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宮台真司の『オン・ザ・ハイウェイ』評:ギリシャ悲劇の王道に連なる、86分間の密室劇

2015年08月15日 19:11  リアルサウンド

リアルサウンド

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■経験論を否定する『オン・ザ・ハイウェイ』


前編:【宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼】


 『バケモノの子』と同じく「父と子」が重要なモチーフになっている『オン・ザ・ハイウェイ』も、非常によくできた映画です。原題は『Locke』。人名がタイトルというのは珍しく、しかも人名としてありふれたものじゃないので、イギリスの経験論哲学者ジョン・ロックに絡めているのは明らかです。しかし、結論は経験論の否定なのです。


 日本人には馴染みがないでしょう。イギリス経験論はフランスを中心とする大陸合理論と対比されます。アプリオリ(経験に先立つもの)を認めず、アポステリオリ(経験を通じて獲得したもの)だけが信じられるとする立場です。法の世界では、ローマ法に発する法原則探求的な制定法主義とは異なる、先例踏襲的な判例法主義に対応します。


 ことほどさように、普遍原則より共通感覚(コモンセンス)を重視する立場です。これをさらに言い換えると、最初から正しいことや妥当なことが確定している選択はあり得ない。正しさや妥当性は、ソレを選択した後に、やがて汐のように次第に満ちてくる感覚──最初からどんな感覚になるかは決まっていない──が与えるものである、と。


 映画は「車中の男」というワンシチュエーション。冒頭、左ウインカーを出している車が、突然、右ウインカーを出してハイウェイに乗るところから始まる。そう、最初に選択があった。しかし、それが何を選択したことになっているのか全く分からない。やがて、本当は帰趨がどうとでもあり得たはずの選択の、帰趨が明らかになって行きます。


 『マッドマックス 怒りのデスロード』の主演で話題のトム・ハーディ演じる車中の男=アイヴァン・ロック。左から右へのステアリング切り替えは、過去に一度だけ関係を持った女の電話で、愛妻と二人の息子が待つ家に向かうのをやめたことを意味します。 彼が選択肢を前にして迷い、エイッと選ぶこのシーンは、全体のモチーフを表現します。


 エイッと選んだ後はまさに"オン・ザ・ハイウェイ"。ハイウェイだから下りることもなく、迷うことも引き返すこともできず、選んだ目的地に進みます。『Locke』という原題も示唆的ですが、日本版のタイトルも非常に優れていると思います。強いて寓意を拾えば「選んだ以上はもう下りられない」という日本語の意訳になるだろうと思います。


 だからこそ経験論的な綻びがあります。詳しく説明します。普通の映画は「俺の選択は間違っていたのではないか」と反省し、幾らハイウェイとはいえ途中で出口を下りたり目的地から引き返したりして、家族の元に帰ったり翌日の超高層ビルの生コン流し込み事業という大仕事に戻ったりすることをアレコレ考えて逡巡する主人公を描きます。


 それが、この映画では、最初に選択した後はそれに続く全ての選択は「既になされてしまった選択」という様相でやり過ごされます。それに併せて、規定不可能性のサスペンスは、運命の系統樹的な分岐を巡るものとしては出現せず、「すでになされてしまった選択」の帰趨が、どんな姿をとって現れてくるのか、に集約されて描かれるわけです。


 印画紙にゆっくりじわじわと現像プリントが浮かび上がるのに似ています。ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』のラストシーンみたいに。しかし、この喩えと違うところは、ゆっくりじわじわと浮かび上がる現像プリントが、浮かび上がるまではどのような映像になるのかが決まっていないということ。まさしく「経験論的」世界観です。


 別の喩えです。濁流に荒れ狂う川に、向こう岸を目差して飛び込んだイメージを想像しましょう。戻ろうにも、自分が飛び込んだ岸辺は既に崩れ、泳ぎ続けるしかない。けれど、泳ぎ続けたところで、向こう岸のどこに辿り着くのか、そもそもどこかに辿り着けるのかさえ分からない。全ては偶発的だけれども、全ては最後になって分かる⋯⋯。


 主人公ロックは、なぜ引き返せないのか。どんな意味で、自分が飛び込んだ岸辺が既に崩れているのか。そこがこの映画のキモなのです。映画では、存在しないはずの父親の亡霊と主人公との対話が描かれ、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」という主人公の思いが強いからだ、と説明されています。果たしてそれはどんな生き方でしょう。


