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宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼

2015年08月06日 16:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS

■ポイントは「渋谷」と「渋天街」の対比


 細田守監督は、概念的に徹底的して物事を考え、シナリオに落とし込むタイプなのかもしれません。あるいは、実在の父親にかけてほしかった言葉がたくさんあったのかもしれない。シナリオには「言葉が多すぎる」ことを中心に、注文をつけたい部分があります。でも、この水準の映画はなかなか作れないと思います。いい映画だと思います。


参考:『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』、僅差で『ミニオンズ』を振りきる!


 本作のポイントは、現実を精確にトレースした「渋谷」と、バケモノ界の「渋天街」の対比にあります。「渋谷」はわれわれがよく知る看板にあふれ、文字に満ち満ちていますが、「渋天街」に入れば、文字がありません。そして主人公の九太(蓮)と熊徹の擬似的な親子関係はすべて、文字のない渋天街で行われます。


 なぜ「文字に満ちた街」と「文字が一切ない街」を対比させたのか。僕がいろいろなところで書いているように、最近の若い人は「言葉にならない」ものを恐れる傾向が強い。統計データに従えば、この二十年間の、若い世代の性的退却は実に著しい。これも「言葉にならないもの」=エロス的なものを、忌避するからだと、僕は考えています。


 性愛関係だけでなく、親子関係も、感情で動くエロス的なものです。精神分析家ジャック・ラカンの言い方では「想像的なもの」。つまり「言葉にならないもの」が多くを占めます。にもかかわらず、言葉にしがみつく人は、言葉の外側にある否定的メッセージを見ないようにします。だから、かえって潜在的不安が大きくなるのではないか──。


 これはグレゴリー・ベイトソンに大きな影響を与えたR・D・レインという統合失調症の専門家が言っていたことです。言語以前的な世界を忌避して言語にしがみつくと、親子関係も性愛関係も不安定ゆえに怖いものになるのです。言葉を使って生活しながら「言葉の世界なんて本当はどうでもいい」というトーンをどう発するかがポイントです。


 ヒトがチンパンジーから分岐して500万年くらいですが、音声言語を使い始めてからは5万年、文字言語を使い始めてからは大抵の地域で5千年以下。それに鑑みれば、僕らの心の動きは、基本的にエロス的なものの領域にあって、言葉の概念的な使用は「かさぶた」のようなものに過ぎないだろうと考えなければなりません。


 かさぶたの下に血や肉がある。かさぶたに執着するのは血や肉を見ないこと。フランスの思想家ジョルジュ・バタイユはその血や肉を「呪われた部分」と表現しました。社会学者マックス・ウェーバーが言うように計算可能性を高めるべく文字言語に専ら傾斜した近代社会であっても、家族と性愛の世界は今でも言語外の感情に支配されるのです。


 だから、近代社会では、人は家族の中で育つことで、概念的な言語世界(象徴的なもの)の外にある言語以前的なもの(想像的なもの)に免疫をつけていきます。古い社会では家族の外にもそうした免疫化の機制がありました。それが祝祭です。言葉は不完全で世界を覆えないから、原点に戻るために祝祭で「呪われた部分」を噴出させるのです。


 ギリシャ史を遡ると、紀元前五世紀前半までのギリシャ----プラトン前期に当たる----までは、言葉の概念的使用への依存を、絶対神への依存と同様に、徹底的に却けて、かわりに、言葉にならない理不尽や不条理に心身を開くことを推奨してきました。ホメロスの叙事詩もソフォクレスのギリシャ悲劇も、そうした推奨に向けたメディアでした。


 ところか、ペロポネソス戦争でアテネがスパルタに負け、状況が変わります。貨幣経済の浸透と共に奴隷がのし上がり、市民が金を奴隷に借りて甲冑を買って戦争に出かけるようになります。異邦人も増えて、市民の共通感覚や共同身体性が通用しなくなります。それゆえ、かつてと違い、言葉を概念的に使わなければ統治ができなくなりました。


 ペロポネソス戦争後の後期プラトンも考えを変え、言葉の概念的な使用にこだわるようになって、イデア概念に行き着きます。非言語的な佇まいやオーラは極めて近接的で文脈依存的です。音声言語はそれに比べれば非近接的で非文脈依存的です。それでも音声言語は文字言語に比べればずっと近接的で文脈依存的です。そうした階梯があります。


