思ったんです。でも、むやみやたらに転調するのではなく、それが自然に聴こえるよう、曲中でストーリーを順序立ててあげないと、不自然になってしまいますよ。あと、作曲やアレンジのテクニックに関しては、見えない・聴こえないところで小技をたくさん使っています。


――つまり転調にこだわっているわけではないと?


井上:移調も転調も理論的な話。平均率も含め、理論前提で音楽を考え過ぎない方が良いと思ってます。突然、誰かが泣き出して、その声が心に刺さるとする。その声に属調や転調という理論が入る余地はありませんからね。人は突然明るくなったり暗くなったり、アップテンポで話したりトーンダウンしたりする。理論や音楽のルールに縛られ過ぎるのは、自然な表現の妨げになることもあります。そういう意味では、不自然な転調も自然界では自然な現象かもしれませんね! あっ! まずい。理屈的になってしまった(笑)。


――そのなかでも核といえる部分はどこでしょう。


井上:サビに入れているギターの音。僕が作る曲に関しては、かならず自分でギターを録って入れているんです。もちろん、プロのギタリストではないし、そこまで得意な楽器でもないのですが、一生懸命練習して、時にはピッチも間違えたりしている音源を入れてみると、楽曲の勢いが一気に増したんです。パンキッシュなギターというか。それが意外と隠し味として効いているのかもしれません。自らのギターを音源に残す行為の意味とは、作曲家、アレンジャーとしてアーティストに歌わせるのではなく、自分もバンドの一員として一緒に物作りしている気持ちの象徴なのです。


――今後はどういう風に、ソロと作家活動を両立していきますか。


井上:この間、「ハロウィン・ナイト」スタッフバージョンのMVで選抜されて、ダンサーとしての才能も秋元さんに発掘されたから…(笑)。歌いながら踊って、作家もやって、メンバーからは「出たがり作曲家」って言われながら頑張ってるけど(笑)、ますます忙しくなりそう…。個人の活動も、ライブをして、その後にネット上へアップする用の動画を撮って、それをTwitterサイズに自分で加工して…とスタッフみたいなことも自分でやっているので、相変わらず大変なまま時間が過ぎていくのでしょうね(笑)。これからもガラス張りの厨房を御見せしていきます。乞うご期待。


(取材・文=中村拓海/写真=竹内洋平)