 そこに出てくるのが「捨て子」のイメージです。ワンシチュエーションの作品で回想シーンのカットバックも一切ないので詳しくは不明ですが、主人公は父親と浮気相手との間に出来た子どもらしく、浮気相手である母と自分が捨てられたことが暗示されます。それが「父親と同じ生き方を繰り返したくない」という思いに結実しているようです。


 「責任を果たすこと」へのこだわりゆえに、最初の決定的選択をした後に迷わなかったのだ、と理解する観客もいますが、誤解です。「捨て子」は対称的。本妻と営む家族に戻れば、浮気相手との間の子どもは捨てられるけど、浮気相手と営む家族に乗り換えれば、本妻との間の子どもは捨てられます。映画にはこの対称性がシツコク描かれます。


 それがサッカーのテレビ中継をめぐるエピソードです。主人公の息子たちは、自分たちの両親が電話でのやりとりでただならぬ状況に陥ったことを察知します。にもかかわらず──というより「だからこそ」──父親との電話では無邪気にサッカー中継の話題に興じます。それが新たに「捨て子」になる子どもたちを浮かび上がらせる仕掛けです。


 「父親と同じ生き方を繰り返したくない」との思いは「呪い」です。呪いだからこそ、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」と思う主人公は「父親と同じ生き方を繰り返す」のです。ここに経験論の綻び──未規定性──があります。重すぎる経験が、後々の経験にとって「経験に先立つもの=呪い」を準備してしまう、という重大な逆説です。


■凡庸な設定を利用した巻き込み


 この映画の大きな特徴は、全てのエピソードが凡庸なこと。何も特別な要素が出て来ません。「出張先で浮気をした」「その女がはらんだ」「家族にバレて奥さんがキレる」「事情を知らない子どもが困惑する」...と本当によくある話。英語で「ジ・オーディナリー・マン」と言いますが、凡庸な男が凡庸な出来事を切り抜けていく。それだけの話。


 あまりに凡庸なので、「あるある」的に身につまされます。乗っている車は、カラーリング(スペースグレー)まで含めて僕自身の車と同じBMW X5 E70 5.0i。内装も、Bluetoothで接続したiPhoneの発着信が表示されるダッシュボードのディスプレイも、子細に到るまで完全に同じなので、僕にとってはイヤガラセかと思うほどの時間(笑)。


 主人公はグローバルなゼネコンのエリート技術者という設定で、だから高級車に乗っています。ただし、そこは、「86分間の車内での電話のやりとりの間に、ゼネコンをクビになり、かつ幸せな家族も失う」という「一挙に全てが崩壊する」がごとき前後の落差を、際立たせるための設定に過ぎませんから、さして重要なポイントじゃありません。


 むしろ大切なのは、車自体より窓の外。イルミネーションからなる「何もかも後方に流れていく風景」と、それによる変性意識状態です。夜のドライヴは人を変性意識状態に導きます。だから夜のドライヴデートが好まれる。変性意識状態の中で「あるある」的に身につまされた観客は、「世界はそもそもそうなっている」と納得させられます。


 86分間の密室劇というワンシチュエーションも、主人公と観客を世俗から隔離して、夜のロングドライヴにつきもの変性意識状態に誘うための、仕掛けであることが分かります。主人公からは全てが影絵のように見えてきますが、観客からも全てが影絵のように見えてきます。優先順位が混乱して、あり得ないことあり得るように思えてきます。


■ギリシャ悲劇的モチーフの踏襲


 選択が織り成す、数々の分岐点からなる系統樹、という意味でのサスペンスが、ほぼ唯一登場するのが、EU最大の超高層ビルに200台のミキサー車が生コンを流し込むという大事業を翌日に控え、主人公が、無理矢理に作業の代理を押しつけた部下に「1センチでも狂えば全てがガラガラと崩れ落ちるぞ!」と脅し上げながら指図するエピソード。


 脅し上げが逆目に出てプレッシャーに押しつぶされた部下がどうもアルコールに手を出したらしいことが電話から伝わってきて、主人公が激昂します。そのプレッシャーでますます部下は⋯⋯。この圧倒的なサスペンスが、しかし話の本筋と全く関係ない(笑)。だから「コンクリートの話、関係ねえじゃん」とブチ切れる観客もいることでしょう。


 だからこそ観客は、終盤で主人公が運転しながら書類を開くシーンを前に、「おい、頼むから事故なんか起こさないでくれ。そういう映画じゃねえだろ」と祈りながら観るわけです。それで分かるのですが「コンクリートの話、関係ねえじゃん」は監督の狙いです。「そう、そういう映画じゃない、だから何も起こらない」と。何も起こりません。


