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かりゆし58・前川が語る、音楽観の変化とルーツへの思い「何のために音楽をやるのか考え直した」

2015年08月03日 20:11  リアルサウンド

リアルサウンド

かりゆし58

 大らかで豊かなメロディとともに「生命花咲いた」という普遍的なメッセージを持ったフレーズが広がっていくーー。


 かりゆし58のニューシングル『かりゆしの風』は、来年の10周年に向けて、大きな意味を持つ楽曲だ。「音楽をやる意味を見つめ直しながら作りました」(前川真悟)というこの曲はTHE BOOMの「島唄」、BEGINの「島人ぬ宝」などと同じように、バンドの代表曲という立ち位置を越え、日本中の人々に長く愛される楽曲になっていきそうだ。


 今回Real Soundでは前川に単独インタビューを実施。バンド名にも入っている“かりゆし”という言葉をタイトルにした「かりゆしの風」の制作、バンド活動、音楽に対する意識の変化について聞いた。


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■「いつからか『全国で活動できるバンドになる』みたいなことが目標になっていた」


ーー「かりゆしの風」は、かりゆし58にとっても大きな意味を持つ楽曲だと思います。どういうテーマで制作に入ったんですか?


前川:最初から「自分たちのバンド名の“かりゆし”をタイトルに入れる」ということを大前提に考えて作ったんです。“かりゆし”はビールや居酒屋の名前になってたり、沖縄を代表する言葉のひとつなんですよね。もともとは航海の無事を祈る言葉でーー俺らの祖先は海洋民族なのでーー“グッドラック”みたいな意味なんですが「この言葉は自分たちとってどんな意味があるのかな?」って改めて考えることが増えてきて。そのときに「いつの間にか意識が変わってたな」って気付いたんですよね。もともとは故郷に身を置かせてもらって、沖縄の先輩たちの音楽を染み込ませることでバンドを始めたはずなのに、いつからか「全国で活動できるバンドになる」みたいなことが目標になっていて。


ーー自分たちのルーツを再認識する時期だったのかもしれないですね。


前川:そうですね。あと「島の人たちにずっと愛される曲を作りたい」という思いもあったんですよね。喜納昌吉さんの「花」、THE BOOMの「島唄」、BEGINの「島人ぬ宝」を聴くと、沖縄の人はビックリするくらい大きな声で合唱するんですよ。その様子をステージから何度か見たことがあるんですけど、本当に素晴らしいんですよね。「そういう曲はどうあるべきか?」と自分なりに考えて作ったのが今回の「かりゆしの風」なんです。


ーーそういう普遍的な楽曲を作りたいという思いは、以前からあったんですか?


前川:どこかにあったとは思うけど、自分自身が気づいてなかったんじゃないですかね。それよりも「自分の気持ちを伝えたい」とか、コード進行にこだわったりしながら曲を書いてきたというか…。「大事なのはそこじゃない」って気付くきっかけがあったんですよ。BEGINの比嘉栄昇さん、芸人の津波信一さんと家族ぐるみで仲良くさせてもらっていて、今年の3月に沖縄で集まったんですね。津波さん、栄昇さんの息子さんはどちらも15歳で、すごく仲がいいんですけど、栄昇さんが石垣島に戻ることになって、この春から離れ離れになったんですよ。そのお別れ会も兼ねてたんですけど、ふたりはバンドをやっていて、歌を歌ってくれて。それが本当に素晴らしかったんですよ。お父さんの影響かもしれないけど、日々の暮らしの歌だったり、自分たちで作った“第二の校歌”だったり。しかも「目の前にいる人たちを喜ばせよう」という気持ちが込められた歌ばかりだったんです。「何のために音楽をやってるのか、もう一度考え直さないといけない」って思って、それも大きなきっかけになってますね。


ーーその経験は「かりゆしの風」の制作方法にも影響したんですか?


前川:作詞作曲に関しては、楽器を一切使わないで歌いながら作ってみたんです。そのときも沖縄にいたんですけど、朝早く起きて、近所の海で2時間くらいボーッとして、家に帰って作業して、夕方になるとまた海に行って。東京にいるとそういう時間の過ごし方が出来ないんですよね、怖くて。でも、沖縄にいると不思議と恐怖はなくて、気持ちよく過ごせるんです。ドライブしてたら地元のコミュニティFMでBEGIN特集をやっていて、それもすごく良かったり…。「こういう曲を作ってみたい」と思ったら、自然と歌い始めてたんですよね。


ーー沖縄という土地が持つパワーもあるんでしょうね。先日HYに取材したときも「沖縄に拠点を移したのは、のんびりしたペースでやりたいからではなくて、自分たちの感性をいちばん自由に活かせる場所だからなんです」と言っていて。実際、彼らの活動のペースはむしろ上がってるんですよね。


前川:とてもわかります。音楽を作ることが作業ではなくて、ライフワークに変わってくるというか。東京で時間に追われながらやるよりも、さらに良いペースでやれるような気がするんですよね、沖縄は。あと、歌や踊りが好きな人も多いから「こういう歌を作ったら、あの人が喜んでくれるかな」って思う機会も多いし。


■「ひとりの担い手として(沖縄の音楽を)継承していけたら」


ーーなるほど。実際に歌いながら作ったとき、歌詞も同時に出てきたんですか?


