トップへ

ジミー・ペイジの44年ぶりヒロシマ再訪 市川哲史が「伝説のツェッペリン初広島公演」を探る

2015年08月09日 23:01  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 いまや大概の出来事がネットで瞬時に報じられるので、たとえば日本での知名度が圧倒的に低いであろう海外ミュージシャンの訃報なんか、本当に助かる。しかしネットレスだった時代は時代で、特に旧メディアの代表格である一般紙の朝刊なんかに洋楽ロックに係わる報道を見つけようものなら、気分は高揚し妄想は膨らんだ。


 単純なのだ、我々は。そしていまもなお。


参考:急逝したクリス・スクワイア、イエスを支えた“大人ぶり”とは? 市川哲史が取材エピソードを回想


 7月31日付の毎日新聞社会面に見つけたその記事の見出しは、《非核の階段 一歩ずつ――ペイジさん ヒロシマで献花》。おお。


その冒頭を引用する。


 <1970年代に活躍した英国の伝説的ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のリーダーでギタリストのジミー・ペイジさん(71)が30日、44年ぶりに広島市中区の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花した。ペイジさんは、80年に解散した同バンドのCDの発売プロモーションのため来日。被爆70年の節目として再訪を希望した>。


 35年も前に解散したゼップの新作とは、昨年6月にスタートした全スタジオ・アルバムのリマスター/エクスパンデッド・リイシュー企画第3弾にして完結篇――『プレゼンス』『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ(最終楽章)』の決定盤になる。


 オリジナル盤の全曲をリマスター音源で収録したCDのみの《スタンダード・エディション》に、プラス未発表音源集の《デラックス・エディション》、更にその両ディスクと同内容の重量盤LPとハイレゾ音源のDLカードとハードカヴァー装丁のブックレットなどを追加した《スーパー・デラックス・エディション》の、計3種類のフォーマットでリリースするアレだ。懲りろよ俺たちも。


 でもってビジネス感覚に非常に長けたペイジPは、日本の中年を骨の髄までしゃぶり尽くそうとわざわざ商談に来日するわけか。ちっ。そもそもこの男は21世紀以降、03・08・11(←震災で中止)・12・14年と頻繁に来日を重ねているが、毎回毎回プロモーション目的なのだ。どうだまいったか――。


 いやいや、今日はそんな下衆なネタを書くのではない。再び、記事の続きを引用する。


 <同バンドは71年の初来日時に広島市でチャリティーコンサートを開き、売上金約700万円を市を通じて被爆者に寄付した。当時、メンバーたちは「戦争を知らない私たちの心にも、人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある」と語った>。


 実利目的の来日のついでだとはいえ、44年の歳月を経て再び原爆慰霊碑を訪ねたペイジを、人として見直さねばなるまいて。と同時に、あのレッド・ツェッペリンが1971年の初来日時に原爆ドームと原爆資料館を訪ねていたことは、意外に知られてないような気がする。やはりツェッペリンも「あの」60年代後期に誕生したロックバンドなのだ。


 にしてもそもそもヒロシマを真剣に訪ねた外タレって、ほとんどいないのではないか。せいぜい、原爆ドームで嫁と二人抱き合って泣いたエルヴィス・コステロと、「行く行かない」で散々悩み倒したあげく行かなかったノエル・ギャラガーのへたれ、ぐらいしか浮かばない。


 ツェッペリンの広島訪問は、71年9月23・24日@日本武道館と28・29日@大阪フェスティバルホールのインタバル――27日にメンバーの強い要望でライヴ@広島県立体育館が実現に至った。


 というか故・糸居五郎氏による当日のMCでは「彼らは広島に来るために日本に来ました」と紹介されており、鶏にせよ卵にせよ彼らのヒロシマは本気だったのだ。


 しかも71年9月当時の新幹線は東京-新大阪間のみの操業で、山陽新幹線が岡山まで開通したのがようやく翌72年3月だったのだから、車か在来線か知らないが東京から相当の長時間移動を余儀なくされたはずだ。


