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ガザの子ども見守る医師「戦争は社会的弱者がいちばん苦しむ」

2015年08月02日 03:00  週刊女性PRIME

週刊女性PRIME

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混乱が続くパレスチナのガザ地区。空爆で破壊された街で、家族や友人、家を失い途方に暮れる市民。明るかったその街からは笑顔が消えた。無残なガザの現状を目の当たりにしてきた清田医師に話を聞いた――。 「今回の戦争がいちばんひどかった。だけど、いままでの戦争もよく覚えている」 15歳の少女、イマンは、悲しみをたたえた目で、2014年の戦争をそう振り返る。家を空爆され心に傷を負った12歳の少年、モハメドは、 「逃げる途中、いくつもの死体を見た」 と、ぽつりと漏らす。 戦後70年の日本における戦争体験者は高齢者ばかりだが、中東のパレスチナ自治区ガザでは、子どもたちがみな、戦争体験者だ。 今世紀に入ってからも、’06年、’08~’09年、’12年、’14年、と4回の戦争が勃発している。冒頭の少年少女の声は、昨年夏の戦争時の体験談だ。50日間に及ぶ戦争で市民約1600人が死亡。そのうち約500人は子どもだという。 パレスチナ難民を救済する国連組織、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長を務める医師の清田明宏さん(54)は当時、ガザ地区を3度訪問。その際の記録を今年5月、写真絵本『ガザ 戦争しか知らないこどもたち』(ポプラ社)にまとめた。 ガザ地区は、東地中海に面した東京23区の5分の3ほどの広さの都市で、周辺は8メートルの高さの壁などに囲まれている。検問所を通らなければ出入りができない収容所のような地域に、約180万人が暮らしている。そこでどんな悲劇が繰り返されているのか、日本の新聞が多くの紙面を割くことはない。 「まずは知っていただきたい。パレスチナのことを。難民がどんな生活をしているのかを。そして戦争が、住民にどんな影響を与えたのかを」 そんな思いを、清田保健局長は自著にしたためる。思いをかたちにしたポプラ社の担当編集者はこう話す。 「昨年8月の停戦中に2回、停戦後の9月に1回、清田保健局長がガザを訪れた際に撮影した写真と手記がもとになっています。出版した5月末から約2か月で7割ほど売れています。子どもが読めるよう漢字にはふりがなをつけました」 写真絵本の著者の印税は全額UNRWAに寄付される。 ガレキだらけの現地の写真、子どもたちの不安げな表情、砲撃された保健所や学校、壁も天井も吹き飛んだ家に暮らす人々……残酷な現実が、写真に刻まれている。子どもたちの心から消えることのない、戦争体験。 「避難所でカウンセリングを受ける子どもたちの様子を、目にしました。10歳前後の16人が集まり、自分が戦争中に見た光景を描き出すんです。空爆の様子や人が倒れている様子など……。最後に"死体を見たことがある?"という質問に、12人が手を挙げました。子どもが、道端に転がる死体を目にする社会でいいのか、と強く思いました」 戦争は街を壊す。人を壊す。そして、子どもたちの心さえも、容赦なく壊す。清田保健局長が「子どもたちが心を病むほど大変な状況に追い込まれている」と気づいたのは、’12年の戦争の時だったという。 「戦後1週間後、予防接種のために子どもを連れて保健所に来ていたお母さんたちが、"うちの子は何か以前と違う。夜寝ない、夜泣きが激しい、抱きついて離れない、おねしょを繰り返す、ほとんど何も食べない、表情が変わらない"などの症状を訴えるのです」 強い危機感を抱いた清田保健局長は子どもの症状を統計化し、何ができるか模索を始めた。 「いちばん悲惨だと感じたのは、子どもから表情がなくなると悩んでいたお母さんの話です。お子さんは10歳くらいの男の子。とても仲よしの子の家が空爆で破壊され、友人の死体を見てから変わってしまった。笑顔が消え、ほとんど反応が返ってこないと、お母さんは嘆いていました」 戦争しか知らない子どもを増やすな ’12年の戦争は毎日、空爆に襲われたものの、1週間で終わった。’14年の戦争はひと月以上続き、前回以上に、街全体が破壊された。 新たな戦争は、復興を台無しにする。人々の心から、わずかばかりの希望も失せる。冒頭の少女、イマンの話では、清田保健局長が衝撃を受ける言葉が飛び出したという。 イマンの母親の「ガザの子どもたちも、平和で自由のある世界で、世界中のどこにでもいる普通の子どものように、日々を楽しんでほしい」という言葉を受け、イマンは、 「このままならガザを出て、ほかのところで勉強したい」 と言ったという。 「今までの戦争の時は、ガザを出たいという声はほとんど聞かなかったのに、’14年の戦争後は多くの人が出たいといいました。イマンさんのご両親も、娘の発言にびっくりして言葉を失っていました」 "これからまたみんなで頑張ろう"という合言葉がなくなるほど、生まれ育った土地に平和が根づくことはないと、希望を手放してしまったのか。 「復興されない、ということは、ビルが建て直されない、ということなどよりも、社会が復興されない、そして希望が復興されないことなんだと痛感していますよ」 という清田保健局長は、世界のあちらこちらで日本が尊敬されている理由を耳にしてきたという。そのひとつは、 「"広島・長崎の原爆から立ち直ったこと"だと、いろんなところで言われます。戦争復興をきちんとして非常に厳しい状態から国を再興した」 日本は戦後70年間、平和を享受してきた。しかし、国会では、安保関連法案が衆議院を通過し、「戦争反対」を叫ぶ声が大きくなっている。 「罪のない子どもさんを悲しませる、苦しめるようなことはよくない。戦争しか知らない子どもたちをつくるような社会は、絶対に避けなければいけないと思っています」 と清田保健局長は、恒久平和を願う。 「平和が失われた時、いかに人々が傷つくか。みんなつらい思いをしますが、子どもや社会的弱者がいちばん苦しむことを現地で感じます。わずか6歳で3回も戦争を経験している子どもがいる。こんな状況を許してはいけないし、もうほかに増やしてはならない」 ガレキの中で暮らしながらもガザの子どもたちは’12年から毎年、東日本大震災のあった3月になると、日本の人々への共感と、これまでの支援・援助への感謝を込め凧揚げをする。日の丸をデザインした凧が、砲弾の飛ばない空を泳ぐ。 また今年3月8日には、被災地の釜石で日本の子どもたちが凧を揚げた。戦争に苦しむガザの子どもたちを思って。ガザの人々には、平和国家・日本への憧れが強いという。 「あなたの子どもを、どう育てたいか」─そう清田保健局長が尋ねた時、こんな言葉が返ってきたという。 「あなたの国(=日本)の子どものように、ただ平和に」 「ハッとしましたね」と清田保健局長は目を開いた。 凧を揚げ合ったガザと日本の子どもたち。彼らが安心して両国を訪れられるような、明るい未来を今、目指したい。