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『ジュラシック・ワールド』がシリーズ最高傑作である理由 速水健朗が見どころを解説

2015年08月06日 16:11  リアルサウンド

リアルサウンド

Chuck Zlotnick / Universal Pictures and Amblin Entertainment

■全編に溢れる『ジュラシック・パーク』第1作への心憎いリスペクト


 いや、まじでスピルバーグ以外の監督によるスピルバーグ作品続編(実はあんまりないけど!)の最高傑作じゃないだろうかこれは。


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 1993年公開の『ジュラシック・パーク』は、スピルバーグマニアが気に入る作品ではないかもしれないが、スピルバーグ的映画であることは間違いない。未知の生物との遭遇と主人公の片親の不在問題を平行して描く手法という王道。さらには、金髪ヒロインの魅力のなさ加減など、どれをとってもスピルバーグを構成する主要成分でできているのである。


 最初の作品から22年、前作からも10年以上の月日が空いた4作目である本作に抜擢されたのは、まだ日本語版Wikipediaの項目にすら登録されていない新人監督のコリン・トレボロウ。スピルバーグがてがけてきたシリーズというプレッシャーは大きかっただろうが、彼はシリーズ最高傑作として見事この『ジュラシック・ワールド』を作り上げた。


 本作は、1作目から22年という歳月をうまく利用している。まず、このシリーズの看板役者であるティラノサウルス・レックスの登場場面は、1作目へのオマージュを強く感じさせてくれる場面だ。いやまて、CGで描かれたT-REXに「1作目と同じ」も何もないだろう。倒錯している。だが、1993年の『ジュラシック・パーク』は、CGってここまでできるのかと、世間を驚かせたイノベーティブな作品だった以上、そこでのシンボリックな存在だったT-REXが、歴史的な扱いをされるのは当然だろう。そのT-REXがどこで登場するかはサプライズ要素なので言わないが、この登場の仕方には「そうだよね」と一人納得し目頭が熱くなった。


 『ジュラシック・パーク』の一番の悪役が、T-REXではなかったことも思い出して欲しい。小型で獰猛で頭がすこぶるいいヴェロキラプトルが真の敵役である。そして、彼らは今作にも登場する。しかも、恐竜側ではなく人間側として。つまり、1作目で敵だった存在が、続編では味方になるパターンだ。いわば『ターミネーター』のシュワちゃんである。その辺の演出も続編ならでは。1作目へのリスペクトから生まれたアイデアだろう。心憎い。


 さて、物語にも触れていこう。舞台はかつて恐竜脱走の事故でオープン間際に崩壊した「ジュラシック・パーク」があるコスタリカのヌブラル島。本編には、主人公たちがかつてのパークの廃墟に迷い込む場面も描かれている。


 この場面で見せつけられるのは、当時のパークと「ジュラシック・ワールド」では、予算も規模も桁違いであるという事実だ。ジュラシック・ワールドは、かなりの大規模テーマパークとして生まれ変わり、すでに多くの人を集めている。


 かつての「ジュラシック・パーク」が株主の存在を気にするあまり、かなり切り詰めたコストで運営されていたことに比べると、今度のインド人オーナーは、太っ腹だ。彼は目先の儲けよりも、偉大な恐竜パークにふさわしい「正しさ」への理解がある。さらには、自分でヘリコプターを運転するために、免許も取るような好奇心の強い人物。これはこれで、嫌な予感しかしないのだが。


 『ジュラシック・パーク』は、開園前のごたごたが描かれたが、今回は、すでに開園し、すでに多くの来場者が世界中から押しかけているという世界だ。22年前のCG技術で、恐竜という誰も実際の動きを見たことがない絶滅静物をリアルに動かすことは可能になったが、数万人の来場者を描くだけの余力はなかった。すでにオープンしている「ジュラシック・ワールド」を描くということは、CGの技術の発展でもあるのだ。


 主人公は、このテーマパークを訪れる2人の兄弟である。弟のグレイは、恐竜が大好きな11歳。だが兄のザックは、恐竜よりも少し年上の女の子たちが気になって仕方がない年頃。彼らの両親は、本国で離婚調停中だ。すでに述べたが、未知との生物の遭遇という話と片親の不在を同時に描くのは、スピルバーグ作品では、鉄板の構造である。ただし、ここでそれが機能しているわけではない辺りは少し引っかかる。『スーパー8』(2011年)におけるJ.J.エイブラムズのように、片親ネタをいじるのは、単なるスピルバーグへのオマージュ表現であって、それ以上の意味はないのかもしれない。