 その意味で、このシナリオ上の穴は、あえてするものです。シナリオ上の穴と言えば、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」と思う主人公が、結局は「父親と同じ生き方を繰り返している」というところも、矛盾じゃないかと感じる観客がいるかもしれない。責任を取るという主人公の立派さを描くはずなのに、よく見ると立派じゃないじゃんと。


 しかし、これも既に述べたように、あえてするものです。つまり、この映画は、責任を取るという主人公の立派を描いたものでは、全くない。そうでなく、主人公自身が「親子の血は争えない」と語るように、全経験を方向づける先験的な呪いが、経験によって与えられてしまうという逆説。これこそが、この映画が描き出そうとするものです。


 むしろ責任を取ろうとする立派な振る舞いを脱臼させてしまう理不尽や不条理こそが問題なのです。その意味で、この映画はギリシャ悲劇、例えばオイディプス劇の王道に連なります。ギリシャ悲劇は〈社会〉が〈世界〉に貫かれていることを描きます。人間次第でどうにでもなりそうな関係が、しかし人智を超えた世の摂理に貫かれている⋯。


 ギリシャ悲劇と初期ギリシャ哲学は、「暗黒の四百年」やそれを語り継ぐための紀元前八世紀の叙事詩的モチーフを継承するものであると同時に、同時代のセム族的な超越神信仰=ヤハウエ信仰への、意識的なアンチテーゼです。「理不尽や不条理は神の意思」という合理化を拒絶、「理不尽や不条理はただそこにゴロッとあるだけだ」とします。


 その理不尽や不条理は「経験を通じて汐が満ちるように意味に満たされる」ことのないまま、ひたすら人の世を貫きます。むろん、この世を抽象的原理がアプリオリに支配するわけはない(ヤハウェ信仰の全否定)。だが、経験論的に未規定な理不尽や不条理が世を貫いている。つまり、この映画は、合理論を否定しつつ、経験論も否定します。


 「車内の86分間で全てを失った主人公に最終的に何が残ったか。それは汐が満ちるようにやがて時が明らかにするだろう」。そう呑気に理解すれば、この映画は経験論的モチーフで一貫しています。しかし、映画を子細に見れば、なぜ最初の選択で退路が断たれたのかという疑問への回答を通じて、呑気な理解を実は完全に遮断しているのです。


 その意味で、『Locke』という原題は、素晴らしい罠です。内外の映画批評家たちが、この罠に見事に引っ掛かってしまっています。こうした罠に掛からないためにも、かつてパク・チャヌク監督が僕に語ったように、初期ギリシャの不条理劇たるギリシャ悲劇に通暁しておいたほうが良い。幾度も語ってきたように、教養の試金石になるからです。


■「父親の滑稽さ」の意味の違い


 それにしても、トム・ハーディというのは不思議な俳優です。あれだけ魅力を放ちながら、多くの人が彼の顔をうまく覚えられない。いい顔なんだけど、「そういえば話題の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に出ていたね」というくらいの印象です。カメレオンのようにどんな演技もできるのですが、それが「器用貧乏」にも思えます。


 そうしたトム・ハーディの「非凡なる凡庸さ」が本作のモチーフによく合っていました。そうした凡庸さゆえに、観客は間違いなくトム・ハーディに共感します。お話ししたようにエピソードも凡庸なので、僕くらいの年齢の人間なら二つや三つは思い当たる経験しているでしょうから、「イテテテテ」と思いながら観ることになります(笑)。


 前編で話した『バケモノの子』と比べると、『オン・ザ・ハイウェイ』における穴や曖昧さや逆説は間違いなく意図されたもので、失敗じゃないと断言できます。『バケモノの子』における「言葉以前のものを賞揚する言葉に充ち満ちた映画」という逆説は意図せざるもので、失敗だと断言できます。『オン・ザ・ハイウェイ』のほうが傑作です。


 両作品を父親の描き方という面で比べても面白い。熊徹もアイヴァン同様、穴だらけのおかしな男。両作品とも「父親の滑稽さ」を描くのは共通しますが、『バケモノの子』では「父親は子どもに何かを超えさせる素晴らしい存在だ」と結論づけられ、『オン・ザ・ハイウェイ』では「父親は子どもに呪いをかける存在だ」と結論づけられます。


 でも、僕はこの二つの結論は矛盾するものだとは思いません。父親は子どもに呪いをかける存在だからこそ、子どもに何かを超えさせる存在になり得るのであり、父親は子どもに何かを超えさせる存在であり得るからこそ、子どもに呪いをかけてしまうのです。この一見両義的に見える意味統一を描いた映画については、別の機会にお話しします。(神谷弘一)