 プラトンが文字言語に専らの重きを置くようになったのは、統治において、文脈依存性や近接性をできるかぎり排除しなければならなくなったからです。ちなみに、前期プラトンの時代まで----初期ギリシャと言います----、教育も娯楽も布告も伝承もすべて、韻律と挙措を伴う音声言語で行われていました。今でいうラップに相当するでしょう。


 哲学史家のエリック・A・ハブロックによれば、音声言語につきものの韻律と挙措は、記憶の内部化に向けたメソッドです。しかし近接性と文脈依存性が高い。複雑な社会ではこうした状況依存性から脱する必要があります。そのためには記憶を外部化しなければなりません。そうした記憶の外部化に向けたメソッドが文字言語なのだと言います。


 翻って現在、資本主義・民主主義・国民国家が、両立しなくなりました。グローバル化(資本移動自由化)を背景に中間層が分解、格差化と貧困化が進んでいます。社会がダメになりつつあるのです。だからこそ、もともとのアテネのようなマイクロ・エリアで「言葉にならないもの」----共同体感覚----を復権することが課題になっています。


 そんな中、「絆がないと、何かあったときに助からない」という損得勘定に由来する概念的な話をするバカがいます。これがまるでバカなのは、絆とは、助かりたいがゆえに追求する「手段」ではなく、何があっても助けるという「目的」だからです。言い換えれば、損得勘定の「自発性」を超えた、内から湧き上がる力の「内発性」だからです。


 このバカこそ、言葉の概念的な使用への固着を示します。そうしたバカが蔓延しつつある時期に、細田監督が「親子」モチーフにこだわり、その関係を文字言語以前の何かとして見出したことが、素晴らしい。監督自身が前作『おおかみこどもの雨と雪』の公開後に父親になったということもあるのでしょうが、慧眼だと言うほかはありません。


■脚本から透けて見えた、細田監督の"自信のなさ"


 ただ惜しい点があります。今日的な大テーマとして「言葉にならないもの」を愛でているのに、言葉による説明が多過ぎることが、引っ掛かるのです。百秋坊や多々良などの舞台回し役が「ようやく熊徹も△△になって来たな」などと喋り過ぎですし、「心の闇」が爆発して突如ヒール(悪役)として登場する一郎彦も、描き方が概念的に過ぎます。


 「心の闇」という言葉が連発されますが、概念的には分かるけれど、腑に落ちません。幼少期の一郎彦は、いじめられっ子だった九太を救ったいいヤツでしたが、ここまで変わってしまったのは、人間につきものの「心の闇」のせい。そんなバカな。言葉にならない感情的な思いの渦巻きを描かないで、「心の闇」が覚醒したなんて、バカげている。


 生煮えの概念的言語でしか示せないものは、映画から省いた方がいいです。だってそれがテーマなんだからね。【幼少期の九太の引っ越し場面での「しろくじら」→女子高生・楓との交流場面での「白鯨」→「心の闇」が覚醒した一郎彦が変じた「白くじら」】という連想ゲームも、概念的過ぎて、まったく同じような意味で、バカげています。


 楓が「説明」してくれます。エイハブ船長と白鯨との戦いは、実は自分自身との戦いなんだよと。エイハブ船長と同じように九太も一郎彦も「心の闇」を抱えていて、それとの戦いが「白くじら」との戦いとして象徴されているんだよ、という「説明」です。こんな「説明」で納得する大人はいませんし、まして子供には完全に意味不明でしょう。


 生煮えな概念言語の"おかず"が溢れるのを見ると、脚本に自信がないのかもしれません。それは、彼自身の父親としての振る舞いへの自信のなさに由来するかもしれず、それはまた、彼と彼の父親との関係に由来するのかもしれません。原案は素晴らしいので、概念言語の"おかず"をきちんと省ける優秀な脚本家を立てるべきだったかもしれません。


 とはいえ、熊徹の身体挙措を九太が完コピする場面を典型に、言語よりも身体性、象徴界よりも想像界、といった対比は随所に展開されていて、納得的です。女子高生・楓との出会いのエピソードについて「あんなものなくてもいい」という議論もなされていますが、これも「言葉/言葉にならないもの」というモチーフにうまく収まっています。


 良家の娘である楓は進学校に通い、親にそれこそ概念的な意味で褒められるために日常を送るものの、誰とも気持ちを通じ合えたことがない。概念言語が支配する人の世で、そのことに疎外され、適応できない女の子が、まだ文字も読めない概念言語以前の九太と出会い、気持ちを通じ合うという展開は、非常に自然で、モチーフが一貫しています。