前川:そのときに浮かんだものと、後から書いたものが半々ですね。「さあウージが鳴いた鳴いた」のところは最初からありました。必ずしも戦争のことに向けた歌ではないし、“悲観”でも“傷跡を忘れるな”ということでもないんですけど、ちょうどこの曲を作っていた時期に「慰霊の日」があったりもして。自分がとてもいい気持ちで音楽をやらせてもらっていること、ありがたい場所にいられることを改めて実感できたんですよね。自分の家族もいっしょだったんですけど、2歳の息子にとっても「慰霊の日」に平和記念公園にいるっていうのは良いことなんじゃないかなって思って。俺が初めて平和記念公園に行ったのは幼稚園の遠足で、最初の印象は「すごく気持ちいい場所」っていう感じだったんです。自分の子供にも「沖縄の歴史を知らないといけない」みたいなテンションではなく、「お父さん、お母さんとドライブしたな。楽しかったな」という思い出になってくれたらいなって。


ーーそういう沖縄の思い出、風景のなかでたくさんの歌が生まれてきたわけですからね。もちろん「かりゆしの風」もそのひとつだし。


前川:うん、そう思いました。他のバンドと自分たちを比べて「勝った」とか「負けた」みたいなことを気にしてると、音楽が狭く、安くなっていくと思うんです。そういうことではなくて、ひとりの担い手として(沖縄の音楽を)継承していけたらなって。それはモンパチ、HY、ORANGE RANGEも同じだと思うんですよね。先輩にはBEGINがいてくれて、その上の世代には沖縄の島唄を長く歌ってる方たちがいらっしゃるんですけど、その一角に自分たちもいるんだな、と。そのことに気付いたら、ヘンな欲や打算がスッと抜けたんですよ。あと、BEGINの25周年のライブも大きいきっかけでしたね。会場は石垣島だったんですけど、現地のエイサーとかフラ(ダンス)を踊ってる人、吹奏楽部なんかが次々とステージに登場して、BEGINとセッションするんです。それを見て、若い人からジイちゃん、バアちゃんまでが歌ったり踊ったりしていて。そのときに知名定男さん(1950年代から活動している沖縄民謡の歌手)と話をする機会もあって、「音楽は作るものでなくて、もともとあるものを蘇生させるんだよ」って教えてもらったりとか。音楽について考え直す機会が多いタイミングだったんですよね、ホントに。


ーー沖縄の音楽を継承しているという認識は、バンドを始めた頃はなかったですよね…?


前川:そうですね。「先輩はすごい」「若者は稚拙」というだけで、つながりは感じていなかったので。それよりも「県外で活動しないと生活はできない」とか「他のバンドに負けられない」ということがモチベーションにもなっていたし、同時にコンプレックスにもなっていて。フェスですごいバンドを見ると落ち込んだりもしたし、「こういう部分をマネしたら、売れるかもしれない」と思ったり…。


ーーかりゆし58って、他のバンドのマネをしている印象はまったくないですけどね。


前川:それはたぶん、不器用だからですよ。マネが上手くできなくて、それが結果的にオリジナリティに見えてたというか。「おまえらは“上手くいかなかった”と思ってるかもしれないけど、そこにオリジナリティがあるんだ」って教えてくれた先輩もいたんですよね。


ーー「かりゆしの風」にもしっかりと独創性が反映されてますよね。もちろん沖縄の雰囲気はあるんだけど、それだけじゃなくて、バンドのオリジナリティも強く感じられて。


前川:アレンジは「電照菊」「ナナ」などにも関わってくれた関淳二郎さんにお願いしたんですけど、「沖縄の風景が見えるような音にする必要はないと思うんです」って言ったんですよね。沖縄らしさみたいなものが、聴く人にとっての壁になるのがいちばん良くないなと思って。“沖縄の音楽”という言い方も好きではないんですけど、そういうイメージで捉えられるのも良くないですからね。


ーー曲を作ってる時点から“沖縄らしさ”は意識してなかった?


