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amazarashiのサウンド変遷ーー北欧バンドのスケールと邦ロックのエッジをどう兼ね備えたか

2015年08月19日 19:51  リアルサウンド

リアルサウンド

『スピードと摩擦(初回生産限定盤)(DVD付)』

 amazarashiがニューシングル『スピードと摩擦』を8月19日に発表した。先日16日には「デビュー5周年記念ライブ」として3D映像を用いたステージを披露するなど、彼らはそのメディアアート的な面白さに注目が集まることが多く、“スピードと摩擦”にしても、“穴を掘っている”や“季節は次々死んでいく”に続いて本山敬一がクリエイティブディレクターを担当し、女子高生がトイレで踊り狂うビジュアルがインパクト抜群のミュージックビデオが既に大きな話題を呼んでいる。しかし、ここではamazarashiの楽曲自体の魅力に改めて着目し、そのサウンドの変遷を追ってみたいと思う。


 そもそもamazarashiはメンバーとしてクレジットされているのが中心人物の秋田ひろむとキーボード担当の豊川真奈美の2人だけで、ライブではサポートメンバーが加わるという、いわば不定形ユニット。そのためもともと曲調は多彩で、またサポートメンバーの一人であり、近年はさまざまなアーティストのプロデュースや、ドラマ、アニメ、映画の劇伴などを幅広く担当する出羽良彰がデビュー当初からアレンジャーとして参加しているのも見逃せないポイントだ。つまり、秋田のソングライティングと、出羽のプロフェッショナルなアレンジメントによって、amazarashiの楽曲は形成されているのである。


 基本はベーシックなロックバンドだが、ピアノやストリングス、グロッケンなどで緻密に構築された楽曲はときにクラシカルであり、壮大なサウンドスケープを描く。エレクトロニカ風の音響面も含め、それはポストロック的だと言ってもいいだろう。2013年作の『ねえママ あなたの言うとおり』からは生のストリングスを導入してよりサウンドの質感を広げ、その成果は2014年作の『夕日信仰ヒガシズム』に収録された感動的なバラード“ひろ”に結実。この生楽器志向は「あまざらし」名義でのプレミアムライブへと発展し、今年5月には『あまざらし 千分の一夜物語 スターライト』としてパッケージされてもいる。


 “スピードと摩擦”はamazarashiにとって今年2枚目のシングルであり、2月に発表された“季節は次々死んでいく”と共に、アグレッシブな曲調が特徴。順番に解説していくと、まず“季節は次々死んでいく”は、裏打ちのハイハットが入った、いわゆるダンスロックの4つ打ちではなく、心臓の鼓動を想起させるようなプリミティブな4つ打ちが何とも高揚感を誘う一曲。流麗なピアノと左右に配置されたギターが絡み、サビではストリングスとクワイア調のコーラスが加わって、ドラマチックに展開するカタルシスはかなりのものがある。


 一方、“スピードと摩擦”はミニマルなベースの反復フレーズと簡素な打ち込みのリズムがこれまでにない新鮮味を感じさせる一曲。そのクラウトロック的とも言える展開の中、少しずつ音が加わって行くことによって、文字通り徐々にスピードが加速していくような印象を受ける。とはいえ、やはりサビになるとリリカルなピアノとストリングスが入ってきて、一気に風景が開けるのが実にamazarashiらしく、Aメロの緊張感との対比によって、そのドラマ性はより高まって聴こえる。また、サビにはさらりとアコギがレイヤーされているあたり、「スターライト」からの反響とも言えるかもしれない。


 かつて僕が何度か秋田にメールインタビューをさせてもらった中で、彼が好きなバンドとして挙げていた、エフタークラングというデンマークのバンドがいる。エレクトロニカ的な音楽性からスタートし、後に管弦楽器を導入して、アーケイド・ファイアにも通じるスペクタクルなサウンドスケープを描いたバンドだが、その感触には確かにamazarashiとも通じる部分がある。北欧のデンマークと、秋田の住む青森の空気感に、共通する部分もあるのだろう。エフタークラングは惜しくも2014年に解散してしまっているのだが、デンマークで行われたラストライブがYouTubeにアップされているので、ぜひその神秘的なムードを体感してもらいたい。


 とはいえ、秋田自身が「自分は邦ロックのフォロワーでもある」とかつて語っているように、“スピードと摩擦”にしても、“季節は次々死んでいく”にしても、間違いなく邦楽的なギターロックの範疇に入る楽曲である。決して洋楽的なサウンドに寄り過ぎないことが、amazarashiが日本のロックシーンで確かに支持されていることの大きな理由になっているのだ。そして、こうした楽曲自体の力があるからこそ、メディアアートとしてのamazarashiが成立するということは、もはや言うまでもないだろう。(金子厚武)