 また、「九太と熊徹の会話が少なすぎる」という声もありますが、間違いです。他のキャラクターの言葉による説明が多すぎるからバランスが崩れているだけです。「言葉ならないもの」が互いの関係を支えているバケモノ界で、九太と熊徹がいつもべらべら喋っていたら、主題が壊れてしまいます。ことほどさように、批判の多くは的外れです。


 作品全体の方向性は正しいです。だから、的外れな批判はもとより、「言葉にならないもの」を擁護する映画に言葉が多すぎるのは変だという批判も、それを言い立てて作品を貶めるほどのことじゃない。僕のおさなごたちは、もちろん「心の闇」うんぬんなんて完全にスルー、というか胸のところに展開するCGのことだと思っていましたから。


 昔『崖の上のポニョ』を当時四歳だった長女と観たとき、僕は「ポニョは海で生きて来たのに、バケツの水道水に入れたら死んじゃないか」と突っ込みたくなったけれど、長女が通路に出てエンドロールの歌に合わせてブイブイ踊っているのを見て、別に細かいことはどうでもいいやと思い直したことがありました。今回もそれを思い出しました。


■宮﨑駿には描けない人の絆=共同体感覚を描く、達人の領域


 この映画を観たおさなごたちと、そのあと一緒に、渋谷の街を散歩しました。「麗郷」という台湾料理屋の裏辺りが、熊徹の家に続くと思しき坂の分岐路あたりでしょうか。おさなごたちは、スクリーンで観た風景に似ているので大喜びしていました。もっともあの辺はラブホ街なので、妻には「あんな場所を連れ回して」と怒られましたが(笑)。


 そもそも、渋谷はかつて色街でした。1973年にパルコ開店に合わせて公園通りができるまで、そこは区役所通りと呼ばれる風俗街でした。スペイン坂終点のシネマライズも1980年頃までラブホテルで、丸井の裏もラブホ街でした。その意味で、渋谷はエロス的なものがむき出しの街で、拡張現実的にスキンがかぶさって今に至った印象があります。


 そうした歴史を生きた僕からすれば、本作は、渋谷のスキンを剥ぎ取って見せたように感じます。もともと芝居街と色街を合わせて悪所と言います。眩暈やトランスが起こる場所という意味です。眩暈が起こるから日常の時空を前提とした概念言語は通用しない。その意味で、"文字のないバケモノの街"が「裏渋谷」だというのは妥当な設定です。


 細田監督の実存に関係するのでしょうが、彼の作品に一貫しているのは、家族や恋人という絆の関係、この人のためなら死ねるという関係、あえて言えば宮﨑駿が描くのを不得意としていたものです。特に男の子と女の子の会話での微妙なニュアンスは宮﨑駿を逆さに振っても出て来ません。アニメーターには珍しいとても素晴らしいセンスです。


 心理学者アルフレッド・アドラーが言う「共同体感覚」を描くことにかけては、達人の域だと言えます。その能力は、本作でも遺憾なく発揮されています。監督自身がそれをもっと強く自負すれば、不要な概念言語の"おかず"を付けなくても済んだのではないかと思います。まあ、自分のどこが優れているのかを自覚するのは難しいかもしれない。


 その点では『おおかみこどもの雨と雪』の方が少し出来がよかった気がします。絆/共同体は危機を前にして際立ちます。そうした危機としては、本作のような「市街で暴れる鯨とのバトル」より、『おおかみこども』で描かれた「自然のなかの嵐」の方が、ナチュラルで説得的です。ゆえに見終わった後の余韻も前作の方がすっきりしています。


 「市街のバトル」では「危機」が抽象的になって、作劇上の装置に過ぎないものに頽落します。「剣を収め、二度と戦わない」ことを象徴するラストも、ヤクザ映画やカンフー映画で描かれてきた、概念的なパッケージでした。素晴らしい作品でしたが、先ほどお話しした細田監督のポテンシャリティをより活かした次回作を、大いに期待します。


 さて、同じく"父と子"というモチーフが登場する作品で非常に出来がよかったのが、『マッドマックス 怒りのデスロード』でも主役を演じたトム・ハーディが主役を演じる、リアルタイムサスペンス『オン・ザ・ハイウェイ』です。ミニマムで、特別なことを一切描いていない映画ですが、それゆえに素晴らしかった。(取材=神谷弘一)