■22年で驚くべき進化を遂げた、テーマパークと遺伝子組み換え技術


 本作は、スピルバーグ以外の監督によるスピルバーグ作品続編の最高傑作である。冒頭ではそう提示した。その理由は、本作ではスピルバーグ的な作品作りの手法を監督のトレボロウがよい意味でうまく取り入れ、しかもそれが成功しているから。最もそれがよく現れているのは、舞台となるテーマパーク「ジュラシック・ワールド」そのものの描き方の部分だろう。


 映画に登場する「ジュラシック・ワールド」は、かつての「ジュラシック・パーク」が、もう単なるサファリパーク程度にしか見えなくなってしまうほどの、最新鋭のテーマパークとして描かれている。


 パークを訪れたザックとグレイには温度差がある。恐竜好きのグレイは、始めからこのテーマパークに夢中だが、ザックは所詮子どもだましとたかをくくっている。パーク内を移動するライドを兼ねた移動手段であるモノレールが園の概要を俯瞰するための手段なのだろう。これは、ディズニーランドのウエスタンリバー鉄道と同じような機能である。ザックは、特に気乗りしていない。


 パークに到着した人々がまず訪ねるのはビジターセンターである。ここでは、CGホログラムなどによる恐竜の基礎知識を受けることができる。22年前の『ジュラシック・パーク』におけるビジターセンターは、単に等身大の恐竜の骨格模型が置かれているだけの地味な施設だったので、大きな進歩である。まだザックは、特に興味を惹かれないでいるが。


 ザックがこのパークが子どもだましでないのに気づくのは、モササウルスのショーのプールである。プールから餌に向かってジャンプする巨大なモササウルスの上げるしぶきを観客がかぶるというショーの場面は、映画の予告編でも流れていた。ザックだけでなく、この辺りから観客もこのテーマパークに夢中にさせられているのに気づく。


 さらには、「ジャイロスフィア」という球形のカプセル型カーに乗って、巨大草食恐竜たちが生活する湖畔を見学するライドも人気がありそうだ。いわゆる動物園の行動展示の恐竜版である。これは、朝イチで「ファストパスチケット」(昨今のテーマパークに導入されている優先搭乗の権利)に並ぶ必要がありそうだ。


 こんな具合に、現代のテーマパークの特徴を細かに知った上で、実際に恐竜のテーマパークがあったらこうつくるというシミュレートを重ねて描写されている。また、これらは、単に映像的な脅かしではない。その後に起こる物語への伏線にもなっているのだ。


 こうした細部の描写へのこだわりは、スピルバーグを彷彿させる部分でもある。スピルバーグが細部へのこだわりを示す例としての真骨頂は、『戦火の馬』(2011年)において、人間と馬の交流以上に馬と戦車の遭遇場面に重きが置かれていたこと、さらにそこでの戦車の動きの緻密さに現れていたように思う。これを意地悪く捉えると、人間ドラマが書けないということの裏返しに見えるかもしれないが違う。あまりにドラマを書けすぎてしまうから、人間以外の機械や異生物にまで人間的なドラマを埋め込んでしまうのがスピルバーグである。トレボロウ監督も、本作において、人間ならぬ恐竜ドラマの描き方で秀でた才能を発揮している。


 今回の「悪役」は、遺伝子操作で生まれた新種の恐竜である。『ジュラシック・パーク』の原作をマイケル・クライトンが刊行したのは1990年。この中で、ヒトゲノムの全塩基配列を解析するプロジェクトが始まろうとしている記述がある(この年にスタートしたヒトゲノムプロジェクトは、2003年に終了)。


 DNA構造の解析がテクノロジーの先端だった時代に描かれたのがシリーズ1作目であるなら、その後、羊のドリー誕生(1996年)などを踏まえ、いまでは遺伝子組み換え技術が当たり前になりつつある時代に『ジュラシック・ワールド』はつくられているのだ。ここにも22年の歳月が......。


 このくらいのネタバレは許して欲しいが、ラストは、「オーガニック」な恐竜と遺伝子組み換え恐竜の戦いになる。ちなみに僕は、アクションの場面に興味がもてない人間で、子どもの頃から、ウルトラマンの怪獣とのバトルシーンになるとすぐに飽きてしまっていた。だが、この映画のバトルアクション場面は、飽きることはなく、惹きつけられっぱなしだった。描かれるのは、極限の戦いの中での恐竜の心と心の交錯。といっても、恐竜に安易なヒューマニズムを当てはめたりするわけではない(ここ重要! 所詮獣。本能以上の行動を描かれたら困るのだ)。気がつくと、再び目頭が熱くなっていた。この監督、スピルバーグ以上に信用できる。


 ああ恐竜は実際に復活させなくていいから、「ジュラシック・ワールド」が実現できないものだろうか。ユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションではなく、トレボロウ監督が本作でつくりあげたそのままのテーマパークが伊豆大島くらいの場所にできたのなら、僕は、年間パスだって買うのだけど。(速水健朗)