前川:うん、そうですね。これは僕が勝手に感じてることですけど、沖縄の景色、空気のなかでメロディを口ずさむと、自然とああいう雰囲気になると思うんですよ。車を運転して、風を受けながら歌ってると「先人たちもこんな感じで沖縄音階と言われるものを作り上げたんだろうな」って思ったり。


ーーまさに土地が生み出す音楽ですよね。この先もずっと歌って、「かりゆしの風」を育てないといけないですね。


前川:そのつもりでいます。そのことをいちばん実感したのは、「島ぜんぶでおーきな祭(第8回沖縄国際映画祭)」のフィナーレを任せてもらったときなんですよね。SPEEDのhiroちゃん(島袋寛子)やイトキンにも参加してもらったんですけど、「ハイサイおじさん」とスカアレンジでやった「花」がとにかく盛り上がって、お客さんがみんな踊ってくれて。そのときに会社のスタッフの方から「生まれ育った場所の歌がこんなにも楽しく受け入れられて、盛り上がる街は他にないよ」って言われたんですよね。そのときに「やっぱり、そういうことなんだな」と改めて思って。そうやって自分のテンションが変わると、周りの反応も違ってきたんですよね。


ーーどういうことですか?


前川:僕らはずっとアウェイを感じていたというか、どこにいても孤独感みたいなものがあったんです。ロックフェスに出たときは「そこまでガッツリとロックをやっているわけではないしな…」って感じだったし、レゲエ系のイベントに呼ばれても「ちゃんとレゲエを知ってるわけではないから」という気持ちがあって、混じり切れなかったり。でも、それはこっちのカンチガイだったんですよね。最近も湘南乃風の若旦那さんが呼んでくれたり、難波章浩さんといっしょにやったときもMCで俺らのことを話してくれたりして。こっちが自分の内側に閉じこもってなければ、活動の幅はどんどん広がるんだなって。


■「バンドを続けていくカタチが決まった」


ーー「かりゆしの風」の制作を通していろんな気付き、いろんな広がりがあったと。そういう大事なシングルに「Fire Chicken」(MASTEN-LOW)が入ってるのも、かりゆし58らしさかも。これは前川さん以外のメンバーがライブで披露している別バンドの曲なんですよね。


前川:そうです(笑)。こうやって好きなことをやるのも、ホントにいいことだと思うんです。あいつらは取材とかで「音楽をやっている意味は?」とか「音楽を通して何を伝えたいと思っていますか?」と聞かれても、言葉に詰まるんですよ(笑)。それくらいピュアなところで音楽をやってるのもあいつらの魅力だと思うし、そのおかげで身の丈を忘れずに活動が続けられてるんじゃないかなって。「Fire Chicken」も「好きな曲を自分たちなりに体現したい」っていうだけですからね。日本語の歌詞がめんどうだからって、途中から英語になってるし。しかも文法がめちゃくちゃで(笑)


ーー自由ですね(笑)。


前川:(笑)。1行だけ、文法的にも成り立ってる歌詞があるんですけど、それが「時代遅れの奴らの雄叫び」みたいな意味なんです。そういう偶然もいい感じだなって思いますね。


ーーメンバー4人が揃ったときの雰囲気も10年前とぜんぜん変わらないですよね。


前川:幼なじみ同士でやってるのも大きいと思いますけどね。沖縄のバンドって、みなさん変わらないですよ。HYもORANGE RANGEもモンパチもBIGENのみなさんも、ぜんぜん訛りが抜けないし(笑)。ちょっと丸くなったりはするけど、雰囲気がガラッと変わる人っていないですよね。


ーーかりゆし58の場合、リラックスして音楽に臨めるようになったのは大きな変化じゃないですか? デビューからしばらくは、レコーディングのたびにストレスを溜めまくっていた印象もあるし。


前川:取材がグチを吐く場所みたいになってましたからね(笑)。「自分たちはこうなりたい」「こういうふうに表現したい」という気持ちが強かったんですけど、当然、足りないものがたくさんあって。それを自分のせいにしたり、仲間のせいにしたり…。正論で問い詰めたこともあったんですよ、俺が。「趣味でバンドをやってるんならいいけど、レコーディングのためのスタジオにもお金がかかってるし、CDを聴いてくれる人もお金と時間を使ってる。だったら、ひとつでも良い音を増やすために努力しないとダメなんじゃないか」って。


ーー反論しようがないですね、それは。


前川:そうなんですよね。27、28歳くらいのときに「人を正論で追いつめるのは良くないな」って気付いたんですけど、その後、のんびりしすぎてただの烏合の衆みたいになった時期もあったし。いろいろありましたね、ホントに。


ーーこの先、バンドにとって一番の時期を迎えられそうですね。


前川:と思ってます。いまは良いバランスだし、バンドを続けていくカタチが決まった感じがしてるので。(森朋之)