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興行収入好調の『海街diary』は、新しいプロデューサーシップの到来を告げるか?

2015年08月03日 15:41  リアルサウンド

リアルサウンド

海街diary

 『海街diary』の興行収入が20億円を超える見込みである。6月13日より公開中のこの映画は、吉田秋生の同名マンガ(2007年、小学館刊)を原作に、刊行当初から映像化を望んでいたという是枝裕和が脚本と監督を務めた。主演の四姉妹には、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず。フジテレビを幹事会社として、原作版元の小学館、配給のギャガと東宝の4社で製作委員会が組まれている。是枝裕和監督の前作『そして父になる』(2013年)もほぼ同様のパートナー構成で、やはりフジテレビを幹事会社に、主演の福山雅治が所属するアミューズと、配給元のギャガが入り、興行収入は32億円を記録した。


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 そしていま、もう一本好調なのは、5月30日より公開中の『あん』である(配給=エレファントハウス、最終興収見込み3~4億円)。こちらはドリアン助川の同名小説を原作に、河瀨直美が脚本と監督を務めている。主演は永瀬正敏と樹木希林。フランスのComme des Cinémas、ドイツのTWENTY TWENTY VISIONとZDF-ARTEの出資による、日仏独の合作映画である(なおComme des Cinémasは、河瀨直美監督の前作『2つ目の窓』(2014年)ほか、公開が待たれる黒沢清監督『岸辺の旅』など、多くの日本映画に出資している)。河瀨映画のフランスでの圧倒的な評価が、このような製作体制を実現させたことは容易に想像できる。日本の中規模映画において、日欧合作というケースはまだまだ少ないように思われるが、国内で資金調達の難しい映画が、海外(とりわけ欧州)にプロダクションを求める例はアジアにも多くあり、これにならう製作例がもっと現れてよい。


 是枝裕和と河瀨直美は、ともにカンヌ国際映画祭で評価されてきた監督であるが、両者がともにドキュメンタリーからキャリアを始めている事実も興味ぶかい。テレビマンユニオンに所属していた是枝裕和はテレビドキュメンタリーから、河瀨直美は『につつまれて』(1992年)や『かたつもり』(1994年)などパーソナルなドキュメンタリー映画から歩みを始めている。90年代半ばに劇映画へと向かった両者の作品は、ドラマにドキュメンタリー性をもたらすことで、当時の大予算映画とは異なる独自のリアリズムをそれぞれに目指していた。けれども、カンヌ国際映画祭で柳楽優弥が最年少で主演男優賞を受けた『誰も知らない』(2004年)が9億円のヒットを記録したほかは、いずれも興行的にふるうことはなかった。だから日本独自の興行セオリーに則った製作委員会方式において、『そして父になる』と『海街diary』が多くの観客を集めている事実は、改めて強調されてよい。


 朝日新聞の石飛徳樹記者は、「近年の日本映画はテレビ局主導のメジャー作品と低予算のインディーズ作品に二極化している」とし、「前者は国内で当たることを至上命令に作られ、カンヌなど海外で注目される作品はほとんど後者から生まれてきた」とした上で、『海街diary』の商業性にふれて次のように書いている。


 「1950年代の日本映画界は、溝口健二や小津安二郎、黒澤明ら巨匠が名作を連打していた。彼らはいずれも、メジャーの会社で、当時のスターを魅力的に撮る“商業監督”だった。」(「ヒットと芸術、両立に道筋 カンヌ、華やいだ日本映画 二極化脱し新たな地平へ」、朝日新聞、5月29日)


 これはいささか誤解を招きやすい記述である。日本の映画産業が二極化しているのはすでに各所で指摘されている通りであるが、けれども日本映画の黄金時代と呼ばれ、1958年に11億人の映画人口を記録した1950年代当時と現代では状況がまったく異なるのは自明である。溝口健二や小津安二郎や黒澤明が「スター」を起用して「名作を連打」しえた背景には、大予算映画と低予算の添えもの映画(プログラムピクチャー)が二本立て、三本立てで公開される大量生産システム、および映画会社専属のスターシステムが(とりあえずは)有効に機能していた歴史がある。いわば大予算と低予算の「二極化」をそれぞれの社内で引き受けていたのであり、巨匠の「名作」の影には膨大な添えもの映画が存在していたことを忘れてはならない。スタジオシステム崩壊後にあらわれた製作委員会方式は、出資に特化した企業をもつことのなかった日本における、もっともリスクの少ない合理的な製作形態なのであり、出資する出版社や芸能事務所などにとっては原作や俳優を売りだすための「投資」でもある。


 既存の映画製作システムがなしくずしに崩壊してゆくなかで、いち早く状況に対応したのは1973年に映画調整部をもうけた東宝であり、1969年に『御用金』で映画製作を始めたフジテレビである。この2社が現代の日本映画を牽引していることはいうまでもない。プロデューサー主導にもとづく一年を通じた番組編成において、ドラマからバラエティまでを組んできたテレビ局が、映画産業のかつてのシステムを継承してきたともいえる。


 そうして同業各局に先鞭をつけたフジテレビの映画事業が、同局のテレビシリーズ『踊る大捜査線』(1997年)の劇場版で、日本の映画産業に風穴を開けたことはまだ記憶に新しい。シネコンやネットの普及などの時期を経て、第1作(1998年)が興収101億円、第2作(2003年)が同173億円と文字通り桁違いのヒットを記録した。テレビと映画の境界をなかば無効化させ、日本映画劣化論の象徴となるなど、その功罪はさまざまに議論されてきた(日本映画チャンネル編『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』、幻冬舎新書)が、日本映画に観客を呼び込む素地を作ったのは確かである。2006年には日本映画と外国映画のシェアが逆転した。


 これを仮に日本映画史のひとつのエポックとするなら、それからまだ10年と経っていない。『海街diary』は、現代のテレビ局主導の製作委員会方式における最も豊かな作例のひとつであると私は確信しているが、いま重要なのは、予算規模の二極化を、そのまま娯楽性(商業性)と芸術性(作家性)の二極化として語るべきではないということである。インディーズでも娯楽作品は多々あるし、またテレビ局主導でも良質な作品はいくつも存在しうる。予算の多寡に質的断絶を見て取ることは頽廃でしかない(そもそも娯楽と芸術の線引きはきわめてあいまいなものである)。商業性と作家性という二元論のくびきから、いま離れる必要がある。望ましいのは、純文学と大衆文学のあわいをゆく中間小説ならぬ「中間映画」の充実であり、石飛記者が先の文章の表題を「ヒットと芸術、両立に道筋」としていることは、この意味で解さなければならない。


 テレビから映画へ「逆輸入」されたプロデューサーシステムがいま再構築の段階にあるのだとするなら、それはひとりの固有名が突出するような辣腕の出現を意味するものではないだろう。『そして父になる』では、まさに『踊る大捜査線』を手掛けた亀山千広プロデューサーの名前がクレジットされていたが、『海街diary』にその名前はない。このことが、たとえば新しいプロデューサーシップの到来を告げるものであるとすれば、これからの日本映画は新しい局面を開いてゆくだろう。(萩野亮)