 そして実際にメンバー全員は、27日の開演前に原爆資料館とドームを見学。「人間はここまで残酷なことをするのか、そこまで最低の生き物だと思いたくない」と涙したロバート・プラント以下4名は、貪欲豪腕マネ、ピーター・グラントの反対を押し切りそのまま広島市役所に出向いて、被爆者援護資金として広島公演の売上金全額700万円を寄付したのだった。当日の入場料がS席2500円・A2000円・B1500円・C1000円でキャパ5000人超満員だから、正真正銘のほぼ全額だったに違いない。


 そして、ツェッペリン一行が広島市長を訪ねたと伝える翌28日付毎日新聞広島版の紙面も今回の記事に掲載されているのだが、44年前の見出しがすごい。


 《被爆者援護に七百万円 英国の楽団が寄付》。


 ずんちゃぶんちゃずんちゃぶんちゃ。


 ちなみに、当日のセットリストは下記になる。


1.移民の歌
2.ハートブレイカー
3.貴方を愛しつづけて
4.ブラックドッグ
5.幻惑されて
6.天国への階段
7.祭典の日
8.ザッツ・ザ・ウェイ
9.カリフォルニア
10.タンジェリン
11.強き二人の愛
12.モビー・ディック
13.胸いっぱいの愛を
14.コミュニケーション・ブレイクダウン


 4、6、9は2ヶ月後の71年11月に全世界同時リリースされる4thアルバム『Ⅳ』収録の「新曲」。ラストの14は熱狂しすぎた広島オーディエンスがステージ上に殺到したため演奏を中断、プラントが鎮めた後に再開したほどだった。幾つかの海賊盤、もといコレクターズ盤でも確認できる2時間半強の広島公演は、バンドのコンディションも含めゼップ史上に残る最高のライヴの一つだったと言えよう。
ちなみに若き日の浜田省吾もこの日の観客だったらしい。ああ羨ましい。


 冷静に考えれば、広島公演が決定した段階で《愛と平和チャリティーコンサート》と銘打たれていたわけで、来日前からゼップは売上金の寄付を決めていたはずだ。さすがに開演前に資料館で目撃した被爆者の惨状に揺さぶられての「衝動」的チャリティー、ではないと思う。けれども彼らがヒロシマに突き動かされたのは事実だからして、これぐらい話が増幅され盛られ<伝説>となっても誰が責められよう。


 もしプラントやペイジが本当に涙ぐんでいたのなら、さらに伝説が盛り上がるだけのことじゃないか。


 かつて直木賞作家の村松友視氏が名著『私、プロレスの味方です』で、<劇的記憶力>を推奨していた。つまり自分の中で無意識の内に記憶がドラマチックに書き換えられることによって、語り継がれてゆくべき名勝負が生まれるわけだ。そんな観る者の感性を存分に引き受けられるからこそプロレスは面白いし、ロックもまた同様なのだ。


 そして<スポーツではないスポーツ>プロレスを一貫して無視してきた新聞メディアが、ことロックに対峙するとなぜかそのアプローチが無垢すぎて、妄想紙一重のファンタジーを数々生みだしてくれるから愉しいのである。


 そんな新聞さまに敬意を表し、引用を続ける。


<原爆ドームも見学したペイジさんは、松井一実市長から原爆慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言を世界に広めてほしいと求められ、「もちろんだ」と快諾。「あの日から70年たつが、広島に原爆が落ちたことは全世界の人が思い続けている。平和を祈り続けていきたい」と話した。【田中将隆】>


 この市長は、ジミー・ペイジを作曲家か楽団の指揮者かなんかだと思ってるのではないだろうか。ググる。なんだ、昭和28年生の62歳で京大法学部卒の官僚出身か。レッド・ツェッペリンを知らない人生を歩んでても、そりゃ仕方ない。わははは。


 ああ、妄想がどんどん膨らんでしまう。【田中】記者は今回これだけゼップをいろいろ書き込めることができて、いまごろ幸せを噛みしめているんだろうか。


 でもこれだけは言わせてくれ。見出しは《非核の階段》じゃなくて《非核への階段》でしょ、やっぱり。


 なにはともあれ、黙祷。(市川哲史)