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『インサイド・ヘッド』のインサイド "狂気の情報量"を投入する米国アニメに迫る

2015年08月13日 08:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

■宮崎駿を魅了した、ピクサー監督の奇想と愛情


 先日、宮崎駿が、あるアニメーション映画の試写を鑑賞直後、立ち上がって拍手したという。その作品は細田守監督の『バケモノの子』......ではなく、ピクサー・アニメーション・スタジオ新作『インサイド・ヘッド』であった。『バケモノの子』で、バケモノの精神を少年が受け継ぐ物語が、ややもすると「アニメ界のバケモノ宮崎駿の魂を受け継ぐのは自分である」という宣言に見えるほど、細田監督が自作で宮崎作品へのラブコールを繰り返してきたのと同様、『インサイド・ヘッド』のピート・ドクター監督も、『カールじいさんの空飛ぶ家』の空中戦などにおいて、同様に宮崎作品からの影響を熱く表現してみせている。巷では「ポスト宮崎待望論」がささやかれるが、近年の見事なピクサー作品を観ると、日本のアニメーション監督に限定して考える必要はないかもしれないと感じる。


 『インサイド・ヘッド』で目を引くのは、頭の中をひとつの世界として戯画化する挑戦だ。ヨロコビ、イカリ、ムカムカなど5つの感情が、それぞれ擬人化したキャラクターとして現れ、それらが脳の持ち主である人間の行動をコントロールし、ピンボールのように流れ込んでくる個々の記憶を整理し、巨大な図書館の棚のような脳内のひだに格納していく。映画は、少女ライリーが直面する現実の物語と、脳内の物語が、それぞれに干渉し合いながら進行し、その両面が描かれる。ピクサー作品のなかで最も個性的なコンセプトの作品といえるだろう。


 ピクサー内部でも「天才」と名高いブラッド・バード監督が実写作品に移行するなか、主要スタッフ、監督としてピクサーでアニメーション表現を追及し続けてきたピート・ドクターは、ジョン・ラセターやバードと比較すると、テーマや演出においては、個性がやや弱い印象がある。だが、彼の持ち味は、モンスターの会社や、風船で空を飛ぶ家など、物語を生み出す上での突飛な発想力だといえる。ピートは、瞑想室のような薄暗いプライヴェート・オフィスで独創的な案をひねり出す。


 物語のなかで、都会に引っ越し、生まれ住んだ家や友達と離れた悲しみを無理に抑圧しようとしたライリーは、転校初日、教室のみんなに挨拶をしながら思わず涙を溢れさせてしまう。それは脳内では、悲しみの感情を司るカナシミの、無意識の行動としても描かれる。ライリーを不幸にするだけの存在だと思われていたカナシミだが、ヨロコビとともに脳内を冒険するなかで、他人の傷ついた心に寄り添い共感する特別な能力を持っているということが分かってくる。ライリーは、脳内の感情たちとともに、世界の実像に触れ成長していく。


 ピート・ドクターは、監督作『モンスターズ・インク』の少女を、自身の小さな娘をモデルに、『インサイド・ヘッド』でも思春期に入った娘の心理からインスピレーションを得ている。それが少女の心理や、その親の感情表現に、より深い実感を与えていることは言うまでもない。完成まで5年と、ピクサー作品としても例外的に長期製作になったことから分かるように、この難物の企画を、それでも完成し得たのは、奇想と実直を併せ持つピート・ドクターならではといえる。


 脳の構造と精神分析的な知識を散りばめた物語は、小さな子供の観客には難し過ぎるかもしれない。けれども、現実世界がそうであるように、子供たちは作品世界の全てを理解する必要はない。脳内世界の住人の謎や、精神の奥底への畏怖や美しさは、子供たちの心の奥に、咀嚼できない体験として、そのままゴツンと残り続けるだろう。そして、脳のしわのなかに潜んでいた、あのイマジナリー・フレンドのように、いつか再会できる日が来るかもしれない。


■アメリカ製劇場アニメの狂気の情報量


 ピクサーの映像表現は、新作の度に大幅に更新されるが、本作においても、数作前のピクサー作品と比較にならないほど、さらに繊細に鬼気迫る完成度に達している。カラフルに彩られ、漫画的軽やかさに満ちた脳内世界に対し、彩度が抑えられ、ひんやりとした質感でライリーを追った現実世界のパートは、日常シーンが多く見逃しがちになるが、例えばライリーが自己紹介する教室の、生徒たちが思い思いに行動する描写など、目を凝らすと気が遠くなるほどの情報が画面にあふれ、従来の作品であれば大スペクタルになり得る表現が、多くのシーンで当たり前に炸裂していることが分かる。


 作品づくりへの愛情や、ピクサーを立ち上げたジョン・ラセターの信念に裏打ちされていることはもちろんだが、この狂気のような情報量を投入する理由は、ライバルとなるスタジオの存在も大きい。今夏は、アニメ作品だけでも イルミネーション・エンターテインメントの『ミニオンズ』、アードマン・アニメーションズの『ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホーム』など強敵が立ちふさがる。同じくジョン・ラセターが製作の最高責任者として統括する同系列のスタジオとはいえ、CGアニメーションの祖・ピクサーとして、ディズニーに負けたくないという想いもあるだろう。


 その戦いは、CGの限界に挑んだ豪華な映像だけにとどまらない。ピクサーでは脚本づくりのため、制作者、監督、ストーリー・アーティスト、各部門のスタッフによる、ときに数年に及ぶ脚本会議によって、ストーリーをブラッシュアップさせてゆく方法をとっている。これはラセターがピクサーで確立したストーリー作成法であり、今では『アナと雪の女王』などディズニー映画も、ラセターが製作責任者になったことで、この「ピクサー流」で進行されている。シナリオの弱い部分について「こうした方がいい」と鑑賞後に言い合ったりするのは、映画好きにとっても楽しい儀式だ。だがピクサー作品においては、大多数が考えるだろう脚本上の致命的な問題点は、すでに脚本会議で克服されている場合が多い。


 『ミニオンズ』もそうであるように、近年のアメリカ製アニメ大作の脚本は、大量のギャグを含めた案を休まず次々に投入する。CGなど表に出る部分だけでなく、脚本でも加速競争が過熱し、熾烈な総力戦が展開されるのである。この異常にスピーディなテンポの作品に慣れてしまうと、カンフーの達人にでもなったように、日本の一般的なアニメ作品が、まるでスローモーションのように見え、物足りなくなってしまう。


 この、次々にユーモアを繰り出す作劇は、アメリカ映画においては、かつて「スクリューボール・コメディ」と呼ばれた、洒脱なコメディ・ジャンルを想起させる。それは、アメリカのアニメーションが本質的に喜劇として作られているからであろう。ハリウッドで成功したエルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダーという、演出家、脚本家でもあるアイディアマンは、ひとつの映画の中に大量の案を詰め込み、ハワード・ホークス監督はハイスピードの演出が連続する一連の喜劇を生み出した。日本においては川島雄三監督が代表的だ。


 スクリューボール・コメディの源流は、「ヴォードヴィル」と呼ばれるパリの舞台喜劇である。そこでは、比較的ナンセンスギャグの少ない『インサイド・ヘッド』のような感動させる作品も同ジャンルとして扱われる。かつてチャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドなどサイレント期の喜劇スターたちは、芸人として様々なコメディ表現を映画に持ち込んだが、とくに好評を博したのが「スラップスティック」という、大げさな身振りや活劇で観客を沸かせる方法であり、これをそのまま継承したのが、ジャッキー・チェンやトム・クルーズのスタント・アクションである。


 ハリウッド映画は、商業的に、より多くの観客に好まれる、映像的なスラップスティック的価値観に傾き、ヴォードヴィル風作品は、一部例外を除き、映画よりむしろTVが主戦場になっていったといえるだろう。TVで生まれた「ザ・シンプソンズ」は、ブラックなギャグが限界量まで連打され続けるコメディとして、アメリカの象徴的アニメーションになっているし、TV演出家であった『ブライズメイズ』のポール・フェイグなど、スクリューボール的感覚を映画に逆輸入した監督もいる。CGによってときに実写を乗り越える圧倒的リアリティを獲得したことで、米国製アニメーションは、このような、かつての洗練された質の高いコメディ表現を「映画」の世界にふたたび蘇らせることのできる、一大フィールドを得たといえる。


 この圧倒的な質と情報量を持つ大作に、他国のスタジオが対抗するとき、映像や脚本を、「余韻」「情緒」という曖昧な「芸術性」でごまかすことは、もう難しくなってきているのではと感じる。英国のアードマン・スタジオのように、粘土の手作り感を強調し伝統工芸化することで、CGに対する生存戦略を選び取ったように、日本で主流の手描きアニメーションに必要なのは、ドローイングの魅力の追求であるように思う。また脚本においても、かつてガレージ・カンパニーであったピクサーのように、『インサイド・ヘッド』などの独創的発想を生み出すことや、脚本の整合性強化へ向け、手立てを打つことはできるはずである。


 しかし、ピクサー流の会議による脚本づくりが、唯一の正しい道というわけでもない。ひとりで脚本を練り上げることは、思い込みに引っ張られもするが、それだけに常識をはずれた強い推進力を得ることもある。実際、宮崎駿は多くの監督作品において、絵コンテを描きながらひとりで物語を作り出してきたのである。『バケモノの子』では、細田監督が初の単独脚本に挑んだが、彼が目指し挑戦するのは、紛れもなくこの強い作家性による作品づくりの道であろう。そして、その先には強烈な作家性を持つ「天才」ブラッド・バードもいるはずである。(小野寺系)